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データの束としての抵抗

 去る8月27日、『Forest』というアプリケーションがAppStoreの有料アプリランキングでトップに立った。この120円で売られている小さなアプリは、ユーザーがスマホを触ら「ない」時間だけアプリ内で(バーチャルな)森が育つ、というもので、それはアプリ内で流れる「ケータイやめて、もっと充実したライフを送ろう」とのメッセージに示されるように、ついつい手にとってしまう携帯をユーザーから遠ざけ、作業に集中できるよう手助けすることを目的にしている。この単純な仕掛けにどれほどの効果があるのかというデータも興味深いが、これほど単純なアプリが総合ランキングのトップに立つほどにユーザーを購入へと促した背景とはなんであろうか。そもそも、ケータイをやめるために携帯を使うといった矛盾が生じる文化とは何であろう。

 ジャーナリストの佐々木俊尚はインターネットの役割を「情報を蓄え流通させること」と「人と人をつなぐこと」に整理したが、これらふたつの役割はネットに常時接続されていることが前提のスマートフォンにも敷衍できるだろう。私たちは情報を検索し発信するために、人とコミュニケーションをとりつながるためにスマホを使う。スマホと(PCでの)ネットの差異を考えるなら、それがポケットの中で既につながっているものか、机上のパソコンを起動させた後につなげるものかの違いだ。また、ここまでスマホと携帯という言葉を区別せず用いたが、スマートフォンとフィーチャーフォン(携帯)の差異を同様に述べるなら、それは画面の大きさや画素数の違いから生じる「目的の情報へアクセスする際のストレス」の大きさであり、極端な物言いが許されるのであれば、スマートフォンには前述した「情報へのアクセス」と「人と人をつなぐこと」のふたつを満たす能力があるが、その多くがQVGAという解像度であったフィーチャーフォンは、メールや電話といった「人と人をつなぐ」役割は果たせても、「ネットに流通する情報へアクセスする」能力は十分でなかったと言えるだろう。

 すなわち、スマートフォンを手にした私たちは「初めて」ネットという情報の海に本当の意味で「常時接続」しており、同時に、社会とのつながりそのものであるそれを手放すことができない。

 

 ネットに蓄えられ続けている情報の規模を象徴的に示した言葉として「ビッグデータ」がある。実業家の海部美知の著書『ビッグデータの覇者たち』によれば、ビッグデータとは「人間の頭脳で扱える範囲を超えた膨大な量のデータを、処理・分析して活用する仕組み」である。海部はその活用を「予測」「絞り込み」「可視化」の三点からみていくが、ここでは近年最もインパクトのあった事例のひとつとしてYahoo!JAPANが2013年に行った第23回参議院選挙の獲得議席予測をとりあげたい。

 「ここまで一致したことにはわれわれも少々驚いている」と選挙後にその詳細を発表した予測チームは、改選対象となった121議席のうち111議席を的中させた。この予測がひときわ関心を集めたのは、彼らの予測がアンケートや電話、出口調査といった直接的な手段ではなく、「過去の選挙事例での公示日前後の検索量の変化をスコア化し、今回の衆院選の公示前の検索数と掛け合わせる」という純粋なデータ解析によって結果を示したことにあった。もちろん、彼らの91.7%という的中率は各大手メディアによる調査に基づいた予測に比べれば高くはない。実際、テレビ朝日系列による予測の的中率は99.2%であった。つまりビッグデータの特性は正確さにあるわけではなく、用いるデータの「単純さ」にあると言える。Yahoo!JAPANの予測チームが元にしたデータは、私たちが「考えて」選んだ投票先ではなく、何気なしに検索した単語という、極めて単純な行動の蓄積であった。これは私たちの考えが行動として表れていることへの裏付けと言えるだろうし、視座を変えれば、考えるとは何か、私たちは本当に思考しているのかという問いを含んでいる。

 海部はビッグデータに対する反応――例えばパーソナライズされた広告を見て「なぜわかるの?気持ち悪い」といった嫌悪感――をロボット工学の用語「不気味の谷」を用いて解説しているが、むしろこのような感情は、「思考」という人間の核とも言える複雑系のベールが剥がされていくことへの戸惑い、怒りの表れとして見て取れるのではないだろうか。それは同時に、私たちは「特別な存在」などではなく「データの束から計算可能なもの」なのではないかという諦めを植え付けていく。

 

 社会学者の宮台真司は、あらゆる場面で自己決定を迫られる現代日本においては「最適な選択をしないと損をする、置いていかれる」というような「最適化原理」が個人を覆っており、これを「満足化原理」へ復帰させる必要があると説く。「満足化原理」とは、特に問題なければ(そこそこ満足)なら前に進む、といったシンプルな方法論だが、地域や職場のような共同体に「満足の基準」を見出しがたい状況においては、個々人にその基準が委ねられ、こうした状況が「最適」という実現不可能な選択を強いるとする。

 社会に基準を失った私たちは、スマホを介してネットの膨大な情報に潜り「最適」な答えを探していく。残念なのは、答えと思われる情報は無限に近く、その中を探したところで「満足の基準」は見つからないことだ。そもそも「満足」とは極めて身体的なものであり、その基準は経験を通して成形されていくものである。しかし、ネット上のサービスの多くは、価格やアクセス数といった基準を元に、なんとかユーザーを「満足」に近づけようとする志向はあっても、例え最適ではなくともユーザーを満足させる仕組み、という知恵を未だ欠くように思える。その仕組みこそ、かつて共同体が持っていた知恵ではないだろうか。

 さらに言えば、ネットがそのような状況にあることを理解してなお、私たちは「最適」を探す手を止められないように思える。まるで、思考や満足といった体験さえもネットという情報の海から探し当てようとするこの試みは、言葉を変えれば、思考の放棄と言えるだろう。しかしその根底には、ビッグデータや行動経済学の成果がじわりじわりと私たちに植え付ける「計算可能な私」という諦観があるのかもしれない。

 改めて『Forest』に話を戻したい。『Forest』以前にも作業への集中を手助けするアプリは数多くあったが、明らかに『Forest』への需要は頭一つ抜けていた。このアプリの新規性は「スマホを触らせない」ことと「森を育てる」ことにある。この組み合わせが現在の状況――スマホやビッグデータといったテクノロジーを手放せないと同時に、無限に広がる情報に疲れ、「データの束」として回収されることに諦めつつ抵抗している――に重なったのではないだろうか。一時にせよスマホ(=情報)から遠ざかる手段を私たちは必要としている。また仮想的なものにせよ、森に代表される自然(=世界)を育てる試みは、世界(=法則)に絡め取られようとしている「計算可能な私」を、もう一度世界を支配するものへと呼び戻す比喩として捉えられる。
このように『Forest』には実践的な手段と、現代のロマン主義とも言える文化が同時に埋め込まれていた。この組み合わせこそ、ユーザーをこの小さなアプリに誘った香りだったのではないだろうか。

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