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匂い立つ母

 圧縮性。ロケットエンジンの肝であるラバールノズルが、超音速を生み出すために利用する気体の性質だ。
 このラバールノズルの形状は砂時計に似ている。砂が上部から細いくびれを通り下側に落ちていくように、エンジン内の気体もまた、ノズルのくびれを通過していく。ジワジワと狭くなる通路を流れる気体は徐々に速度を上げ、もっとも狭いくびれを耐え開放されるとき、気体はその圧縮性をもって音速を超える。圧から開放された気体は、爆発的な膨張を遂げるのだ。膨張は運動量となり、音速の壁を超え、重力を振り切る推進力となる。
 気体やロケットを生物に見立てれば、圧縮性とはすなわち、紛れも無いエロス(=生の欲動)と呼べるのかもしれない。これから紹介するのは、そんな欲動にあてられて変化する、父と息子を描いた作品だ。

 

 父と息子を描いた作品ではあるが、そこには濃厚に母の存在が匂い立つ。ギリシア神話における母とは、大地そのものといってよいガイアだが、作品を通して立ち現れる母にも似たような雰囲気がある。作中、物語は「父と息子」の確執を中心に展開されるが、一方で彼らは共通の母をもつ「兄弟」を想起させる。彼らにとっての共通の母(=ガイア)とは、彼らが暮らす町であり、その経済を支えている炭坑だ。仕事、家、鉄道――町の全てを支える炭坑は、同時に町のすべてを束縛している。ギリシア神話においてガイアが単なる善良な母ではなく、その母性ゆえに子を支配しようとする構図は、この炭坑として描かれる母にも表れている。
 映画冒頭、ソ連が人類初の人工衛星の打ち上げに成功したことを伝えるラジオと共に映されるのは、炭坑で働く男たちを引き上げるワイヤロープである。画面全体にズームされる黒々とした金属のロープは、男たちと母との断ち切り難い関係を直接的に表す。お前たちは皆、親子である前に私の子供なのだ。そんな暖かくも冷たい声が、ワイヤロープを巻き取るモーター音と重なる。

 このような肥大化した母性を、批評家の宇野常寛は「母性のディストピア」という言葉で表現した。その宇野自身が、そして精神科医の斎藤環も指摘したように、母性批判は批評史の中で繰り返されてきた問題の一つでもある。

 批評には「母性批判の系譜」とでも言うべき伝統があることを看過すべきではない。その先駆者として江藤淳による「第三の新人」批判があり、河合隼雄の批判も広く知られている。80~90年代においては浅田彰による母性批判が代表的なものだ。浅田はサイバー空間が一種の子宮と化すことで、退行した若者がその中を胎児のように浮遊するようになるという予測に基づいて批判を展開した。(※1)

 そしてこの母性の問題は、江藤淳が行った戦後日本に対する議論にとどまらず、ある種人間にとっての構造と呼べるものではないだろうか。先ほどのギリシア神話の例を挙げるまでもなく、肥大化した母性を描いた物語は枚挙にいとまがない。

 

 作中、まず母との離別を決めるのは弟(=息子)である。その思いを彼に抱かせたのは、高度900キロの軌道を周回するスプートニク――ソ連によって打ち上げられた人類初の人工衛星――の姿だ。
 彼が初めてスプートニクをみる場面で、夜空を横切るスプートニクはいかにもか弱い光として描かれるが、一方でそれを棒立ちで見上げる彼の姿は、スプートニクの倍以上の時間をかけて丁寧に描写される。同時に、彼の周囲では同じようにスプートニクを見上げていた住民たちが「そのうち爆弾を落とすぞ」という軽口とともに、散り散りになっていく。この対比の中で、スプートニクのもつエロスが彼にだけ届いたことが描かれる。翌朝、彼はロケット作りを決意する。彼が作ろうとするロケットこそ、母である炭坑を捨て町を出ることの象徴だ。
 「父と息子」の問題は、少年がロケット作りに目覚めることで炭坑という母を捨て、実の父の「息子」になったことがきっかけとなる。なぜなら一方の父は、炭坑を捨て「父」になることができていないからだ。
 父を求める息子と、父になれない男。ここから生じるすれ違いが、作品の中心に据えられた「父と息子」の確執の原因といってもよいかもしれない。

 批評家の東浩紀は著書『セカイからもっと近くに』の中で、「セカイ系の困難をますます深くする原因のひとつ」として、前掲の宇野の「母性のディストピア」があることを指摘する。そしてその罠から救う可能性として「生殖への欲望」を挙げる。そこに至る過程で東は、小松左京の『日本沈没』の元に、母をふたつに分類する。

 ひとつは、玲子が象徴する社会的な母。男性を癒してくれるが、子を産まない母。もうひとつは、摩耶子が象徴する(いわば)動物的な母。男性を癒してはくれないかもしれないけれど(…)、子を産んでくれる母。そして小松はこの小説で、最後の希望を玲子にではなく摩耶子に託しているのです。(※2)

 子を産んでくれる母。そして、子を産んでくれた母。物語の終盤、父になりきれない男を炭坑から引きずり出したのは、少年を産んだ母であり、男の妻である。彼女は炭坑への怒りを露わにして夫を問い詰める。この怒りこそ男があてられたエロスであり、子を産んでくれた母がもつ圧縮性と言えるだろう。

 


※1 斉藤環『現代文化におけるファリック・マザー (アディクションと家族、26巻第3号)』家族機能研究所、2010年、195-200項
※2 東浩紀『セカイからもっと近くに』東京創元社、2013年、150項

文字数:2239

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