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暇つぶしではないもの

 あなたは、あなたの人生の中で「これは暇つぶしではない」と言い切れるものを、いくつ持っているだろうか。意地の悪い聞き方かもしれない。「いくつ」と聞かれると、まるで持っていることが当たり前のような前提がそこに表れるからだ。
 私たちにとって「暇つぶしではない何か」が、それほど簡単に得られるものではないということ、むしろ、たったひとつでもそう言い切れるものを持ち合わせている人々に憧れさえする、という思いは、多くの人にとって共感可能な感覚ではないだろうか。改めて問い直してみたい。
 あなたは、あなたの人生の中で「これは暇つぶしではない」と言い切れるものを、ひとつでも持っているだろうか。

 

 通勤電車の中で過ぎていく時間は、暇つぶしに包まれている。もしあなたが平日の朝晩のいっときを電車で過ごしているのだとしたら、その時どのように時間が過ぎているのかを思い返して欲しい。あなたと同じ車両に乗った人たちは、何をしているだろうか。多くはスマホでニュースをみたり、ゲームをしたり、もしくは小説を読んだり、音楽を聴いたりして時間をつぶしている。寝ている人もいるかもしれない。
 時間を「つぶす」という言葉が示すように、それらは必ずしも肯定的に扱われない。上に挙げた例の中で、もっとも「暇つぶし」から遠く感じられるものが「寝る」ことだというのも、何か皮肉めいたものを感じてしまう。
 2014年に行われた調査によれば、世界の通勤時間の平均は、片道32分30秒、日本での平均は39分6秒であるらしい。全てが電車の中というわけではないだろうが、毎日繰り返され、人生の数パーセントを占めるかもしれない時間の中でなされる行為を、私たちはポジティブに受け取っていない。

 もうひとつ別の視点から通勤電車について考えてみよう。大抵の場合、私たちは車内の時間を一人で過ごす。乗り合わせた他の乗客との間にコミュニケーションが生まれるのは稀なことだ。しかし稀だからこそ、そういった「できごと」は記憶に残る。
 電車内で繰り返されているコミュニケーションのひとつに「座席の譲り合い」がある。このコミュニケーションが苦手だという人も多いのではないだろうか。想像してみて欲しい。自分が座った席の斜め前に、60歳前後の初老の男性が、疲れているようにも見える表情で立っていることに気づいた瞬間を。あなたは思うかもしれない。なぜもう少し歳をとっていないのか。なぜ明らかな老人ではないのか。なぜ腰を曲げ杖をついていないか、と。さらにあなたは思うかもしれない。なぜ私の目の前でなく斜め前なのか、なぜもう少し譲りやすい位置にいないのか、と。あの初老の男性は譲られてまで座りたいのだろうか。「どうぞ」「いや結構」という問答で困らせやしないだろうか。席を譲ろうとする私は周りからどう見えるのだろうか。そんなつまらない想像が、頭のなかを巡る。
 なぜ私/私たちは、何も考えず席を立ち「どうぞ」と言えないのだろうか。それはおそらく、そこに「失敗」の可能性をみてしまうからだ。席は譲りたい、しかし失敗はしたくない。その板挟みに耐えられないとき、私たちはまるで電車を降りるかのように装ってそっと席を立ち、何も言わずドア付近に向かうのだ。
 厄介な「座席の譲り合い」だが、ひとつ面白い側面もある。席は譲りたい、しかし失敗はしたくないという板挟みにあるとき、私/私たちは「暇つぶし」をもはや必要としていない。どうすれば良いかに必死で、ニュースやゲームや小説は目に入らず、音楽は聴こえなくなっているだろう。國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で用いた言葉を借りれば、私たちは座席の譲り合いに「とりさらわれ」ている。
 失敗の可能性をみたとき、私たちは「暇つぶしではないもの」の近くに居る。

 

 もう少し失敗と暇つぶしの関係について考えてみよう。
 失敗の裏には、常に「かくあるべき」とか「こうなって欲しい」という目的や正解のようなものが存在するはずだ。その正解からのずれが「間違い」であり、失敗である。先ほどの座席の譲り合いの例では、そのずれの可能性を「想定」することで、その世界に「とりさらわれ」、暇つぶしから距離を置くという効能を得た。しかし失敗にはもうひと種類、実際に行動に移した後に気づく、「想定外の失敗」というものがあるはずだ。
 例えばアルバイト探しだ。アルバイトは、失敗したと思ったからといって簡単に辞められるものではない。であるから、多くの人が慎重に、いくつもの求人サイトや求人雑誌を見比べて選ぶ。初めてアルバイトを探した日々のことを思い出して欲しい。職種、時給、通勤時間、色々なものを比較検討して、そのアルバイトを選んだはずだ。
 しかしときに、そんな検討は全く意味が無いと言わんばかりの理不尽さで、現実は私たちの想定を裏切る。自己申告制だったはずのシフトは、はやく戦力になってもらわないと困るという理由で自己申告できなかったり、外から見て和やかだった人間関係が、休憩室ではドロドロだったりするのだ。
 アルバイトだけではない。何度も練習したはずのスピーチが、本番の緊張で台無しになることは珍しくない。自分に気があるはずだと思っていた相手から、誰かいい人を紹介して欲しいと頼まれることも珍しくはない。私たち自身を含め「複雑すぎるもの」と暮らしている以上、想定外の失敗は常に身近に存在している。
 このような失敗に気づいたとき、言い換えれば、今まで認識していなかった世界の複雑さに気づいたとき、再び私たちは「暇つぶし」ではない時間を味わっている。そのとき私たちは、無意識にせよ意識的にせよ、世界の見方を改めている。その時間は心地よいものではないが、少なくとも退屈なものではないだろう。
 身を持って失敗したときも、私たちは「暇つぶしではないもの」の近くに居る。

 

 こんなふうに書くと、まるで「失敗をしろ。経験を積め。」という、良くあるマッチョな言葉に聞こえるかもしれない。しかし、それでは明らかに言葉が足りない。そんなことはわかっていて、それでも失敗したくないのが人間だ。であるから、失敗を避けて避けて、避け続けるのはどうだろうか。それでも私たちは「失敗の可能性」に悩まされ続けるだろう。それは決して「暇つぶし」と呼べるほど簡単なものではない。
 そしてどんなに避け続けても、いつか「想定外の失敗」はやってくる。そのとき改めて、失敗について考えてみるのはいかがだろうか。

文字数:2644

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