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囁くのさオレのゴーストが/囁くのかオレのゴーストは

映画監督の押井守は言っている。

(映画が生み出した価値が)もしあるとすれば、それは「映画的である」という漠然としたものだ。

どういうことか。以下に引用する。

映画っていうのは根っこというか、根拠が必要なんだよ。自分ひとりの脳みそがあればなんでもできるわけじゃない。だから時代とすれ違っちゃうということはもう致命的だよ。
本当の芸術だったら、時代とすれ違っても全然構わないわけ。芸術の世界においては最先端のものだけに値打ちがあるわけじゃないから。今だってバッハも聞けば、モーツァルトも聞けば、ベートーベンも聞くわけだから。でも映画は時代とどこかすれ違っちゃったら、やっぱり値打ちを失うんだよね。逆に言えば、純然たる古典というのは映画には存在しないんだよ。詩だとかさ、演劇だとか、絵画だとか、音楽だとか、そういうのは1000年2000年の歴史を持ってる文化なんだけど、映画なんか根拠はたかだが100年しかないんだから。

(中略)

今でも映画っていうのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうのか、要素はいまだにないと思ってる。ある種の写真的なレイアウトの価値とか、演劇的な役者の力とか、言葉の力とか、音楽とか、自分のジャンルじゃない「映画の外側」から全部輸入し続けてるんだからさ。映画が独自の価値を生み出したなんてこと、ただのいっぺんもないよ。

そして彼はこう宣言する。

だから僕は『映画的なるものの本質というのは何なんだ』ということ、それだけを追求している。それが極められれば、たぶん映画は変わるだろうし。

以上の発言は全て2008年12月に収録された。この発言の最中に押井が監督/脚本として制作進行していた作品は『アサルトガールズ』(2009年12月公開)である。この映画で押井が「映画的なるものの本質」を知るために追求したことは何か。そこから「映画的なもの/でないもの」、そしてその価値を探る。

まずはじめに、押井がこの映画を成立させるために引用したものは何か。それは「ゲーム」だ。
そもそも『アサルトガールズ』は、同じく押井が監督した『アヴァロン』(2001年公開)の世界観と地続きにある。さらにその『アヴァロン』の世界観は、『ウルティマ・オンライン』/『ウィザードリィ』/『DOOM』などのコンピュータRPG(以下ゲーム)が参照され、そのゲーム的世界観やシステムが引用されている。それを踏まえた上で、『アサルトガールズ』公式サイトからのイントロダクションを以下に引用する。

「アヴァロン(f)」と呼ばれる仮想空間と、そこで飽くことなく繰り返される「狩り」という名のプレイ。見渡す限りの大荒野と、砂煙をあげて疾走する巨大モンスター「スナクジラ」の群れ。迷彩戦闘機を操るスナイパー、変幻自在に姿を変える女魔導師、馬を駆りアサルトライフルを抱えた女戦士。対戦車砲をかついで荒野をさすらう大男。そして、彼女たちを空中から監視し続ける「ゲームマスター」……。

「アヴァロン(f)」とは、『アヴァロン』で展開された仮想空間「Avalon」の新しいフィールドのことである。この「狩り」に特化した新フィールドの世界観もまた徹頭徹尾「ゲーム」的である。その証左は以下のゲームの持つ世界観との一致にある。

2004年に株式会社カプコンから『モンスターハンター』というゲームが発売される。以後シリーズ化するこのゲームは複数プレイヤー参加型のハンティングアクションゲームである。オンライン版は2007年に発売。そのオンライン版の数あるフィールドの一つに「砂漠」がある。そしてその「広大な砂漠と荒涼とした岩地が混在する厳しいフィールド」を跋扈するモンスターの一体に「砂漠を泳ぐ魚竜種のガレオス」というモンスターがいる。
対して『アサルトガールズ』のフィールドは「デザート22」と呼ばれる砂漠であり、「スナクジラ」は山椒魚の様な生物が巨大/凶暴化し砂漠を泳ぐように暴走するモンスターだ。そのモンスターを4人の登場人物達が単独/共同で狩りをするというのがこの映画の大筋だ。

この一致は、意図的ではないかもしれないが偶然でもない。なぜか。

それは『モンスターハンター』シリーズが「モンハン現象」を世に巻き起こした大ヒットゲームであることにある。シリーズタイトルは30を数え、販売累計は3200万本に及ぶ(数字は2015年3月31日現在)。特に2007年、2008年と2年連続で日本ゲーム大賞の年間作品部門大賞を獲得し「モンハン現象」の一つのピークを迎えている。テレビCMなどではその世界観が提示され流布された。ネットではプレイ画像が大量にあげられた。この時期は大げさに言えば日本は『モンスターハンター』の「イメージ」に溢れていたのである。そしてこの時期は『アサルトガールズ』の制作進行時期に被る。押井がその「イメージ」に影響を受けていないとは言い切れない。

以上のように、押井は「ゲーム」を映画に引用している。しかし、ここでは倒錯が起きている。どういうことか。

「ゲーム」の歴史は映画よりもさらに浅い。最初に登場したのは1970年代中盤のアメリカにおいてである。テキスト中心でグラフィックは古代の洞窟壁画レベルでしかなかった(もしかしたらそれよりも劣るかもしれない)。しかしその手つきがゲーム世界のリアリティ獲得のために「映画的である」ことを目指して進化して行ったのは明白だ。それはビデオゲーム(ここで論じているコンピュータRPGも含む)の誕生からその未来を追ったドキュメンタリー映画『ビデオゲーム THE MOVIE』(2014年公開)の証言からもうかがえる。もはやゲームは「芸術と科学の究極の融合」であり「映画作りと同じ」だというのだ。ゲームは「映画的なもの」を得て進化した結果、同じ地平にやってきた。

つまり、倒錯とはこういうことだ。

引用でしか成立しない映画はすべて「映画の外側」からの輸入で成立している。そして「映画的である」という漠然とした価値を生み、これを「映画の外側」に輸出した。ゲームはその「映画的である」という価値を輸入し「映画的なもの」に近づいた。要するに、押井が『アサルトガールズ』でやったことはゲームが生み出した「映画的なもの」の逆輸入である。

冒頭部の押井の宣言には続きがある。ジャン=リュック・ゴダールの名をあげるのだ。彼こそが「映画的なるものの本質」を追求し極めた人物だと。押井は彼もまた引用魔だと前置きし、しかもその行為はまぎれもなく意図的であるという。彼は何をやったのか。以下に引用する。

「映画は編集なんだ」って。エディットして、引用をいかに整理して新しい価値を生み出すか。それが映画なんだよ。そこには当然「誰が、何のために」っていう自意識が必要なんだよ。ゴダールというのは突き詰めて言えばそれだけのことをやった男で、それをいまだにやってる。

「映画は編集」であるならば「映画的なもの」もまた「編集」のことである。そしてその行為には「誰が、何のために」という自意識が必要になる。ならば「映画的なもの」、すなわちそれは「自意識的編集」といえる。
「自意識的編集」を行うことで、引用元(オリジナル)がそもそも持っていたものとは異なる新しい価値を生み出す。もしくはそれを再発見させる力を持っている。さらには全く別物/ミュータントさえ生み出す可能性を孕む。それが「映画的なもの」の持つ価値ではないだろうか。
対して「映画的でないもの」とは、自意識に則った編集がなされていない「無意識的編集」といえる。それはセオリー通りということだ。その編集はただの踏襲でしかなく、そこに新たな価値の創出も再発見もない。ただのコピーだ。コピーの価値はただ一つ、セオリーの保存にある。

それでは、『アサルトガールズ』で押井が「自意識的編集」の元に創出してみせた価値とは何だったのか。押井が行った逆輸入についてもう少しだけ考察してみる。たとえば寿司が海を渡って「カリフォルニアロール」になって日本に逆輸入されたことについて。主な寿司ネタは、かに風味かまぼこ(赤)/アボカド(緑)/マヨネーズ(黄)。食材の奇抜さとその色から来るビジュアルインパクトは絶大な破壊力があった。まさに寿司のミュータントと言える。日本を離れアメリカの空気を吸った「カリフォルニアロール」の自由でフランクな様はまさに出生の地の空気を放っている。そこには、職人による寿司の「自意識的編集」があった。そのようなアメリカ的解釈を経た寿司が、日本の寿司(職人)を挑発し、ある種の震撼と共に革新の機運をもたらしたのは疑いの余地がない。私たちもまたその寿司を驚きをもって迎えた。その後、日本の寿司の風景はカラフルになった。
押井が行った逆輸入の狙いもまたそこにあったのではないだろうか。映画のミュータントともいえなくない「ゲーム」を逆輸入し、さらにそこに「自意識的編集」を施したのが『アサルトガールズ』であったはずである。

映画は一世紀を経て二世紀目に突入した。いわば二週目に入ったわけである。初期映画から古典映画、そして映画のポストモダン化まで、一通りの「映画」という景色を経て、映画は「映画的である=自意識的編集」という価値を生んだ。その価値を取り込んだのは「ゲーム」だけではない。ネット動画などの映像というマテリアルすべてに影響を与えうる。ポスト映画(批評)の再起動は始まっている。

参照資料

押井守『勝つために戦え!〈監督編〉』徳間書店、2010年、引用発言は199〜200頁
渡邉大輔『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』人文書院、2012年

文字数:3929

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