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没入する身体

Playのつながり

 サービス開始から10年が経とうとしているニコニコ動画において、一貫して人気を保っているジャンルの1つに「(実況)プレイ動画」がある。これらは主に、プレイステーションやWiiといったコンピュータゲームをプレイする様子を動画にしたもので、映像にはゲーム画面をそのまま用い、音声にはゲームサウンドに加えてプレイヤー(動画投稿者)の「プレイ時の反応や雑談(=実況)」を重ねる形をとる。この「実況」は、プレイヤー自身の肉声で行われることが一般的だが、『Softalk』などの読み上げソフトを用いた合成音声がアフレコ的に使用される場合もある。また、ゲームの「視聴」体験を損なわないようにという配慮から、音声ではなく字幕での解説を試みる動画もある。
 「プレイ動画」の人気は、ニコニコ動画や日本に限った話ではない。YouTubuには同形式の動画が数多く投稿されおり、多くの海外YouTuber達の収入を支えるものとなっている。また多少の飛躍が許されるのであれば、この人気はゲームだけのものでもない。私たちはスポーツも観戦するし、音楽も鑑賞する。そこには素朴に、なぜ本来「プレイする」ものが、これほど「みられて」いるのか、という問いがあるだろう。
 本稿では対象を「プレイ動画」に限定し、近年の映画理論の流れを参照しつつ、また心理学者のチクセントミハイによって提唱された「フロー体験」の概念を用いながら、この問いについて検討していく。

映画理論と身体

 映画理論とは、抽象的な言い方をすれば「映画とは何か」を理解していくための理論である。プレイ動画のようなネット上の動画コンテンツを考える目的からすると「映画」の理論を用いることに違和感を覚えるかもしれない。しかし、フィルムからデータへという、デジタル化の波を受けて変容している映画理論は、これまでの「映画」という枠を超え「映像そのもの」に手を伸ばしている。むしろ「映像」を考える上で、これら「映画」が蓄えてきた知は避けて通れない。
 また同時に、映画にとって遠く離れた存在に思われるプレイ動画についての考察が「映画とは何か」を考える上での、新しい視座にもなりうるだろう。であるのでまずは映画理論、その紹介からはじめたい。

 1960年代から70年代にかけての映画理論は、戦時中プロパガンダとして利用された映画への反省もあり、映画の素朴な魅力から距離を置くようなものが主流であった。その中心にあったのがクリスチャン・メッツらの「映画記号論」である。乱暴なまとめが許されるのであれば、映画記号論は、まず映画をある規則で区切り、次に分割された各シーンを演繹的にラベル付けし、そしてそのラベルを元に映像を形式的に分析していく、という実に禁欲的な手法だ(*1)。
 しかしここで注目したいのは、映画記号論後のメッツである。1977年の『映画と精神分析―想像的シニフィアン』においてメッツは、映画の「観客」について精神分析学の知見を用いて論じていく。映画批評家の三浦哲哉の言葉を借りれば、ここでメッツは、観客の「暗闇の中でスクリーン上に投影される映像を見つめ、そこに魅入られる体験」は「『没入』という夢とも比較できる退行現象」であり、それこそが「映画観賞体験の本質」だとする(*2)。
 このような精神分析学に基づいた映画理論は、後にスティーブン・シャヴィロらの批判を受けるが、観客に視線を向けたこの分析は「映画とは何か」という問いかけから、「なぜ映画なのか」という問いへの移動を促したものとして注目すべきだろう。
 その後の映画理論は、より観客の「身体」を意識していく。先ほど挙げたシャヴィロは、認知科学を踏まえて、それまでの映画理論が観客を「脱身体的な欲望」という抽象化・短絡化したものとして捉えており、観客の身体的な反応が十分に考慮されていないと批判する。映像研究者の北野圭介は著書『映像論序説』のなかで、シャヴィロの試みを「(精神分析的な)快楽以前の身体性、つまりは、情動の身体という問題系を抽出しようとするのである」とまとめている。また、ここでの「情動」を脳科学者のアントニオ・ダマシオによる定義を用いて「いわば第一次レヴェルの生体反応であり、具体的には、血流が速くなる、動悸が速くなるといった次元での身体反応」と説明を加えている(*3)。

フロー体験と映画

 先に本論の目指すところを書くと、それはメッツのいう「没入」を「フロー体験」として読み替える試みといえる。冒頭でも述べたが、「フロー体験」とは心理学者チクセントミハイによって提唱された概念で、彼の著書から引けば「ほかのことがどうでもよくなるほど、また時間を忘れて、何かに非常に深く没頭すること」であるという。以下の文章に、それはよく表れている。

 フローを体験している時、われわれは幸福ではない。なぜなら幸福を体験するためには、自分たちの内面の状態に集中しなければならず、それは注意力を仕事や手元から遠ざけることになるからである。(中略)ただ、仕事がやりとげられた後にだけ、何が起きたのか振り返る余裕の時間があり、それからその体験のすばらしさへの感謝でいっぱいになるのである。(*4)

 チクセントミハイはフロー体験を容易に得られる例として、スポーツやゲーム、楽器の演奏などを挙げている。挙げられている例はどれも、能動的で、目的がはっきりしていて、うまくいっているかどうかのフィードバックが即座にあるものであり、チクセントミハイはそれらの重要性を調査から明らかにしている。
 これを映画やプレイ動画に当てはめてみると、こちらは明らかに条件を満たしていない。そもそも「観る」という行為はかなり受動的なものだ。しかし一方で、多くの人にとって「映画に没入しフローのような経験を味わった」という感覚は、身に覚えがあるものではないだろうか。それは逆から見れば、良くも悪くも、現代の「映画的なもの」がいかに「没入」を促すものであるかを語っている。映画の効能とも呼べるこの仕組みを理解する上で、先に挙げたフロー体験の条件、すなわち「能動性」、「明確な目的」、「即座のフィードバック」をどのように映画が擬似的に表現、実現しているかを検討することは、試みとして悪くないだろう。

プレイ動画のゲーム性

 コンピュータゲームもまた映画と同様に、消費者の「没入」を探求してきたメディアである。ゲームの進歩としてまず挙げられるのがグラフィックの向上だ。かつて数え上げられるほどのドットで描写されたゲーム画面は、今や3Dが当たり前となり、その精工さはまさに「リアル」と呼ぶのに相応しいものへ近づいている。また近年までボタンでの操作が一般的であったコンシューマーゲームでは、任天堂が2006年に発売したWiiにおいて、加速度計を使用したより直感的なコントローラーが用いられたことを皮切りに、2010年にはマイクロソフトが、体の動きそのものでゲーム操作が可能になるKinect(キネクト)を発売する。さらに、長い間変化のなかったディスプレイでも、2016年にはSONYからMorpheus(モーフィアス)という、視界のほぼ全てを覆ってしまうヘッドマウントディスプレイが発売される予定だ。
 これらはわかりやすく、消費者の「没入」への欲望に応える流れとして捉えられるだろう。しかし一方で、このような対応は「そんなことよりもっとゲーム性のあるゲーム開発に注力しろ」という批判を受けることも少なくない。
 「プレイ動画」を観る側から考えても、必ずしもグラフィックが良いものに人気があるわけではない。当然コントローラーの改良は一切の影響を与えず、また「プレイ動画」が再生されるディスプレイは、スマートフォンやPC画面の一部という、元々のサイズを数分の一に圧縮したものだ。しかしこと「ゲーム性」に限れば、ゲームを観る側にとっても価値のある要素と言えるだろう。「ゲーム性が良い」と言われているゲームのプレイ動画は、はやり人気を集めやすい傾向にあるのだ。

 この「ゲーム性」とは一体何なのだろうか。ここで改めて「没入」を持ち出してみたい。つまり「ゲーム性」を、プレイヤーに「没入」を促す何かとして捉えるのだ。そしてチクセントミハイに従えば、それは「能動的」で「明確な目的」があり「即座のフィードバック」をもたらすものであると言える。私たちがハマってしまうゲームの中に、これらの要素を見つけ出すことはそう難しくないだろう。
 プレイするにせよ、観るにせよ、私たちは「没入=ゲーム性」を求めている。ゲームとプレイ動画の関係から言えば、これは、動画を観る私たちが、動画の中の「プレイヤー=実況者」に自分を重ねている証拠とも受け取れるだろう。それはメッツが述べたように、精神分析の言葉を借りれば「同一化」であり、シャヴィロに従って認知科学の知見を踏まえれば「ミラーニューロン」と言えるかもしれない。
 どちらにせよ、自分が「没入」を求めているという前提で映画やプレイ動画を観ることは興味深い体験になるだろう。もしまんまと「没入」されられたのなら、そこには「フロー」へのヒントが隠されている。もし退屈させられる瞬間があるのなら、それは私たちを「フロー」から目覚めさせ、何かを伝える為のメッセージなのかもしれない。

 


*1 森村麻紀『映画記号論再考』http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN4/METZ.HTM
*2 三浦哲哉『映画とは何か』筑摩書房、2014年、156項
*3 北野圭介『映像論序説』人文書院、2009年、130 – 147項
*4 M・チクセントミハイ、大森弘(監訳)『フロー体験入門』世界思想社、2010年、44項

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