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ヒューマニズムと神

■ヒューマニズムとは

ヒューマニズム(Humanism)ということばは、人道主義という理解で用いられる文脈が多い。しかし、厳密には、人道主義に対応する英語は、Humanitarianismである。本稿で扱うヒューマニズムという概念を、日本語に置き換えるとすれば、人間主義、あるいはもっと端的には人間中心主義ということばが適切であろう。この意味でのヒューマニズムは、ismという接尾辞が付いているものの、なにか特定の思想的内実を指示するものではない。人間主義としてのヒューマニズムは、人間を特権化する指向性を持った思想を内包するメタ・カテゴリーである。

 

■人間の定義

人間の本質とは何であるかを扱う哲学は多い。このような探求は、たとえそれが素朴な問いに発するものであったとしても、危険である。なぜなら、かかる試みは、かならず人間と人間ではないもの(「非人間」)との峻別へと向かうからである。人間を定義することは、人間ではないもの(「非人間」)を措定することなしにありえない。なぜなら、人間の定義は、窮極的には、「人間とは・人間ではないもの・ではないもの」として、トートロジカルになされるほかないからである。つまり、人間の定義を記号式で表せば、次のように定式化される。

(この際、Hは「人間」を意味し、¬は「でない」という否定記号である)

H=¬(¬H)

人間を定立することは、非人間を同定することと、同義である。しかしなぜ、このような「人間の定義」の持つ構造が危険なのか。それは、人間と非人間との峻別こそそがまさに、あらゆる差別の言説を基底的に支えるものだからである。このことを今村仁司は、次のように指摘している。

排除と差別のイデオロギーをとことん追いつめていくと、究極には人間/非人間という切断線が走っていることが露呈してくる。人間であるか非人間であるか、という分類と区分は、けっして自然的でも、生物学的でもない。人間/非人間の切断と分類は、文化的なものである。文化的なものとはイデオロギー的なものであるということである。
人間中心主義(ヒューマニズム)は、もっとも深い根底に、「人間は非人間ではない」というトートロジック(同義反復・tautologic)な命題を抱えている。それは論理の問題ではない。これは非人間とされるものに対して暴力的にふるまう物質力なのである。≫(『近代性の構造-「企て」から「試み」へ』、太字は引用者)

人間を措定することは非人間を同定(対象化)することと同義である、ということは、すでに述べた。今村の指摘において第一に重要なのは、それが「文化的」あるいは「イデオロギー的」なものであるということだ。それゆえ、人間と非人間の分割線は、いわゆる人類としての人間内部に食い込んでくる。ある対象を差別する際、その言説は「かれらは人間ではない」という構造をとる。

今村の指摘において第二に重要なのは、「人間は非人間ではない」というトートロジックな命題が、「論理の問題ではな」く、「非人間とされるものに対して暴力的にふるまう物質力」なのだということである。くりかえすが、「人間」を同定するためには、それに伴ってかならず「非人間」の同定(対象化)が要請される。問題は、“人間”内部において「非人間」の対象化がなされることにあるのだが、ところで「非人間」の対象化とは具体的に何を意味するだろうか。それは、「非人間」を、それに相応しく「非人間」的に処遇することにほかならないのだ。

 

■人間中心主義と神

キリスト教が、以上に考察してきたような人間中心主義の一つであることは、疑う余地がない。

宇宙のあらゆる存在は神の手になる被造物であり、人間もそのうちの一つにすぎない。いうまでもなくこれが、キリスト教にある基本的な世界観である。しかし、このことは、決して人間存在の相対化を意味しない。というのは、人間に関する神の制作態度が、その他の被造物の場合とは、根本的に異なっているからである。
E.フロムは、次のように述べている。

≪人間の本性に関する聖書のもっとも基本的な命題は、人間が神のかたちに造られているということである≫(『ユダヤ教の人間観-旧約聖書を読む』)

このことによって、人間は、その他の被造物に対して特権的な地位を与えられる。人間だけが、「神のかたち」に、すなわち神の似姿(似像)として創造されたのだから。よく知られているように、フロムのいわゆる「人間の本性に関する聖書のもっとも基本的な命題」は、なによりもまず旧約聖書の『創世記』の中に認められる。

≪そこで神が言われた、「われわれは人をわれわれの像の通り、われわれに似るように造ろう。彼らに海の魚と、天の鳥と、家畜と、すべての地の獣と、すべての地の上に這うものとを支配させよう」と。それで神は人をご自分の像の通りに創造された≫

人間が「神のかたち」に造られたというこの思想はまた、新約聖書の中にも確実に受け継がれている。以下に主要な箇所を列挙しておこう。

≪神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。≫(ローマの使徒への手紙・8・29)

≪わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。≫(コリントの使徒への手紙一・15・49)

≪この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。≫(コリントの使徒への手紙二・4・4)

≪御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。≫(コロサイの使徒への手紙・1・15)

≪造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。≫(コロサイの使徒への手紙・3・10)*[i]

神は自身の御姿に似せて人間を創造した。フロムの言うように、この命題は、キリスト教的な人間観の根幹をなすものである。それは、単に人間が神に外見上似ているということではむろんない。この点に関して、神学者の松木治三郎は次のように述べている。

≪それは、なにも外的に人間が神の形に似ている、すなわち神は人間のような形をしている、という意味ではなく、むしろ人間が内的に神に似せてつくられた、という意味である。いわばそれは人間の人間たるゆえんであり、人間特有のものである。人間は神に対しては被造物のひとつであるが、他の被造物に対しては、神的存在である、という意味である。≫(『人間-その運命と愛をめぐって』)

このように人間は、「神の似像」として、「神的存在」として定義されるわけである。これが、キリスト教的世界観における「人間と非人間との分割線」である。そしてこの分割線は、すでに述べたように、いわゆる人類としての人間内部に食い込んでくる。ここでは、ほんの一例として、同性愛がどのような象徴性において差別されていたのかという一例をごく簡単に触れることにとどめておこう。

キリスト教的世界において、同性愛は重大な涜神的行為として裁かれていた。そもそも、ソドミー(男色)という言葉自体、宗教的に背徳の意味づけを負わされている。周知のとおり、それは、神の怒りに触れて滅ぼされた伝説の都市「ソドム」に由来するものだからである。同性愛は、背神的な存在者として排除された。それはすでに述べたように、差別の根本的イデオロギーである人間/非人間の切断線が、神的存在者/非=神的(背神的)存在者という分割として具体化していたからである。

冷戦後、自由主義と共産主義というイデオロギー的対立が失効した。そして、共産主義に川って、自由主義に対立する勢力として一部のイスラム教組織が登場した。だれもが知るように、現在、この対立はいま最も先鋭化している。。わたしたちは今、人間中心主義としての「神」について改めて考えるべき時期に来ているのかもしれない。

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