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神の宿り木

 「誰でも」という言葉について考えてみたい。なぜなら、それは単に、何かが全ての人に当てはまるという意味を伝えるだけの言葉ではないと思えるからだ。
 例えば、人は誰でも死ぬ。そう言ったとき、私たちは自然のことわりの前に小さく諦めている。あまりにも当たり前に思えるので、諦めているという感覚が無いまま使うことも多いだろう。しかし、もし大切な誰かの死が身近になったとき、私たちは「人は誰でも死ぬ」という言葉を使えるだろうか。それまでと同じように、諦められるだろうか。
 「誰でも」が諦めの言葉である一方で、それは願いの言葉でもある。例えば、人は誰でも幸せになれる。それは恐らく事実ではなく、事実であって欲しいという願いだろう。願いだからこそ「誰でも」は強い言葉、私たちに超越を感じさうる言葉になる。言い方を変えれば、そこに願いが無いとき、「誰でも」が単に事実を示すものとして用いられ、事実を示すものとして読まれたとき、この言葉はその力を失う。したがって、次の「誰でも」を事実として受け取るか、事実であって欲しいという願いとして受け取るかは、読みの体験を大きく変える可能性がある。

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

     金子みすゞ

 金子みすゞは、誰もがごめんねにごめんねで返せるような、そんな世界を信じていたのだろうか。みすゞは二十六歳の春に、当時三歳だった一人娘をのこし自殺する。ここではその背景について詳しく触れないが、彼女の自殺にはふたつ特徴がある。第一に、それが単に絶望から生まれた諦めではなく、自分の死を利用した訴えであり、実際、彼女の抵抗は死後実を結んだということ。第二に、みすゞが生きた大正から昭和初期という時代において、母親の自殺の多くは子を道連れにしたものであったが、みすゞは心中という手段を選ばなかったことだ。これらはどちらも、みすゞの世界への信頼と受け取ることができる。前者は、死をもって語りかければ届くのではないかという信頼であり、後者は、母が自殺した後であっても娘が生きる価値が世界にはあるのだという信頼だ。しかし同時に、自らを世界から断つという行為には決定的な諦めが付随している。
 この矛盾は次のような解釈を許すのではないだろうか。みすゞは諦めていると同時に信じていた。その矛盾する状態が「誰でも」という願いを生んだ。そもそも、願いとはそういうものであるはずだ。諦めきっていれば願うことは無く、信じきっていれば願う必要はない。だからこそ、そこには神が宿る可能性がある。

 

 歌人の穂村弘は、著書『整形前夜』の中で、詩歌が読まれない現状について次のように分析している。いわく「表現には『共感=シンパシー』と『驚異=ワンダー』のふたつの要素があり、近年は圧倒的に共感が求められている。しかし詩歌は共感よりも驚異との親和性が高い。だから敬遠される」。ここで述べられている「驚異」とは何だろうか。穂村は例として、井上雄彦による『スラムダンク』のワンシーンを挙げる。

 残り時間0秒で信じられないような逆転シュートが入った瞬間、登場人物たちは全員驚愕と畏怖の表情をしている。「驚異」に触れてしまった者の顔だ。一瞬の後に周囲の人間たちが歓喜と絶望の表情に変わった後も、シュートを放った本人だけは「怖ろしい」「理解できない」という顔のまま。「驚異」から「共感」へ移行する心の時間差が表現されているのだ。

 それまでの世界ではありえなかったこと、それが驚異の正体であろう。理解できない何かに出会った瞬間、私たちは驚異にふれることができる。ほんのいっとき、それを感じることができる。しかし次の瞬間、それまでの世界ではありえないものだった驚異は、次の世界の事実となっている。そうしてやっと、驚異だったものは、驚きや喜び、悲しみという感情とともに理解(=共感)される。その僅かないっときを切り取ることに詩の本質があるとすれば、詩が共感よりも驚異との親和性が高いという穂村の言葉は頷けるものではないだろうか。

 ここで改めて、金子みすゞの『こだまでしょうか』を読み返してみたい。最後の連を除けば、友達とけんかをし仲直りをする、という話が描かれているが、ではこの詩が切り取っている瞬間(=驚異)があるとすればそれはどのようなものだろうか。その手がかりとして、同じく友人とのけんかを描いた『お堀のそば』を読んでみたい。作中、「私」は仲直りをしようと、にっと笑いかけたのだが、知らん顔をされてしまう。ここではその後の二連のみを抜粋した。

お堀のそば

(略)

笑った顔はやめられず、
つッと、なみだも、止められず、

私はたったとかけ出した、
小石が縞になるほどに。

     金子みすゞ

 「私」にとって何かが驚異だった。それは知らん顔をされたことかもしれないし、仲直りができないことかもしれない。ショックを受けている自分自身が驚異だったのかもしれない。何であれ、その瞬間がみずみずしく切り取られていることがわかる。ここには、ごめんねがごめんねで返されない世界がはっきりと描かれている。
 だとすると『こだまでしょうか』で語られる「『ごめんね』っていうと/『ごめんね』っていう」世界との矛盾をどのように解釈すれば良いだろうか。ひとつは前節で述べたように、それが願いだとする受け取り方である。そしてもうひとつは、『お堀のそば』と同様、ある瞬間を切り取ったものとして受け止めることだ。誰もがこだまのようになれる瞬間。そんな一瞬を『こだまでしょうか』は表現しているのではないだろうか。
 『お堀のそばに』が切り取ったように、私たちは常に理想ではいられない。しかし、その一瞬を描くことはできるし、もしかしたら出会うこともできるかもしれない。「誰でも」という矛盾を用いることで、みすゞは瞬間を切り取ることに成功している。だからこそ、そこに神が宿る。

 神とは、いまこの世界を超越する何かだ。それは、願いとして表現される可能性かもしれないし、瞬間として描かれる驚異かもしれない。そして、神が宿るのに、それほど多くは必要ない。

 


金子みすゞの詩の表記は、彩図社で用いられている現代仮名遣いに従いました。
著作権、掲載の許可については、金子みすゞ著作保存会に問い合わせを行っております。

参考資料
金子みすゞ『金子みすゞ名詩集』、彩図社、2011年 
矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』、JULA出版局、1993年
穂村弘『整形前夜』、講談社文庫、2012年 

文字数:2754

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