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宙へ墜落したノイズ

作家であり郵便飛行士であったサン=テグジュペリは、夜間飛行の晩の景観、上空から見おろす平野のそこここに輝く灯りについて「あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた」と書いた。闇が支配する夜の世界で、家々の灯りはそこで人が生活していることの証明となる。わたしはそのことを、夜中、窓の外で静寂を破る電車の音を聴き、遠ざかっていくその光の尻尾をぼんやりと見送りながら考える。

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぷつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」(『人間の土地』)

わたしはひとつの「ともしび」として、あの電車に乗っているたくさんの人々と、かつてサン=テグジュペリが感じていたような奇蹟を共有できているだろうか。それともそのような期待は、この時代にあっては分断されるほかない儚い感傷にすぎないだろうか。彼が郵便飛行機を「パイプオルガンの歌」に喩えるとき、それはただ物を遠くへ届けるだけの道具ではなく、ときに「最純粋な響き」を発しうる楽器と化した。そう思ってみれば、深夜の線路を遠ざかっていく電車の音に感じるそれも、ほとんど楽器のような響きを帯びている……ような気がする。

けれど、これはけっして特別な感覚ではないはずだ。たとえばわたしの実家は川のすぐ側に建っていたが、雨が降った日の夜など、勢いを増した川の音が眠りについた身体に染み入るように聴こえてきた。音に集中しているときは、まるで自分の身体がひとつのコップになって、いつまでも水を注がれつづけているような感覚さえした。それを嫌だと思ったことはなかった。むしろそのノイズが、幼いわたしにとっては子守唄のような役割を果たした。したがって東京へ引っ越すときも、音がまったく聴こえない場所へ住むつもりはなかった。電車の音がかすかに響くくらいがちょうどよかった。

昨年神戸市で、幼稚園の新設をめぐって「子どもたちの声」が騒音として問題視されていたことを知って、だから少し驚いた。ネット上の反応をみるかぎり、大半のひとは幼稚園を相手取って裁判を起こした男性を批判していたが、子どもたちの声が生活の妨げになることに対して理解を示す声も皆無ではなかった。調べてみると保育園や幼稚園の建設時には騒音トラブルが避けられないのだという。

しかし子どもの声を騒音として処理することに羞恥しない住民がごく一部とはいえ存在するような環境で、子どもたちはどのように過ごせばいいというのだろう。このような事例は近年議論されている諸問題――クラブの深夜営業規制をめぐる風営法問題や情報社会論における「環境管理型権力」に関する諸問題――とも無縁ではないように思われる。音楽評論家の磯辺涼が「踊ってはいけない国」という言葉で表現するように、公共空間における音の管理は人々を分断させる機能を持ちうるからだ。

権力と音楽の紐帯はいまに始まった話ではない。ジャック・アタリは1977年の著作で権力が聴取に取り憑かれるさまを論じているが、「雑音を独占し得るか否か」が権力にとって死活の賭けになるのは、ノイズには社会秩序を生成し/破壊する二面性が備わっているからだ。世界は音響によって聴き取られうる。したがって近代以降の国家は、聴取の感性を監視し、手なずけ、抽象化し、去勢しようとしてきた。

神戸市で起きた「子どもたちの声」をめぐる問題は、このようにして飼い慣らされてきた市民の感性の暴走とみることもできるだろう。わたしたちは近代化の過程でノイズを聴取する感性を奪われてきた(あるいは、みずから衰えさせてきた)。しかし、この世界において唯一死のみが静寂であるならば、生とはもっと騒々しいものであるはずではないか。20世紀の前半を生きたサン=テグジュペリの著作を読み返すと、かつて郵便飛行機が飛び交っていたころの空に、死の静寂さと生の騒々しさとがみずみずしく広がっていることを感嘆せずにはいられない。

『夜間飛行』で郵便飛行士ファビアンが死に直面するのも、だからこそ発動機が騒々しく断末魔をあげる暴風雨のただなかではなく、「異様な静けさ」が広がるその上空においてでなければならなかった。遭遇してしまった嵐のなか、乱気流の切れ目に二、三の星が輝くのを見たファビアンは、それが死へと通じる陥穽であることを知りながら、宙へと墜落することを選ぶのだ。

宙においてのみ音は完全に潰える。ファビアンが、そしてサン=テグジュペリが日々飛行していたのは、生=大地と死=宇宙のあいだに置かれた空間であり、それはまた、いわば生=ノイズと死=無音のあいまの中間地帯であった。彼らは上空から地上の「ともしび」を聴取していた。なぜならそれこそが中間地帯をさまようみずからの生を大地と結びつけているものだったからだ。

子どもたちの声がノイズなのかどうかなどという問いにもはや意味はない。川の音や電車の音が聴くひとにとって騒音にも子守唄にもなるように、子どもたちの声をノイズとして排除しようとする者がいる、ただそれだけのことにすぎない。けれど子どもたちの声が街の「ともしび」として価値を有し得るならば、その声を排除することの是非はもっと丁寧に議論されていい。たとえある音をノイズとして感じるひとがいようと、そのことが即座に規制へと結びつく社会にいったいどのような「ともしび」が宿るというのだろう。ノイズの語源は「船酔い」にあるというが、船酔いのように人々が不快を感じることへの規制を超えて、「酔う」ことそのものの規制にまで介入しようとしつつあるのが、この社会の現状ではないだろうか。

だがあらゆるノイズを規制し尽くすことなど不可能だ。たとえば昨今のデモの盛り上がりは政治的なノイズの規制に対する市民の側からのノイズの発露として捉えることもできるだろうが、すなわちそれはわたしたち自身の身体がひとつの楽器であることの雄弁な主張でもある。かつてジョン・ケージがハーバードの無響室、つまり一切の音を遮断した空間で「音が聞こえた」と答えたのは、なにもふしぎなことではない、わたしたちの身体が音を発しているかぎりどのような場所においても音楽は死なないという、当然の事実にすぎないのだ。

他人のお腹に耳をあてたことのあるひとなら、皮膚の下から聴こえてくる音の豊かさに驚いたことがあるだろう。心臓や血流、腸の音が複雑に絡みあうその音響をノイズのように感じたならば、その感性はおそらく間違っていない。知っているひとも多いかもしれないが、幼児にとってテレビのホワイトノイズは胎内で聴いた音とよく似ているのだそうだ。ときに騒々しくもある川の音や電車の音に安らぎを覚える感性も、考えてみればふしぎなことではないのだろう。わたしたちの身体にはもともとそのようなノイズに安らぎを感じる性質が備わっているのだから。

「ブエノス・アイレス無電局は一心に、雷鳴の雑音に交じって聞こえて来る機からの通信に耳を傾ける。夜というこの母岩の下で、金の鉱脈のような音波は消え消えになる。夜の数々の障害物に向かって、盲滅法に放たれた矢のような、郵便機から聞こえてくる電波の小声の歌に、なんというせつない寂しさが含まれていることだ」(『夜間飛行』)

宙へ墜落した郵便飛行士は、最後の瞬間、自分の身体が発する音をどのような思いで聞いていただろう。すでに失われてしまったその音響を、サン=テグジュペリは『夜間飛行』という小説に封じ込めた――死の静寂さと、生の騒々しさとともに。わたしたちがいまこの短い作品を、まるで古いカセットテープを再生するようにいつでも聴くことができるというのは、このこともまたひとつの奇蹟といっていいのかもしれない。その音響にどこか寂しさが含まれているように感じたとしても、おそらく気のせいではないはずだ。

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