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703号室、退院清掃お願いします

その病院において「退院清掃」は、患者さんが退院し空いた部屋を、次の入院に備えて清掃することを指す。基本的に、その日自分が清掃を担当する病室のうち、どの部屋が退院予定なのかは事前にクラークさんから教えてもらう。そうすることで、患者さんが退院する前に清掃に入ってしまい、その後改めて退院清掃を行う、といった二度手間を防ぐのだ。しかし予定になかった退院もある。その場合、患者さんの退院が済んだ時点でクラークさんから追加の依頼を受けることが多い。一、二件なら支障はないが、数が多くなってくると大変だ。なので、普段からクラークさんに媚を売っておくことも重要な業務のひとつと言える。仲良くなれば、退院の可能性がわかった時点で「あのお部屋、今日退院になるかもしれません」と教えてくれたりもするのだ。

病院内でもっとも立場が弱く、最低限の情報とギリギリの業務時間しか与えられない清掃員にとって、本当のお客様は患者ではなく、クラークや看護師といった病院スタッフであるといっても良い。

とにかく、連絡を受けた時点で703号室には誰も居ないはずだった。しかし、万が一という可能性もあるのでノックは欠かさない。仮に扉が開いていて、中に誰も居ないことが覗き見えたとしても、ノックはした方が良い。後ろから見ていて、何も言わず部屋に入っていく奴と、ノックをして「失礼致します」と言ったあとで入室する奴とでは印象が全く異なる。こうした積み重ねが病院スタッフからの信頼につながる、かどうかはわからないが、身についてしまえばやる方としても気分が良いのだった。

だからその日もノックをして703号室に入った。返事もなかったので、誰も居ないものと思ったのだが、入ってみると部屋のベットにはまだ患者さんが寝ていた。

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慌てて、小さな声で「お部屋の清掃に参りました」と告げる。寝ている患者さんに対して大きな声を出すのは論外だが、気を回しすぎて何も言わないのも問題がある。目を閉じているだけで、実は起きている患者さんも多いからだ。ひとまず「ごみの回収を致します」と伝え、部屋にあるごみ箱のごみ袋を回収し廊下の清掃カートに戻る。連絡をもらった時のメモと、自分の入った部屋が本当に703号室であることを確認し、さてクラークさんが間違えたか、自分が聞き間違えたかのどちらだろうと考え、そのときは二度手間になることを覚悟して清掃を終え、病室を後にしたのだった。

後でわかったことだが、あの時、その患者さんは亡くなっていた。なぜ誰もいなかったのか、なぜ顔に被せてあるはずの白い布がなかったのかといった状況の詳細について、尋ねることはできなかった。あの日、一息ついた後、クラークさんに703号室の退院清掃について確認すると「退院じゃなくて亡くなったんです。さっき搬送終わったから、お掃除おねがいしますね。」と伝えられたのだ。改めて703号室に戻ると、部屋の扉は開いていて、確かにもうベッドの上に患者さんの姿はなかった。

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それまでにも亡くなった患者さんの病室に入ってしまいそうになる場面は幾度かあり、遺体が寝かされていたであろう部屋の「退院清掃」にも経験があった。しかし常に遺体には、白い布か、側で泣く遺族の姿があり、そんな状況で入室し清掃を始めることはあり得ない。だから、亡くなっていることに気づかず声をかけ、その周りを掃除するという体験は、この日が最初で最後である。患者さんの身体(からだ)は、ベッドから居なくなった後のほうがむしろ強く存在していた。寝ていたはずの身体が、本当は全く動いていなかったのだという恐怖が「動かない身体」の存在を際立たせたのだろうか。

この「動かない身体」とは何者であろう。

誤解を恐れずに言えば、身体には動くことへの期待がある。実際に動くかどうかは別として、こんな感じで動くのではないかといった期待があり、と同時にその期待とのズレ、つまり違和感が身体の存在を強める。先ほどの「寝ているはず/亡くなっていた」のような非日常的な場合に限らず、動作と違和感の連続が身体の存在を強めていく例は、いくつも挙げることができるだろう。例えば、五人集まれば一人くらいは耳を動かせる奴がいる。耳を動かせない多数派にとって普段耳とはあってないような存在だが、目の前でピクピク動く耳を見せつけられると、滑稽さに伴って奇妙な違和感を覚えるだろう。自分にも動かせるものかと試みると、どこに力を入れるべきなのか分からず違和感が募るばかりだ。しかしまさにその時、耳は「動かない身体」として存在し始める。

このように、違和感は私たちに身体の存在を再確認させるものであるが、一方で、身体を拡張するものとしての役割も担うだろう。つまり、何かに違和感を覚えるとき、そこには身体(からだ)が存在し始めているのではないか、ということだ。

サッカーの最中、サッカーボールを蹴ることに戸惑う者は少ないだろうし、先が丸くなった鉛筆を鉛筆削りにかけることを躊躇する人も珍しいだろう。しかし、そのボールや鉛筆が、大切な誰かから貰ったプレゼントだとしたらどうだろう。何かしらの躊躇(=違和感)が生まれていることを、想像できるのではないだろうか。こうした違和感は、次のような図を用いて体感することができるかもしれない。

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同じような図をこれから幾つか提示するが、もし可能であるならば、印刷した図の上に、以下のような大きいバッテンを描いていただきたい。が、とても面倒なことなので、パソコンで読んでいる方はマウスで、スマートフォンを用いている方は指先で、バッテンを描いてみて欲しい。

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どんな具合だろう。痴漢にバッテンを描くことに躊躇した方がいたら、ぜひ話を聴いてみたいところではあるが、事前に提示してあった「寝ている患者さん」や「空っぽのベッド」の上にもバッテンを描いただろうか。もしここで、多少でも気味の悪さを感じてもらえたのであれば望外である。この気味の悪さ(=違和感)こそ、身体の持つ力のひとつではないだろうか。そして身体は、その違和感を媒介にして拡張していく。「動かない身体」は動かないという違和感でもって膨れ上がり、その存在を示すのだ。

哲学者の小泉義之は著書『生と病の哲学』の中で、現代における生権力――憲法25条に記されている、1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。などを例として――に対して、健康であることを強制し、身体の自由が効かない病者といった「ただ生きているだけの存在」を排除する可能性をもつものとして批判する。そして「無意味で無目的な生命を生きる肉体」に潜む「能力」についての議論を呼びかける。

果たしてどうであろう。病院には、動いているところを1度も目にしたことがない患者さんや、喉に埋め込まれた人口呼吸器で延命しているであろう患者さんも入院していた。そんな姿を前に、何かを考え続けることは可能だろうか。「こんな風にはなりたくない」という違和感すら、いつしか感じなくなっていく。しかし、いないはずの「動かない身体」が恐ろしかったように、大切なものの上にバッテンが描けなかったように、「動く/動かない」や「いる/いない」を超えて、その身体は確かに力をもっていた。

 

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