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寝取られという欲望

あなたは身の回りの「浮気」について、考えたことがあるでしょうか。きっと、あるはずです。もし私たちが無人島で生まれ、自分以外の人間を知らずに育ったとすれば、もしかしたら浮気について考えずにいられるのかもしれません。しかしもちろん現実には、私たちは何百という人々と接しながら生きています。人がいる以上、そこには浮気があります。それが言い過ぎでないほど、浮気は私たちにとって身近な問題です。浮気と、そこから生まれる嫉妬、同情、絶望といった感情は、時に原始的な生々しさで、私たちの想像力を揺さぶります。その想像の中で、あなたは浮気する側かもしれないし、される側なのかもしれません。近年、そのような想像をあえて愉しもうとする嗜好を「寝取られ」と呼ぶようになりました。

「寝取られ」は、2000年前後からインターネット上で使われ始めた言葉です。その使われ方には今でもかなりの幅がありますが、基本的には、浮気されることに性的興奮を覚える性癖、またそれらを描いた作品のことを指します。「寝取られ」の特徴をひとつ挙げるとすると、必ずしも不倫や、付き合っている間柄での不貞が対象とされるわけではないことです。例えば、ひっそりと片思いしていた同級生に年上のパートナーが居ること、そして彼らが肉体関係にあることを知ることで性的興奮を覚える、のようなシチュエーションも「寝取られ」として分類されます。そこに共通するのは、ある種の「裏切り」が与える興奮です。

自明のことですが、「寝取られ」という言葉が意識される前から、「寝取られ」的な作品は存在していました。フランスには「寝取られた男」を意味する「コキュ(cocu)」という言葉があり、コキュを題材に様々な作品が描かれています。日本でも「寝取られ」の歴史は長く、古くは源氏物語にまで遡ることができるでしょう。和歌や浮世絵、演劇など「寝取られ」はジャンルを問わず表現されてきました。そして昭和の寝取られ文学の傑作として、谷崎潤一郎の『鍵』を挙げることができるでしょう。谷崎は近代日本文学を代表する大作家の一人です。谷崎といえばマゾヒズムやフェティシズム、という印象を持つ方も多いのではないでしょうか。

『鍵』は谷崎の晩年、昭和31年の小説です。『鍵』で描かれるのは、ある初老の大学教授の妻である郁子と、娘の婚約者候補である木村との不倫です。物語は「僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテイタヨウナ事柄ヲモ敢テ書キ留メル事ニシタ」という、大学教授の日記から始まり、最後まで日記を通して語られます。途中、妻の郁子も日記をつけ始め、夫と妻、それぞれの日記が交互に出てくる構成をとり、推理小説のような雰囲気もあります。

奇妙なのは、夫婦がお互いにそれぞれの日記を盗み読んでおり、かつお互いがそれを承知した上で日記を書くという関係を持つことです。面と向かっては殆ど会話も無い二人ですが、お互いの日記を盗み読むことを通して、濃密な対話を重ねていきます。夫は日記にセックスの不満や、妻と木村の関係に対する思いを率直に書きます。
「彼女ハ……木村ト不義ヲスルヲ夫ニ許サレタモ同然デアルト考エルニ至ルカモ知レナイ。因果ナ事ニ、僕ハソコマデ想像スルトイヨイヨ溜ラナイ嫉妬ヲ感ジ、ソノ嫉妬ノ快感ノ故ニ敢テソノ危険ヲ冒シテミタクナルノデアッタ。」
妻もそれに答えるように、夫への不満や、木村への思いを綴ります。
「……実はこの男は夫なのだと云うこと、―――夫に抱かれながら、それを木村さんと感じているのだと云うこと、―――それも私には分っていた。」

そこには明らかに、相手が自分を理解し得るだろうという信頼があります。二人の日記はまさに剥き出しの欲望であふれていますが、二人ともその欲望を隠そうとはしません。それは同時に、伝えたところで二人の関係は変わらないのだという信頼の証でもあります。この「対話によって他者が自分を理解し得るだろう」という期待は、昭和をあらわす言葉のひとつとして抜き出せるのではないでしょうか。もう少し厳密に言えば、なぜか私たちは、他者への信頼が昭和にはあったと「信じたい」のかもしれません。でなければ、三丁目の夕日の中に現れてくるような、楽観的ともいえる「解り合えるだろう」という期待を、私たちは冷めた目で見なければいけなくなってしまうからです。昭和とは、他者との対話が信じられる時代だった。昭和というノスタルジーに浸るために、そういう前提を私たちが求めている気がしてなりません。

寝取られ文学としての『鍵』に話を戻しましょう。

物語は、妻の郁子がある決定的な裏切りを告白する形で終わります。この裏切りが、夫である大学教授の望みであったかは明らかにされません。しかしそこに至るまでの過程で、教授が、燃えるような興奮を味わったことは確かだと言えるでしょう。このように、「寝取られ」が生み出す興奮とは、「理解し合えると信じていた相手と解り合えなかった」という想像力なのではないでしょうか。そしてその裏切りの前提となるのは「他者と理解し合えるだろう」という、対話への期待です。昭和というノスタルジーを味わうために他者への信頼が必要だったように、寝取られという想像力にも、相手と理解し合えるはずだという前提が必要なのです。

この想像力は、その後どのような変遷を遂げるのでしょうか。ここでは、吉田修一が平成18年に発表した小説『ひなた』にその可能性を見てみたいと思います。吉田は、『最後の息子』でデビューした平成9年から、一貫して都市で生活する若者とその周辺を描いてきた作家です。また同時に、いわゆる「軽い」と言われるような肉体関係をきっかけにした話の展開も多く、それは「寝取られ」というほど性的な描写に凝っているわけではありませんが、新しい「寝取られ」を期待させてくれる作家です。

『ひなた』は、都市で生きる4人の若者それぞれの視点から、ある家族の一年を描いた作品です。家族の次男であり、大学生の大路尚純は、物語の終盤に自分の出生の秘密と、父が過去に行った裏切りを知ることになります。その裏切りは、彼の母が20年以上自身の中だけに抱え、そしておそらく最後まで隠し通そうとした秘密でした。一方、尚純の兄である大路浩一にも、一人で守り続けてきた秘密があります。それによって妻である桂子を裏切り続けるのですが、一方の桂子も秘密を抱え、夫を裏切り続ける自分に悩みます。

『ひなた』で語られる「秘密」はどれも、大路家という家族を破壊する可能性があるものとして描かれます。その背後にあるのは、相手が自分を理解し得ないという、対話への絶望です。だからこそ『ひなた』の登場人物たちは頑なに秘密を守り、何の問題もない姿を演じることで、家族という関係を守ろうとします。もはやそこには「対話によって他者が自分を理解し得るだろう」という昭和的信頼はありません。

対話をしない彼らは、けれど絶望の中で生きているようには描かれません。浮気をされた母はしかし、老後を夫と共にバンコクで過ごすことを選びます。出生の秘密を知った弟はふと、兄を旅へ誘います。そしてお互いに裏切りを重ねる若い夫婦はそれでも、一緒にいたいと願います。対話はできなくても、一緒にいることはできる。そしてそれはおそらく、そんなに悪いことではない。対話を失った私たちに残っているのは、そんなささやかな希望なのかもしれません。

しかしもし現代が、お互いを理解し得ないという前提に立っているのなら、「理解し合えると信じていた相手と解り合えなかった」という寝取られ的興奮もまた、過去のものとなってしまったのでしょうか。理解し合えるという前提がなければ、そこに裏切りはありえません。その中で裏切りを描いたとしても、それはどこか空虚で、私たちの興奮を掴むものにはなり得ないでしょう。もう二度と、あの燃えるような興奮は味わえないのでしょうか。確かに今、寝取られ的想像力はひとつの困難に直面しています。

それでもなお、現代の「寝取られ」を描くのだとしたら、私たちにはどのような裏切りの可能性が残されているのでしょうか。昭和的信頼を裏切って、私たちは「寝取られ」を得ました。しかし残されたのは、信頼もなければ裏切りもない、他者との対話に絶望した世界です。この困難に立ち向かうのは容易なことではないでしょう。しかしもし私たちが、現代の「寝取られ」を求めるのであれば、あらゆる手段を用いて、対話が可能だった世界を取り戻す必要があります。そうして初めて「理解し合えない世界で、理解し合えていた」という、新しい裏切りの想像力、新しい寝取られへの道が開かれるだと思います。

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