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映画『セロ弾きのゴーシュ』における「ノイズ」考

ノイズとは大抵の場合その価値を問うならば負価値であるものだが、価値を負うノイズもある。『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治原作/高畑勲監督/オープロダクション制作/1982年)において響くノイズがそれにあたるだろう。

物語はベートーヴェン作曲/交響曲第六番ヘ長調「田園」ではじまる。2分50秒もの演奏を止めたのは主人公ゴーシュの奏でるセロ(チェロ)である。

指揮者「セロが遅れた」

演奏を再開するが、またしてもゴーシュのセロが演奏を止める。

指揮者「糸(音程)があってないんだ。糸が」

ゴーシュの演奏は楽団の演奏を乱すノイズである。10日後には楽団の面子の掛かった音楽会が控えている。プロ集団である彼らは金沓鍛冶や砂糖屋の丁稚の寄り集まりには負けられない。彼らは楽団の名を汚さぬよう日々練習に励んでいた。ゴーシュの演奏はそんな使命を帯びた楽団の演奏の足を引っ張る。指揮者の指揮棒が導き描き出す楽団の音/呼吸を乱すその演奏はまさに「ノイズ」でしかない。そのノイズはそのままゴーシュの存在としてのノイズに直結する。ゴーシュの奏でるノイズは、楽団が「きみ一人のために悪評をとる」可能性を孕む。故にゴーシュは楽団員達に馴染めず、また楽団員達からも敬遠され孤立していた。つまり、物語の主人公それ自体がノイズであった。

ところで、この映画でゴーシュによって演奏される「インドの虎狩り」という曲を聴いたことがあるだろうか。この曲を聴いた登場人物の猫は、聴くや否や全身の毛が総毛立ち、くしゃみが出る。壁板を引っぺがしてでもその場を去りたい思いに駆られる。それが叶わないならば、奏者を殴り倒すか楽器を破壊するかしてその演奏をなんとしてでも妨害しようと試みる。しかしその内にその音に体が囚われる。ぐにゃりと視界が歪む。こうなったら最後、その場をのたうち回る。体にはビリビリと電気が流れる。この猫の態度は黒板を引っ掻いた音を聞いたときの私たちのそれと酷似している。金切り声の悲鳴のような、耳を塞がずにはいられないような、黒板に爪を立てたヤツを殴り倒したくなるような、ノイズ。このようなノイズを追求/発展したのが「ノイズ・ミュージック」である。一聴するとその名の通りただの騒音としか聴こえない。音楽といっていいものか躊躇するほどの非音楽的な歪んだ音。その音の集積と攻撃。地獄の交差点の工事現場に放り込まれたかのような絶対的な体験は自我崩壊を招きかねない。つまり、「インドの虎狩り」は『セロ弾きのゴーシュ』におけるノイズ・ミュージックである。ノイズ・ミュージックは、コード無し/リズム無し/メロディ無し、且つ爆音での即興演奏というスタイルを多く取るが例外もある。「インドの虎狩り」は爆音という以外はそのスタイルの全てを破ったものであるが、その曲を聴いた猫の態度こそがこの曲がノイズ・ミュージックであると証明している。

そもそも猫は、ゴーシュの元にクラシックを聴きにやってきた。猫は、ゴーシュの「個性的な」音楽を聴かないと眠られないとぼやく。肩のこるベートーヴェンの曲ばかり弾いていないで、たまにはやさしい曲をお弾きなさいと、「トロメライ」(ロマンチック・シューマン作)をリクエストする。横柄で慇懃無礼、インテリ然とした猫の振る舞いはゴーシュの怒りを買う。そこで日頃の鬱屈を晴らすかのように演奏したのが、先に述べた「インドの虎狩り」である。つまりここでは、猫はその振る舞いからクラシックや権力の象徴ともいえるし、狩るべき虎ともいえる存在になる。虎は古来より権力や威厳の象徴である。ノイズとして、クラシックからも楽団という社会からも弾かれんとしているゴーシュは、その鬱屈と鬱憤をここで一気に解放する。ゴーシュの演奏を妨害する猫はクラシック/権力にほかならず、ゴーシュは反逆に出る。ノイズ上等!リズムなんて糞!音程なんて糞!感情のままに即興の如くセロをかき鳴らす。その姿勢はまさにロックだ。セロを燃やしかねないほどに没入の進んだゴーシュのノイズ演奏がそのルーツに近づいていく。ノイズ・ミュージックのルーツの一つはロックにある。
然して、ついに猫は倒れる。それでも捨て台詞を吐く猫にゴーシュはとどめを刺すべく、猫に舌を出させる。舌出しといえば、KISSのボーカル/ジーン・シモンズの決めポーズであるし、THE ROLLING STONESのロゴマークでもある(二つのバンドはいうまでもないがロックバンドだ)。猫の舌出しはロック/ノイズへの服従を誓わせる意味ともとれるが、ゴーシュはその差し出された舌でマッチを擦る。その火でつけたタバコを吸いながら、のたうち回る猫を悠然と眺め勝利の余韻に浸るのである。

ところで、この映画でゴーシュによって演奏される「インドの虎狩り」という曲を聴いたことがあるだろうか。映画を観た人ならば自明であるが、私たち観客はこの曲を聴いても猫ほどの態度は取らない。ほとんどの人がこの曲をノイズと認識しないはずだ。黒板に爪を立てるヤツもいなければ、地獄の交差点の工事現場に放り込まれたりもしない。ゴーシュの奏でる音は確かに歪み、不穏な音である。その音が宙を舞い、弾丸のようなリズムで地を這ってくる。そうかと思えばただ一音が合図のように爪弾かれる。追い立てるように弓で弦が弾かれる。まさに虎を追い込まんと刻まれるリズムとその歪んだ音は、しかしむしろ心地よい。冒頭の「田園」の演奏時間にも匹敵する2分25秒のゴーシュのソロは、退席など思いもよらない、むしろ「ブラボー!」な音楽であった。

「インドの虎狩り」に対する猫と私たちの異なる態度はとても面白い現象だ。音とは、音楽とは、聴く者の態度によって規定されることがここからわかるからである。とくに「ノイズ」はそれが顕著である。響く音ではなく、聴衆の態度によって、その意味が即座に変わりうる。その音の響きが、ただのノイズとして拒否されるのか、「ノイズ」という音として受け止められるのか、全てはその時の聴衆の態度次第である。「インドの虎狩り」は映画の中で二度演奏される。一度目の聴衆は猫であり、その態度は異常なまでの拒否であった。しかし二度目の聴衆である音楽会に集まった観客の態度は受容であった。私たちが映画の外で示した態度と同様に、猫が排除したノイズをノイズ・ミュージックとして受容し、スタンディングオベーションでゴーシュを送ったのである。『セロ弾きのゴーシュ』における「インドの虎狩り」というノイズ・ミュージックの面白さは、映画の中と外のみならず、映画の中であってもその聴取態度が分かれることにある。これは、非音楽的な音であってもそれは紛れもなく音であり、その音の集積が音楽たりえることを示したノイズ・ミュージックの強度といえるのではないだろうか。

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