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アメリカ的サーカスと日本的粋:『ゴーンガール』と『ジョゼと虎と魚たち』に見る接近・俯瞰のニヒリズム

我々はごく普通に人間関係を営み、知人から友人に、また友人から恋人になったりする。関係性の階段を上るにつれ、それは濃密なものとなり、サステイナブルな関係になっていく。恋人から夫婦になったときに、永遠を誓う。

本当に“永遠”はあるのか-という一抹の不安と共に。

 

■映画「ゴーンガール」に観るアメリカ的強さのニヒリズム~接近~

映画「ゴーンガール」は、結婚生活が破綻しかけたことにキレたサイコパスな妻エイミーが、様々な事件を起こしながら自身の欲望を満たそうとする。女の執着と狂気を描いた物語だとレビューされることも多い。

悪いのは狂っているエイミーで、理性的で現実をよくわかっているのは夫、というわけだ。

夫を殺人犯に仕立て上げる周到な罠を仕掛けた後、自ら“失踪”。結婚僅か5年目にして、10代の教え子と浮気をし、自分を女扱いをしなくなった夫への腹いせに、死刑に追い込もう(彼女らの暮らすミズーリ州には死刑制度がある)というのだから、確かに狂ってはいる。

そりゃそうだろう。そんなことして「誰が得すんの?」と思ってしまう。無難に慰謝料などを請求し次の人生を歩み始めた方が楽しいに決まってる。しかも“狂ったエイミー”は、ひょんなことから夫とやり直すのも悪くないと思ったのか、「実はストーカーに誘拐されていたんだよね」という話をでっちあげ、夫の元に戻る。

だがこの狂気(エイミー)-正気(エイミー以外)という関係が、ラストにかけて急反転していく。

夫の子どもを妊娠したと言い張り、夫婦関係を続けることを求めるエイミー。自分を殺人犯にしようとしたたくらみを全て知っている夫は当然憤慨する。

「妄想だよ。君は異常だ。確かに一度は君を愛したけど、憎み合い、支配し合おうとし、苦しめ合った――」。エイミーは冷静に言い放つ。「それが結婚よ―。」

この一言で流れが決定的に変わる。不思議なことに、エイミーが世の倣いを知る“大人”に見え、夫は自分の思うようにいかない現実にだだをこねている“子ども”に見えてくるのだ。

何が妄想で、何がリアルなのか。偽りの関係と、本当の関係の境目は……。自分の価値観の土台が崩れていく夫は、「君だけが理性の声だ。どうかそばにいてくれ」とバランス感覚のとれた実姉を頼る。

ニーチェはかつて、ニヒリズム(目的としていたものが無価値と分かったり、この世のすべては無意味だと感じいてしまう感覚)に際して、二つの態度があると看破した。

全てのことが“正しい”かどうか分からないことに疲れ、半ばもう「どうでもいい」と生きる態度が「弱いニヒリズム」、全てのことが無価値でも積極的に自ら物語を創って生きていく態度が「強いニヒリズム」。

結婚そのものが無価値になり、梯子を外されたエイミーだが、完全に後者にまで至っている。実は映画途中、高校時代から恋心を寄せられていた男性のもとに囲われる。彼は超リッチな御曹司で、そのまま新しい人生をやり直すこともできたはずだ。

しかしエイミーは戻る。空虚なゲーム(結婚)を繰り返してその行方(新しい旦那とも倦怠期が訪れ浮気されたり)に一喜一憂するよりも、もはや自分のことをサイコパスとしか見ないこの夫と“やり直す”というゲームを自分で創造してしまうことの方がもっと面白いに違いない、と言わんばかりに。

まるでサーカスのように観ているモノをドキドキさせ、物語上のパフォーマー自体も飽きることなく、むしろ鼓動が速まる。そんな強いニヒリズムの方法論、“アメリカ的サーカス”だ。

■『ジョゼと虎と魚たち』に観る日本の“‘強いニヒリズム”~俯瞰~

一方で、日本にも強いニヒリズムを描いた映画がある。同じように関係性のはかなさを取り上げている『ジョゼと虎と魚たち』が格好の題材だ。

主人公ジョゼは、原因不明の病で、下半身が全くいうことをきかない。彼女と同居する祖母は、その存在を世間から隠そうとしている。彼女を“壊れモノ”と名指し、分にあった生活、行動をとれと諭し続けている。要は、日の当たる生活を送るな、一生地味に暮らせということだ。

どこにでもいそうな大学生恒夫は、そんな彼女に恋をしてしまう。それが憐憫から来る感情なのか、恋心なのか分からないまま、関係は築かれていく。一方で、ジョゼの方も激しく恒夫にのめり込んでいくが、劇中な何度も二人の終わりを予感しているような示唆をする。

例えば幼馴染からの「おまえら結婚するんちゃうんかい」との言葉に、いともあっさり「おまえはアホか」と答える。訪れた水族館が休館で、「またいつでも来られる」と言う恒夫に、「今日じゃなきゃダメなんだ」と言い募る。

2人はその後別れを選ぶことになるが、対照的なのがその姿の描かれ方だ。

同棲していた家を出て行く恒夫。傍らにはキャンパスの花形で胸の大きい後輩女子。楽しそうに歩いているが、突然恒夫が嗚咽を漏らし、道路に突っ伏してしまう。

「あんなに好きだったのに。楽しい時間を過ごしたはずだったのに。なぜー」という涙。私たち観客は思う。きっとこの巨乳女子とも同じことを繰り返すのだろうな。男ってバカだな。そしていつか疲れたおじさんになるに違いない、と。

一方のジョゼは、関係が壊れたことについて、「それもまた良しや」と話し、恒夫と暮らす前と同じ平凡な暮らしを続ける。その象徴が恒夫をうならせた食事作りだ。懇切丁寧に鮭を焼くシーンが、映画のラストでも映される。

一歩引いた目線から関係性を俯瞰しつつも、没入する。社会学者の大澤真幸が「アイロニカルな没入」と呼ぶようなマインドセットは、実は“粋”という概念にも非常に近い。

「あのな、色は移ろい、香は霞む、それが世の倣いだぜ。そんなことは当たり前だ。知らねえ奴は莫迦だろうが。誰もが承知していることよ。一瞬の夢を承知で惚れる、承知で拘る、それが粋ってもんじゃねえのかい」

作家京極夏彦は『巷説百物語』シリーズで、“粋”を登場人物にこう説明させている。

舞台裏を承知で、「あえて」する。愛や人間の関係性など永遠であるはずもなことを分かりながら、永遠であるかのように恋に没入する。

反対に、「永遠の愛などない」と絶望しているのも、「なんでもう愛してくれないんだよ」と嘆くのは、野暮だ。

■勝つのはどっち?日本的俯瞰のニヒリズムとアメリカ的接近のニヒリズム

私たち人類はいつの時代も、グループで生きてきた。中間共同体といってもいいし、家族と言ってもいい。その含意は、一人だと生きるのきついというこだろう。一方で、かつてなく、絆を結びにくい時代に生きていることも確か。地域社会などと言うものはもちろん、友人、知人、恋人、家族に至るまで、絶対的なホームベースといえる拠り所が創りにくい時代になった。

そんな時代に、日本的粋とアメリカ的サーカスのどちらがより有効な方法論なのか。

ゴーンガールの結末がヒントを指し示している。メアリーと夫は、無事誘拐から連れ戻された“ミシシッピの奇跡”として、テレビ番組に夫婦で出演する。

夫は究極の選択を迫られる。彼女がサイコパスであることを明かしわかれるのか、“偽り”の良い夫婦を演じ続けるのか。

誰かほかの人と正常で“マトモ”な関係を築きなおしたいと考えて、10代の教え子と関係を持った夫は、結局、妻のゲームにのる。結婚を続けるのだ。そこには明らかに愛情や親しみのかけらも残っていないというのに。

映画のラストで、メアリーは静かに、しかし自信に満ち、確信した表情で、私たちを見つめる。

誰かに恋し、関係を育み、愛し、裏切り裏切られ、傷つき、別れる。そんなこと永遠に繰り返すより、退屈しないゲーム、物語を発明しない?私みたいに。アメリカみたいに―。

文字数:3115

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