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宛て名のない手紙 『彼女が消えた浜辺』について

故郷へ帰ったあなたに手紙を書こうと思ったとき、わたしはあなたの名前を聞いていなかったことにいまさら気づきました。あれだけ長い時間を過ごしたのに、わたしはあなたを本名で呼んだことはなかったのですね。宛て名がなければ手紙は届かない。ポストに投函しても意味がない。にもかかわらず、それでもわたしはいまこの文章を書いています。なぜでしょうか。

あなたとはたくさんの映画を一緒に見ました。そのなかには、あなたが生まれた国の映画もありました。生まれた国の映画であるにもかかわらず、むしろそれゆえにこそ、政治的な事情からあなたの故郷では見ることの難しい映画もありました。わたしにとって映画は休日を過ごすための趣味のひとつにすぎなかった。でもあなたにとってはそうではなかった。食い入るように画面を見つめるあなたにとって、映画はそれそのものが自由の表象だった。

アスガー・ファルハディの『彼女が消えた浜辺』を覚えていますか。テヘランから浜辺の家へ休暇を過ごしにきたグループがいて、そのひとりで結婚に失敗したアーマドは、リーダー役の女性セピデーから保育士のエリを紹介される。ところが休暇の二日目、海で子どもが溺れあやうく死にかけると同時に、エリは忽然とすがたを消してしまう。子どもを助けようとして海で溺れてしまったのか、それともみなに黙ってどこかへ去ってしまったのか。一同がエリの行方不明に揺れるなか、彼女の婚約者が浜辺の家をおとずれ、女性の遺体が海からあがったと連絡も入り、映画は終わりを迎える。

この映画の最初のシークエンスでカメラは郵便ポストのなかを映しています。暗闇のなか、画面の上のほうから光が差し込み、街中の喧騒が聴こえてくる。外から手紙がいくつも投函される。けれど光が届かないポストのなかでは、投函される手紙を読むことはできない。観客はそこで極度な不自由の感覚を強いられる。なぜこのようなシーンが最初に置かれたのでしょうか。

郵便とはあるひとから相手へと手紙を届けるための仕組みです。郵便局は手紙を受け取るけれど、その中身を読むことはしない。途中で読まれないという条件があるから郵便は成立している。ところがあなたの国では、手紙はつねに検閲の危険性に晒される。読まれるかもしれないという危惧は、手紙からもともとの存在意義を奪い、去勢してしまう。したがって郵便ポストの内側から外の光を眺めるわたしたち観客とは、検閲を恐れる手紙たちに他ならない。監督の意図はそこにあるのでしょう。あなたの国では人々はみなそのような生を生きながら、検閲を欺きつつ手紙を届ける方法を探し求めている。

では、もしかしたら宛て名を書かずに手紙を投函するという行為は、その方法のひとつなのかもしれません。あなたはわたしに本名を告げずに帰ってしまったけれど、じつはそれがあなたのメッセージなのだとしたら? 宛て名のない手紙が本人のもとへ届くことだってあるはずだと、そんな祈りのような希望をわたしと分有するために、あえて名前を教えなかったのだとしたら? ……あなたと一緒に映画を見た日々への懐かしさが、そんなことをつい思わせてしまうのでしょうか。

この映画の解釈をめぐってあなたと意見が分かれてしまったことを思い出します。わたしはエリは子どもを助けようとして海で溺れ死んでしまったのだと思った。けれどあなたは彼女は生きているかもしれないと言った。「最後に遺体が出てきたし、エリの婚約者も検死に立ち会っている」というわたしに、「でもエリの婚約者はそのあとなにも言わなかった。黙ってその場を離れた。それにエリの遺体が映ったのはほんの一瞬で、あの死体がほんとうに彼女なのか観客にはわからない」とあなたは答えた。「遺体の女性がエリではない可能性は否定できない」と。

確かにエリには失踪する動機もありました。彼女は婚約者と別れたがっていた。だからセピデーに紹介してもらったアーマドが過去に別れた妻から「永遠の最悪より最悪の最後がマシ」と言われたことを打ち明けたとき、エリは「その通りよ」と即答した。エリもまた《永遠の最悪》から逃れたいと願う一人だったのでしょう。そのために彼女は浜辺からすがたを消したのかもしれません。《最悪の最後》として存在に終止符を打ち、べつの人生を生きるために。いずれにせよ真相は最後まで明かされることはありませんでしたが。

観終わったあと、「わたしの故郷ではだれもみな多かれ少なかれ《永遠の最悪》に宙吊りにされている」とあなたは言いました。「そこから完全に逃れるには死しかない」と。それはどういう意味なのか、わたしは聞けなかった。なぜならそのときのわたしはあなたの置かれた社会についてあまりに無知だったから。自由が抑圧されることのほんとうの意味を知らなかったから。

映画の中盤にそのことを思い知らされた、ある象徴的なシーンがあります。すがたを消す直前、エリは浜辺で子どもたちと凧をあげる。地上から離れ、きままに風にゆれる凧をあやつり、エリはいっとき迷いや葛藤をわすれ笑い声をあげる。けれど、なのにわたしたち観客はそのようすにどこか抑圧を感じてしまう。そのシーンでは子どもたちとエリを映していたカメラの動きがしだいにぶれ始め、やがてエリだけを執拗に追いはじめます。そしてしだいに子どもたちの笑い声が聞こえなくなり、エリの笑い声だけがほとんど悲鳴のように強迫的に響く。ようするに、彼女はあまりにはしゃぎすぎている。

ファルハディのサスペンス性は、極度な自由の表象がかえってその背景にある抑圧の気配を露呈されてしまう、そのような逆説に宿ります。過度に解放され悲鳴のような笑い声をあげるエリのすがたは、わたしたちに得体の知れない危うさを抱かせる。だからこそそのあと彼女の不在は観客を翻弄し、自由と抑圧のあいだで宙吊りにする。

わたしたちは、凧をあげるシーンにおいてエリがまだほんとうの意味で自由になっていないことに気づいている。だとすれば、エリが完全に自由になり《永遠の最悪》から逃れるためには、存在ごと消えるしかなかった。つまり死ぬしかなかった。わたしはあの映画をそのように見ていました――と、ここまで書いて気づいたけれど、そうか、だからあなたは見つかった遺体がエリのものではない可能性を否定しなかった、したくなかったのですね。

あなたはエリが死なないまま《永遠の最悪》から逃れられる道はなかったのかと考えた。そして、彼女が死を偽装することで、婚約者にも知られぬまま、さらには観客にすら気づかれぬまま、ぬけぬけと画面の外側へ逃げだせたのではないか、そのような可能性に希望を抱いた。エリと呼ばれない何者かになり、役者と観客をともに欺くことによってのみ到達可能な領域、自由と抑圧の均衡さえ無化する地平――そこにこそ彼女はいるのだと、あなたは考えたのでしょうか。

彼女は生きている。いまならわたしもそのように思えるかもしれません。それに、もしあなたが喜んでくれるのなら、わたしはここでもっと突拍子のない推理をしてみたい。この宙吊りに終わった映画のべつの解釈を。「エリはじつはどこにも行っていないのではないか」という、もうひとつの可能性を。

そう、エリはまだあの浜辺の家にいる。あの家はもともと泊まるはずだった家に持ち主がいたことで、あわててさがした場所だった。だからそこにはずっとひとが住んでいなかった。だとすれば、たとえば床下に隠し部屋があったとしてもだれも気づいていないでしょう。エリは床下の部屋に偶然気づいて、そこに身を潜めて、そのうちうとうと眠っていたら外が騒がしくなる。どうやら子どもが溺れて死にかけたらしい。セピデーが自分の名前を叫んでいる。自分も溺れてしまったのだと思っている。エリはそこでふと思う。このままここに隠れつづけたらどうなるだろう。

彼女は浜辺の家にいながら、だれにも見つかることなく暗闇にじっと身を潜めつづける。そうして生きながらにして死者となる方法を発見する。彼女は床下で自分の心臓音を聞く。彼女は自分の生命を感じる。生と死のあいまをふらふらさまよい歩くような人生だったけれど、いまやすっかり生命を取り戻したような気がする。「わたしは生きている」と、死ぬことによって彼女は逆説的にその実感を得る。

波の音にまぎれて彼女の鼓動が聞こえてこないでしょうか。彼女が消えた浜辺で、少なくともわたしたちがそう想像するかぎりにおいて、彼女はまだ安らかに眠っている。あなたと過ごした時間が遠く過ぎ去り、この映画についての記憶が薄れてしまっても、それでもなお彼女は床下で眠りつづける。それが映画というものの本質だと、あなたなら言うでしょうか。

郵便ポストの暗闇に投げ込まれたわたしたちに安らかな眠りは与えられないけれど、宛て名のない手紙であっても、むしろ宛て名がないからこそ、検閲を欺いてだれかの手元へ届くかもしれない。行方不明になりながらも、忘れ去られたそのあとも、どこかで眠りつづけるその思いがいつかあなたに届く日を夢見て、わたしはいま、この手紙に祈りを込めます。

 


※ 遺体の女がエリではない可能性については、北村匡平氏の以下の論考を参照しました。

No.001 嘘と不在の映画学―アスガー・ファルハディ『彼女が消えた浜辺』

 

文字数:3822

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