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ダンス/ダンス/ダンス

1:ダンス・ダンス・ダンス
 就職してはじめて東京で暮らしたとき、一様に早足で歩いている人々に、異様な違和感を覚えた。その一律な速度は、かれらが等しく「同じ場所」を目指しているような錯覚を私に与えた。飛躍する想像力。この街のどこかには巨大なモスクがあり、人びとは皆、其処で行われる礼拝のために急いているのではないだろうか? 休日になると私は、ただ人並みに流されるように街を歩いてみた。自分の意思を捨て、人ごみに流される感覚は、川のながれを遡行しその源流をつきとめようとした少年時代の記憶に似ている。つまり私は、この東京という街を司る、神の姿を確かめたかったのである。だが、その姿は決して見出されるものではない。神とは、具体性をもった形象ではなく、同一の速度で歩く人びとを支配する単一の時間性(クロック)そのものにほかならないからだ。
この遊戯はすぐに飽和する。私自身が足早に歩くことに馴致されたから。他方では、連日の激務に心身ともに疲れ、休日にアパートの外に出る気力をうしなったから。
就業に対する希望をすっかり失った私にはしかし、ただ、誰よりも有能な社員であろうという決意が残っていた。その決意は、自己啓発本のたぐいなどではなく、高校生のときにふれた小説を再読することによってうまれたのだった。「踊るんだよ」とその印象的な科白を何度も自分自身に言い聞かせた。

「踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなことを考えたら足が停まる」(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』)。

「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに〔中略〕だから踊るんだよ。音楽の続く限り」(前掲書)。

社会科学の一般的な定義では、<社会>とは「コミュニケーション可能なものの総体」、<世界>とは「ありとあらゆるものの総体」を意味する。点Sを<私>の立つ位置として、それぞれの関係を図示する(図1)。<世界>は<社会>を包含している。<社会>は<世界>の部分集合である。
「みんなが感心するくらいに」「とびっきり上手く踊」ろうという決意は、徹底して社会的存在になろういう志向だ。では、社会に埋没するところの<私>は、世界が社会を内包するという理由で同時に、世界的存在といって差し支えないのだろうか? そうではない。社会に埋没する<私>という視座からみれば、「世界」と「社会」の関係は、図2のようになる。この図2において、「世界」の外延は点線で描かれており、他方で「社会」のそれは実線で描かれている。実線は<私>が属していると意識できる領域の外延を、点線は、原理的には<私>が属しているものの、そのことを<私>が意識できない領域の外延を意味している。いわば、「社会」という外延が「壁」になって視界を遮り、その内側に立つ<私>には、その外側の領域が見えないのだ。

(図1)

 

図1

(図2)

図2

2:檻の中のダンス
『自殺完全マニュアル』でセンセーションを巻き起こした鶴見済は、1998年の『檻のなかのダンス』で次のように述べている。ちなみにこの著書は、鶴見が覚醒剤所持の容疑で逮捕されたのちに書かれたものである。この経験によって鶴見は、社会は基本的に監獄と同型の、「檻」であるという認識を得る。

「監獄でも会社でも職場でも、頭の扱い方は違っても、体のほうは同じことをやっている。それに気づかないのは、管理してる側がそれを隠すからだ。〔中略〕「教育=刑」がわかりにくいのも、学校が頭を中心に教育している振りをしているからだ。頭の指導の「教育要項」ばかり発表して、姿勢、動き方といったメインの「体の指導要項」は、あるくせに絶対に明かさない。
〔中略〕
決して比喩なんかじゃなく、我々は監獄的な状況生きている。普通に生きているだけなのに苦しかったりするのは、ひとつにはそのせいだ。」(鶴見済『檻のなかのダンス』)

鶴見がこの「発見」が、M・フーコーにおける規律訓練的な権力構造を指していることは、いうまでもない。鶴見が提示するのは、そのような「制度」に対抗するのではなく、それを所与のものとして甘受し、「どうでもいいこと」として受け流すための方法論だ。
『人格改造マニュアル』では、鶴見はその前書きにおいて同書を、「自殺もせずになんとか楽に生きていくための実用書」と規定している。だが、たとえばアフェアネス・トレーニングのメッソドなどを求めてその書を手にした読者は、戸惑うに違いない。この著作に指南されているのは、たとえば、覚醒剤やMAMDといった違法薬物、あるいは精神賦活剤や抗鬱剤といった向精神薬剤の効能や、その具体的な入手方法だからだ。ほかには、鬱病患者の治療方法である電気ショックを、家庭用コンセントからとった電流で行う方法などが紹介されている。これらによって鶴見が目指すのは次のような境地だ。

「その時ついに世界は「どうでもいいこと」一色になり、体はスッキリと軽くなる。ちょっとしたコツをつかんで、肩の力を抜けば、生きていくことなんか意外と楽チンなことなのだ」(『人格改造マニュアル』、太字引用者)

「世界」と表現されているが、前述した定義に則するならば、それは<社会>を意味する。つまり、この「実用書」に指南されているのは自己を、社会を「どうでもよいこと」として感受する主体として再編成するための方法論である。そのようにして「改造」された自己を在り方を図示する(図3)。

(図3)

図3
ここでは自己は、実線で描かれた社会の外側に位置する。同時に、自己がその内側に立つはずの世界が点線で描かれている。自己は、社会から逸脱しているという自覚はあるが、しかし、世界に内包されていうという意識もない。このような視座にある<私>は、結局、なにものにも包摂されていないという感覚を抱いている。ここでの<私>は、単に脱社会的な存在である。

3:神の子どもたちはみな踊る
唐突に雨が降ってきた。人びとはひときわ足早に歩いている。そのとき再び、人びとが皆、「同じ場所」を目指して歩いているという感覚が降りてきた。人ごみに身を任せて歩き続けた。目の前にビルディングが立つ。私は見上げた。
その壁面には巨大な垂れ幕が降りていた。髪の毛を逆立てたコケイジアンの女性モデルの写真が映されていた。私は見つめられているような気がした。
見つけた、とふいに私は思った。
性急なこの街を司る女神がそこに立っていた。
「踊るんだよ」
そして雨に濡れながら私は立ちすくんでいた。
「何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなことを考えたら足が停まる」
踊ることの無意味性に疲れたわけではない。
「だから踊るんだよ。音楽の続く限り
間違っているのだ。かかっている音楽が決定的に間違っている。
この音楽のリズムでは踊れない。

* * *

1996年以来、毎年夏に開催されていた「Rainbow2000」という伝説的なレイヴがある。のちに、幻覚性薬物を乱用している参加者がいるというTV報道によって、潰えた。
私が見聞したかぎりのことを記せば、主催者が運営している出店に、当時は違法ではなかった幻覚性キノコが並べられていた。(私の参加は、白山で開催された1998年)。
だが、幻覚性物質に頼る必要はない。レイヴで流れる巨大な音楽のリズムに身を任せて踊り続ければ、やがて幻覚体験に匹敵する変性意識状態が訪れる。このとき、社会という壁(フレーム)は熔解し、私たちは世界を直視する(図4)。

(図4)

 

図4

この体験は、私たちに、ある変化をもたらす。それまで持たなかった、自然への鋭敏な感覚。

「鶴見 自然にたいする感覚は、トランス前/後でどうです?
上野 全然変わったでしょ。蝉の聞こえ方とかね。
一同 はいはい、そうそう!」(鶴見済・清野栄一『レイヴ力 rave of life』)

自然にひらかれたこの感覚は、人間関係を超えた関係への接触、すなわち、<社会>を超えた<世界>への感受性にほかならない。『レイヴ力』の対談者たちは、くりかえしこの、人間関係を超えた(<社会>を超えた)<世界>への感覚を語る。

「鶴見 俺はレイヴに行くにつれて、だんだん人間が自然に負けてしまう感じがしてきてるんですよ。自然の良さがだんだん見えてくる、っていうのか……以前は人間しか眼中になかったですけどね。」(前掲書、太字引用者)

「鶴見 そう。だから俺は花が一番好きになっちゃって。花とか植物って、種を超えた繋がりで自分たちが満たされちゃってるんだけど、なぜ人間は人間どうしの関係しか発想できないんだろうか? って。
〔中略〕
清野 暇な時は、朝起きたらとりあえず植物の世話を一時間ぐらいして、それからやっと風呂に入るか、みたいな。芽が出たとか、伸びたとか、咲いたとか、そんなことで一喜一憂していている。」(前掲書、太字引用者)

同じ植物でも毎年、天候その他の自然の条件によって、芽吹き、花咲き、実を稔らせる時期は異なる。ここには、時計で一律に計られるそれとは異なる、別のクロック(時間)=リズムがゆるやかに流れているのだ。
一度はダンスをやめた。
しかし、このようなリズムに合わせて、もう一度踊りはじめることは、それほど悪いことではないはずだ。私たちはもう「檻のなか」に閉じ込められた存在ではないのだから。

「踊るのも悪くないな、と義也は思った。悪くない。目を閉じ、白い月の光を肌に感じながら、義也は一人で踊りはじめた。深く息を吸い、息を吐いた。気分にあったうまい音楽を思いつけなかったので、草のそよぎと雲の流れにあわせて踊った」(村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』)

 

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