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『服従』の不服従――ウエルベックの予期と性について

2015年は1月7日のシャルリ・エブド事件に始まり、11月13日のパリ同時テロ事件に至り「テロ」という不吉な言葉が再び世界中に拡散された年だった。シャルリ・エブド事件の当日にフラマリオン社から出版されたミシェル・ウエルベックの小説『服従』は、フランスがイスラームに服従する状況を描いたことで、また、シャルリ・エブド紙の最新号の表紙に描かれていたのがミシェル・ウエルベック当人の戯画であったという事情も相まって、大きな国際的反響を呼ぶこととなった。

しかしながら、ウエルベックの『服従』には、イスラームに対する激しい嫌悪や対立を煽ろうとする政治的マニフェストが書かれているわけではない。そもそもそれは、外から侵入してきたイスラームがフランスを滅ぼす話というよりは、フランスが内的に服従する過程を「不思議なほど静かな筆致」(野崎歓)で描いた小説であった。主人公のフランシスは、教育がイスラーム化されるにあたり一度は大学の職を失うが、ソルボンヌ大学の学長ルディジェ(この人物はイスラームに改宗して学長の地位を得たばかりか、複数の若い妻とともに幸福な家庭を築いている)から勧められ、納得のうえで静かに改宗を受け入れる。

フランスの「服従」をこのように穏便に描いたウエルベックが、それでもなおイスラーム過激派から敵視されるのはなぜか。むろん、彼の小説外における言動をその理由にすることはできる。しかしここではあくまでその理由を、彼の小説内に――というよりは「小説」という形式そのものに見出してみたい。つまり「小説」という形式それ自体が、原理主義に対するひとつの「不服従」のあり方であると捉え、それが彼らイスラーム過激派を刺激したのではないか。そして、だからこそ彼らはテロという手段で出版社とその編集者たちを「物理的に」破壊することでしか、それに対抗できなかったのではないか。

ウエルベックに対する反発は、イスラーム主義者以外からも、そして2015年以前にも度々なされてきた。小説家としてのデビュー作である『闘争領域の拡大』(1994)から彼は一貫して「性」を主題としつづけ、『プラットフォーム』(2001)で第三世界におけるセックス観光を描いた際には、フェミニストの扱われ方をめぐって激しい反発が起こっている。だが一方で、ウエルベック作品は性別や社会階層を超えて広い読者層から支持されていることも事実だ。この事実は、彼の小説に多様な解釈の可能性が備わっていることを意味する。たとえば『プラットフォーム』と『ある島の可能性』(2005)を訳した中村桂子は、ウエルベックが描くヒロインに「感情移入ができない」という友人を前にして、自分がウエルベックのヒロインたちに「かなり感情移入」しており、「なによりわたしは彼女たちが好きなのかもしれない」ことを自覚したという。

私たちはあるひとつの「小説」から、複数の解釈を引き出すことができる。反イスラーム的、反フェミニズム的と言われる彼の作品が、にもかかわらず世界中の「リベラル」な「インテリ」たちにも支持されるのは、彼が書いているのが「小説」であるからだろう。多様な解釈を招くテキストのあり方に対して、聖典のみを「神の言葉」とし、神意の解釈を認めない原理主義者らが反発するというのは、だから、当然の帰結ではあった。

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複数の解釈の可能性――ウエルベック作品において、それはたとえば時制の扱いにあらわれる。ウエルベックは人称の別を問わず、基本的に過去形で語りを進める。つまり彼の作品ではつねに語り手が読み手より未来にいることになる。だが最後のシーンに至って、ほとんど例外なくその時制は崩れる。どういうことか。

『服従』を例にすると、主人公フランシスがルディジェから改宗の誘いを受け、返事をするのに適当な時間として何週間かが経過したところからエピローグが始まる。そこでフランシスはこう述べる。「それから、ぼくはルディジェに電話するはずだ」――ここより以後、文章は過去へ向けた語りではなくなり、同時にいくつもの「予期」が入り込む。「彼は喜びを大げさに示すだろう」「改宗の儀式自体はシンプルなものになるだろう」「ソルボンヌの儀式の方はもっと長くなるだろう」「カクテルパーティは和やかに、遅くまで続くだろう」、そして――「ぼくは何も後悔しないだろう」。最後まで読み進めた読者ならば、フランシスがムスリムになることをほとんど確信しているはずだ。しかし、だからといってウエルベックはそのことを過去形で(すでに起きたこととして)書こうとはしない。フランシスの「服従」は、あくまでその後も含めて読者の解釈に委ねられる。

この手法は他の作品にも共通して指摘できる。『地図と領土』(2010)では、最後のシーンの時点で主人公がすでに亡くなっているため「その後」を予期する未来形は使われないが、それ以外の作品、たとえば『ある島の可能性』では主人公のクローンとして近未来を生きるダニエル25が、エピローグにおいて、その生のゆくえを「おそらく僕はあと六十年くらい生きるだろう」「僕が示された目標に達することは、けっしてないだろう」と予期する。『プラットフォーム』では、セックス観光の果てに訪れたタイのパタヤで、主人公が人生の終わりについて「なぜだかわからないが自分は真夜中に死ぬだろう」と予期して、次の言葉で物語を閉じる――「僕の部屋は誰か次の人間が借りるだろう。みんな僕を忘れるだろう。すぐに僕を忘れるだろう」。『素粒子』(1998)では(『地図と領土』と同様エピローグの時点で主人公はすでに亡くなっているものの)新しい人類によって旧時代の人類(人間)に捧げられた「最後のオマージュ」が「いつしか忘れられ、時間の砂漠のうちに失われるだろう」と綴られる。

これら未来の予期に共通しているのは、主人公たちの孤独で満たされない人生が、結局のところ最後まで満たされることなく、西欧の衰退とともに忘れられていくだろうという諦めにも似た思いだ。ただしそれは読者の側に「ためらい」を残す。『ある島の可能性』の訳者あとがきで、中村桂子はウエルベックの作家性を次のように語っている。「彼は、鈍感になること、を拒みました。鈍感になって幸せになること、を拒みました。彼自身の言葉を借りれば、『自分たちを破壊しようとするシステムに与すること、同意することを、最後まで拒絶』しました」。ウエルベックの主人公たちは、ときにみずから孤独を満たすことを拒む。なぜか。幸せになることが鈍感になることを意味し、主体性の放棄を意味するのなら、あえてそれを拒絶することを彼らが選ぶからだ。

「ためらい」の原因はそこにある。「最後まで」と中村が書くように、彼らの「不服従」はエピローグの「予期」にこそあらわれるのだから。そして、だからこそ『服従』におけるフランシスの最後の言葉にも、読者は「ためらい」を感じてしまう。エピローグでフランシスは、「女子学生たちは皆が、どんなに可愛い子も、ぼくに選ばれるのを幸福で誇りに思うに違いないし、ぼくと床を共にして光栄に思うだろう。彼女たちは、愛されるにふさわしいだろうし、ぼくのほうも、彼女たちを愛することができるだろう」などというが、彼の中には『服従』以前の主人公らにあった鈍感になることを拒絶する「不服従」は消えてしまったのか。このような思いを前に、読み手は「服従」の一歩手前で立ち止まらざるをえない。

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鈍感であることに対する拒絶、それがウエルベック作品の主人公にとってもっとも強くあらわれるのは、ヒロインとの関係においてである。先ほど私はウエルベックが「性」を主題にしつづけていると書いた。彼が描く主人公はみな独身者で、性的に満たされず、孤独を感じながら生きる男性たちだが、いずれの作品にも、そんな彼らに憐れみを注ぐヒロインが存在する。『素粒子』のアナベルやクリスチヤーヌ、『プラットフォーム』のヴァレリー、『ある島の可能性』のイザベルといった「善良な女性」たちだ。そして付言するならば、彼女たちは主人公に対して一方的に憐れみを授けるだけの存在ではない。中村桂子が指摘するように、ウエルベックは、彼女たちヒロインもまた現代社会を生きることに疲弊した人物として描き、主人公はそんな彼女たちの苦しみを、ときに「猛烈な痛みとして共感」する。そのような「痛み」の存在が、ぎりぎりのところで彼に「鈍感になる」ことを思い留まらせるのだ。ところが『服従』にはそのようなヒロインがいない。その事実が、フランシスを「服従」へ向かわせたのではないか。

ヒロインがいないといっても、主人公と性的な関係になる女性がいないというわけではない。たとえばフランシスは作中、過去に一度別れたミリアムという女性(彼女についてフランシスは「ミリアムほどの快楽を与えてくれた娘はいなかった」と語っている)に電話をかけ、関係の修復を試みようとする。その日は失敗に終わるものの、今度はミリアムの方から電話がかかってくる。フランシスは自分のペニスがミリアムとの「仲介」に入ってくれるだろうことを願う。

だが、その願いは半分しか叶わない。彼女はフランシスの部屋をおとずれ、二人は性的な関係を一時取り戻すが、しかし同時にミリアムは、彼女の両親がユダヤ人であることを理由にフランスを離れイスラエルへ移住するつもりであることをフランシスに伝える。おそらく自分も両親についていくだろうと彼女は告げる。彼らの関係は、修復されると同時に終わりを迎える。その意味でミリアムはヒロインたりえなかった。

その事実がどのような結末をもたらすか。エピローグ直前のルディジェとの対話は、『服従』の世界観を凝縮したような場面である。ソルボンヌ大学のレセプション会場にはサウジアラビア人の新しいパトロンたちが出席しており、レバノン料理のケータリングが提供されている。「六十歳になってもまだ童貞で不思議ではないと思っていた」元同僚は、ムスリムになったことで大学二年に在学している若い妻を娶っている。ルディジェによれば、フランスの新しいリーダー、ベン・アッべスはレバノンやエジプトと交渉を進め、各地のイスラーム同胞団とも友好関係を温めているという。

レセプション会場でフランシスは、ルディジェに「聞きにくい事柄」を質問する。自分の未来の妻となる人物について、「どんな女性を選ぶか」を気にしていると告白するのだ。しかしルディジェはそこで「本当に選びたいと思っているのですか」と聞き返す――「それは幻想ではないでしょうか」と。イスラーム文明においては、賢い女性が「仲人」となり、「裸の若い女性たちを見て、一種の価値判断をし、各人の身体と未来の夫の社会的地位とを関係」づけるのだとルディジェは語る。それを聞いてフランシスはイスラームを受け入れる。

この露悪的な「服従」の描き方は、明らかに意図的なものだ。ミリアムら西欧の女性へのペニスによる「仲介」を断ち切り、代わりにイスラームの女性との結婚を「仲人」に任せるということ――この能動的な態度の去勢によって、主人公の主体性は否定される。しかし読者はこれに同意できるだろうか。同意できるかできないかにかかわらず主人公は服従するしかなかったのだという主張は、やはり「ためらい」を残す。たとえ(ルディジェがいうように)人間の絶対的な幸福が服従にあるのだとしても、いや、それゆえにこそ「服従」を拒絶し「不服従」を選ぶのが、合理性を越えた、神なき現代における西欧人の信仰だったのではないか。こうした問いがあってこそ、ウエルベックが想定する超越神の強さは、真に見えてくるのではないか。

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