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サスペンス/平然を装い私たちの世界に陥入するもの

彼女はビアンカ。修道院育ち、元宣教師、看護師の資格を持つブラジルとデンマークのハーフ。白肌、黒茶髪の長髪、細い肢体、Fカップ(推定、もしくは以上)、半開きの眼、半開きの唇、半開きの膝頭もしくは股もしくはその先の膣。そのまなざしは揺らがず、騒がず。その唇は開いたまま黙す。その膣は全き正しさを持つ虚空。彼女の三つのコミュニケーションの穴は何物も何者も拒まない傷つけない。開かれていて開かれたまま閉じないでいる。

彼はラース。ビアンカに恋をする。彼女は彼を拒まない。彼は傷つかない。彼女は彼にとって究極の客体で彼女はリアルドール。

ラースはリアルドールを彼女とする。『ラースと、その彼女』(※1)はそれについて描いた映画だ。リアルドールは男性の自慰行為をより有意義にするために作られた女性型の人形である。本来ならば部屋の押し入れやベッドの下に隠されるであろうリアルドール/ビアンカを、ラースは白日の下に晒す。兄夫婦に紹介し、教会へ連れ立ち、町をデートする。ビジュアル的にも解剖学的にもリアルな、しかし無生物(シリコンの塊)であるものを愛するという行為は、人間というビジュアル的にも解剖学的にも全きリアルである生物を愛するという私たちの習慣から逸脱するラースのその行為は危うい。その危うさを、兄夫婦が、同僚が、町人が、加速する。彼らもまたビアンカを愛しラースの妄想にコミットする。ここで、妄想が妄想でなくなり、一体のリアルドールは一人のビアンカとしてリアルを生きはじめる。

私たちはビアンカに接する兄夫婦や同僚、町人の態度を観るにつけ不安に陥る。彼女は人間なのか、それともやはりただのシリコンの塊なのか。彼女の三つの穴が私たちにも開かれているように感じる。私たちは彼女がシリコンの塊であることを全知しているにも関わらず、人間的なそのコミュニケーションの穴に戯れたいという人間的な欲望を持つ。ラースが白日の下に晒したリアルドールという存在に私たちの頭と体は分裂し揺れている。

ここに、この映画のサスペンスとしての二つの強度がある。

ひとつは、アルフレッド・ヒッチコックの「テーブルの下の爆弾」の喩えで説明出来る。ヒッチコックは、その存在を登場人物も観客も知らない上での爆発は一瞬の驚きである「サプライズ」であるとし、対してその存在を登場人物は知らないが観客だけが隠されていることを知っている場合の、その爆発までの時間と緊張の持続性こそが「サスペンス」であると定義した。このヒッチコックの喩えに三浦哲哉はさらに以下のように考察する。

以上の対比において重要なのは、両者が見かけ上はほとんど同一でありうる点である。爆弾は隠されており、直接は見えない。両者を隔てるのは、したがって、その光景を見る観客の眼差しである。眼差しいかんによって、自然で平穏な場面が──同じ見た目のままで、犯罪現場に変貌する。いったん、そうだと知られれば、登場人物たちが平然としていることによって、余計に緊張が喚起される。(※2)

ビアンカは「爆弾」である。27歳の健全な男であるならば恋人が欲しいはずだ、作るべきだ、一人はありえないという「常識」を持つ片田舎の善良な人々からのラースへの期待(もしくは圧力)への「爆弾」である。極端にシャイでとりわけ女性が苦手だと思っていたラースに恋人が出来た。しかし彼女はリアルドールであったという、登場人物も私たち観客も知り得ない事実それ故に「サプライズ」であった。

しかしその「爆弾」が「サプライズ」として炸裂した後も、ビアンカは「爆弾」であり続ける。登場人物も私たち観客も彼女がリアルドールであるということをもはや知っている。テーブルの下に爆弾はない。しかし、再び「爆弾」は隠されるのである。兄夫婦をはじめとしたラースを取り巻く人々によって。彼らはラースの妄想へコミットする事によって彼女の単位を「一体」から「一人」へと変更し、命と心ある人間であるかのように接しはじめる。今や、ビアンカがリアルドールであるという事実を知っているのは私たち観客だけになってしまった。その差異が、登場人物達の平然が、私たちに緊張を喚起する。

そしてこの緊張こそが、サスペンスが本来的に持つ性質に帰結する。これが二つ目の強度である。三浦の言葉をそのまま借用すれば、「サスペンスはラテン語の《suspensus》に由来し、宙吊りの状態に置かれること、未決定の状態に置かれることを意味する」(※3)のであり、登場人物達のビアンカへの眼差しの変節により私たち観客はまさにこの状態へと追い込まれる。医者に血圧を測られ、教会の礼拝に参加し、子供達に絵本を読み聞かせ、服を着替え、髪型を変え、パーティに出る。一体であるところのビアンカが一人のビアンカであるかのような錯覚に襲われる。私たちが全知していたはずの一体のビアンカという事実に疑いが生じる。もはや私たちは自明であったビアンカの数え方さえも危うくなる。「一体」と「一人」の間を揺れ動く。その振幅は映画のラストに至ってもなお強く振動する。無生物であるビアンカの「死」がラースを取り巻く人々にも受け入れられ、葬式が開かれ墓地に埋葬され人々は涙する。ビアンカが「生前」に通い、葬式も開かれた教会はプロテスタントのキリスト教会である(その十字架にキリストが磔になっていないことからプロテスタントだとわかる)。プロテスタントでは偶像崇拝は禁止されている。教会に相談に行った兄夫婦が住人の老人から開口一番にいわれることも偶像崇拝についてである。

“We don’t want anything to do with her. She’s a golden calf. Remember what happened with THAT.”

「golden calf」とは聖書の「出エジプト記」に出てくる黄金でできた若い雄牛像であり、これを人々は崇拝した。疑いの余地なく、ビアンカは「a golden calf=一体の偶像」とされている。この雄牛像は、モーセの怒りを買い、火に焼かれ粉々に砕かれた。一方、私たち観客の目には明らかな「一体の偶像」であったビアンカは、焼かれず砕かれず、教会の墓地に丁重に埋葬された(おそらくは亡くなったラースの両親が眠る墓地でありその近くに)。これはむろん、偶像崇拝が黙認されたわけではありえず、眼差しの変節の最たるものだ。こうして、彼女の姿は地中に隠され、私たちにその眼差しの差異を残したまま映画さえも平然と終わる。

しかし、いやだからこそ、ここから第二のサスペンスが始まるのである。

棺に納められたビアンカは、サスペンスを最初の絶頂へ高めたといわれるデヴィッド・ウォーク・グリフィスの処女作『ドリーの冒険』の樽に隠された少女ドリーという根源的モチーフに還るのである。誘拐され、樽に隠されたまま川を漂流したドリーが家族の元へ帰還することによってそのサスペンスは閉じられ映画は終わる。一方、ビアンカは「死者」として棺に納められ地中に埋められたまま、むろん還ることなく映画は終わる。ビアンカは隠されたままである。そのことを私たちが知っている以上、ビアンカという「爆弾」がもたらす緊張の持続性は映画が終わっても続いている。そのサスペンスは閉じられていないのである。ビアンカはドリーの如く私たちの世界を漂流している。いまだ私たちは宙吊りの状態にある。その宙吊りの状態を更に三浦の言葉によって補足するとすれば、「宙吊り状態とは、なにより習慣=土台からの宙吊りのこと」(※4)である。ここでいう習慣とは、人間というビジュアル的にも解剖学的にも全きリアルである生物を愛するという私たちの習慣のことであり、私たちはビアンカという「爆弾」のもたらす緊張の継続性の中で、その習慣=土台に疑問を呈さずにはいられない。『ブレードランナー』(※5)に描かれたような、もはや人間と見分けのつかないビジュアル/動き/思考を有する、ビアンカよりもより高度に三次元に近接した無生物(アンドロイド)でなくとも、ビアンカのような2.5次元程の低度においてでさえ、人はその対象を人として、いや人でないと認識していたとしても、人が人を愛するようにそこに確かな存在感と「無意識の意思」なるものを感じとらずにはいられない。故に愛することが出来るのではないか。現にそれはこの日本でも進行しているサスペンスである。

「二次元の嫁/彼氏/彼女」とは、アニメ愛好家による二次元キャラクターへの愛の表現の一つである。その「嫁/彼氏/彼女」である二次元キャラクターの等身大がプリントされたシーツや抱き枕に愛を叫ぶ者がいる。等身大フィギアを自作し愛をぶつける者もいる。ビジュアル的リアリティも解剖学的リアリティもビアンカには到底及ばないクオリティにも関わらず、彼らは彼らを人間的愛情で愛することができる。写真を撮り、ときに連れ出し、デートさえ楽しみ思い出をつくる。ネットにはそのような画像が溢れている。そのような行為はもはや平然である。私たちが映画で覚えた緊張は、翻ってみればそのフレームの外でも感知しうるものであったと私たちは気付くに至る。登場人物と私たち観客の眼差しの差異は、すなわちアニメ愛好家と私たちの眼差しの差異であり、それはこの現実世界がサスペンスであることにほかならない。

(※1)クレイグ・ギレスピー監督『ラースと、その彼女』MGM/2007年
(※2)三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房/2012年/177頁
(※3)同上/16頁
(※4)同上/15頁
(※5)リドリー・スコット監督『ブレードランナー』ラッド・カンパニー/1982年

文字数:3930

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