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ミクの声、ドラえもんの青

あなたは最近、初音ミクの声を聞いただろうか。07年に「どんな歌でも歌える歌手」として誕生した歌姫は、しかしいまその存在感を失いつつある。音楽ジャーナリストの柴那典は初音ミクをめぐる現象を60年代と80年代の「サマー・オブ・ラブ」につづく「サード・サマー・オブ・ラブ」と表現しているが、それがムーブメントである以上「終わる」という宿命からも避けられないと指摘している。

だがこれはおかしな話だ。初音ミクはそのコンセプトからして「完璧」な存在ではなかったのか。ボーカロイドを開発したヤマハは「コーラス隊があと三人欲しい」「頼んだ歌い手が都合が付かなくなってしまった」といった問題を解決してくれる都合のいい存在、「何時間でも何回でも正しい音程で文句一つ言わずに歌って」くれる理想のパートナーといったコンセプトが当初の開発目標であったことを告白している。「絶対に失敗しない歌手」は音楽の作り手にとって長年の夢だった。その夢の技術がようやく具現化したのだ。ではなぜミクのムーブメントはこれほど早く失速しなければならないのか。

SF作家のシオドア・スタージョンに「きみなんだ!」という短篇がある。主人公の平凡な男性はドライブの途中でひとりの女性と出会うが、彼女は彼が長年思い描いていた理想の女性像そのものだった。ふたりはすぐさま愛し合うようになり、彼は完璧に尽くしてくれる理想の彼女に身も心も惹かれ、趣味のクルマも夜勤の仕事もやめてしまう。彼女といられる時間をなによりも優先すべきと考えたのだ。しかしそうしているうちに親しかった友人とは疎遠になり、仕事も失いかけてしまう。彼は気づけばなにもかもを失いつつある自分に愕然とする。どうしてこんなことになったのか……その原因は明白だった。彼は完璧な彼女と、その完璧さゆえに別れることを決める。一目惚れした理由も別れるに至る理由も、ともに完璧すぎる「きみなんだ!」というわけだ。

この完璧すぎる女性の存在は、アンドロイドのような存在が内包するある種の限界を寓意している。いうまでもなくアンドロイドは原理的に失敗を知らない存在だが、その完璧さゆえにときに恐れられもする。機械と人間の関係をめぐるこのような想像はSFでは幾度となく描かれてきたが、スタージョンの「きみなんだ!」もその変奏のひとつとして読み解くことができるだろう。

初音ミクも同じ限界を抱え込んでいる。彼女がボカロP(プロデューサー)から愛される理由は、そのまま嫌われる理由とも重なりうるからだ。たとえばボカロPとしてデビューしたsupercellのryoは、2012年のインタビューにおいて、初音ミクと作り手の関係性が時間の経過とともに変わってきていることを証言している。彼がそのころ発表した曲「ODDS & ENDS」では、初音ミクを使って有名になったボカロPがやがてミクを嫌うようになり、「もう機械の声なんてたくさんだ 僕は僕自身なんだよ」と独白するに至る心情の変化が綴られ、共感と話題を集めた。どうせミクのおかげで有名になれたんでしょうという揶揄に悩むボカロPは多い。あまりにも完璧で人気者のミクが、その完璧さと人気さゆえにプロデューサーを傷つける。アンドロイドにとってそれはあまりに悲劇的な結末ではないか。

ところがこのような結末を巧妙に回避し、長年にわたり人々から愛されつづけているロボットが存在する。ご存知「ドラえもん」である。

ドラえもんは急速に発展を遂げる20世紀の日本を舞台に、未来の技術の到来という夢と、それが発端となり起こるいくつものドラマを生みだしつづけてきた。だがここで疑問には思わないだろうか。大抵の脚本では、のび太が秘密道具を悪用することでかえって窮地に立たされ、ドラえもんに助けを求めるところで終わる。いったいなぜのび太は道具を正しく使わないのか。のび太は今週の失敗を教訓に、次週こそはうまくやってやろうなどとは考えないのか。

もっともその理由を答えるのは簡単である。のび太が道具を使いこなせるようになってしまえば物語はそこで終わってしまうからだ。のび太の成長を見届けてしまえばドラえもんは未来に帰らざるを得ない――しかしこれは果たして「理由」と呼べるのか。端的にいってのび太が失敗しつづけるのは失敗を教訓にしないからだ。しかし私たちはのび太が失敗を教訓にできない「事情」は説明できても、その理由を答えることはできない。なぜならそこに理由など存在しないからだ。ドラえもんが続くかぎりのび太は原理的に失敗をしつづけなければならない。

ところであなたはドラえもんがなぜ青いのか理由を知っているだろうか。ドラえもんはもともと黄色だった。それが青に変わってしまったのは、両耳をネズミに食べられ、丸くなってしまった頭をガールフレンドに笑われ、そのショックから立ち直ろうと「元気の素」を飲もうとしたがあやまって「悲劇の素」を飲んでしまったからである。「悲劇の素」の効果で三日三晩泣きわめいたドラえもんは、四日目の夜明けとともにみずからの身体が青くなってしまったことを知る。黄色い塗料が剥がれてしまったのだ。

しかしドラえもんが青い理由はもうひとつ存在する。じつは連載を始める際、雑誌の扉ページの背景が黄色、タイトル文字が赤色になることがすでに決定されていたために、三原色の最後の青色をドラえもんの色としなければならなかったのだという。つまり「悲劇の素」のエピソードはその整合性を取るために事後的につくられたストーリーにすぎない。ドラえもんはあるエピソードがあったから青くなったのではなく、青くならなければならない事情があったためにエピソードを用意しなければならなかったのだ。

これは創作の条件を考えるうえで興味深い事例である。ドラえもんが青くなければならない理由など存在しない。しかしそのことでドラえもんの魅力が損なわれることはない。ドラえもんは『ぼくドラえもん』という曲のなかで「あたまテカテカ さえてピカピカ それがどうした ぼく ドラえもん」と快活に歌っている。ネコ型ロボットとして生まれたにもかかわらず「悲劇の素」によってアイデンティティを失ったドラえもんは、しかしその失敗を「それがどうした」と笑い飛ばすのだ。なんとも人間くさいロボットではないか。ドラえもんがいまのドラえもんになるためには、「元気の素」と「悲劇の素」を取り違える失敗が不可欠だったのではないかとさえ思わずにはいられない。

この話から個人的に連想するのは、初音ミクが「ネギ」を持った日のことだ。発売からわずか5日目に投稿された動画のなかで、右手に持ったネギを振りながら歌うデフォルメされたミク(はちゅねミク)が人気を呼び、「ミクといえばネギ」のイメージが定着してしまった。ファンのなかには「歌姫にネギなんて似合わないじゃないか」と拒否反応を示す者もいたかもしれない。たしかに未来からおとずれた「完璧なヴァーチャルアイドル」がコミカルにネギを振る姿はかなり奇異に映る。少なくとも開発元はこのようなミクの「変異」を予期してはいなかっただろう。

だがボーカロイドファンの大半は「ネギを振る初音ミク」を受け入れた。「都合のよい理想のパートナー」として開発されたミクだが、当初想定されていた使用法とはかけ離れた使い方を次々再開発されていくことで、ダンスやイラスト、コスプレなどさまざまなクリエイションを呼び込むハブとして機能し始めた。初音ミクがムーブメントたりえたのは初音ミクが完璧な歌手だったからではない。「完璧な歌手」というイメージを裏切る「失敗」もまた彼女の成長を支えた要因のひとつだったのだ。

渋谷慶一郎と岡田利規のコラボレーションから生まれたオペラ「THE END」は、その意味で初音ミクの新たな「失敗=変異」として記録されるべき作品だろう。「死なない身体の死」というテーマ性自体はともすれば陳腐なものとなりかねない。しかし、にもかかわらずここで演じられる初音ミクの「死」がきわめて刺激的なのは、渋谷と岡田のふたりにとってのミクが「命令すれば容易く死んでくれる」ような従順な存在ではないからだ。「THE END」のミクはもともとのミクより遥かに挑発的である。詳細に論じるには字数が足りないが、簡潔にいってしまえばそこでは生と死とが宙吊りにされ、彼女はみずからの再生を観客の手に委ねてしまうのだ。

初音ミクの曲はすべて、Pがミクのために作曲し、そしてそのPのためにミクが曲を歌うという循環関係を孕んでいるが、それは「THE END」においても例外ではない。オペラのクライマックスで初音ミクは死へと身を捧げながら、他方で死の側から観客へ歌いかける。生と死が溶け合う循環のなかで「死んでるように見える? それとも眠っていると思う? それはあなたが決めればいい どっちもそんなに変わらない」というメッセージが歌われる。このときミクはもはやただのボーカロイドではなく、別のなにかに変異している。

ロボット/ボーカロイドは死を恐れない。だがもし彼らが恐れるものがあるとすれば、それを「失敗」と名指すことはできないだろうか。そしてじつはその失敗こそが私たちと彼らを循環し繋いでいるのだと教えることはできないだろうか。のび太が失敗しつづけるのはのび太の失敗こそがドラえもんの存在意義を支えているからだ。人間と機械のあいだに生まれるこうした循環関係を初音ミクが歌う「ODDS & ENDS」と「THE END」はともに悲劇の曲でありながら、けっして陳腐な悲劇で終わることはない。20世紀に生まれたドラえもんが悲劇を笑い飛ばしたように、21世紀のヴァーチャルアイドルは悲劇を希望に変えて歌いあげる。 そのような変異があるかぎり、彼らに結末がおとずれることはない。

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