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マシンは“映画的なもの”を駆逐するか

2050年7月2日。晴れ。

今日は、久々に彼女と一緒に映画館に足を運んでみよう。観るのは20世紀から21世紀にかけて流行った「スターウォーズ」だ。やっぱり面白い。古い新しいにかからわず、“古典”は歴史を超えて受け継がれる。彼女も満足そうだ。

  • 「最高だったね」
  • 「うん。エンディングが素晴らしかった。古い映画は正直苦手なんだけど、誘ってくれてありがとう」
  • 「まさかルークが自分の命と引き換えにダースベイダーを救うなんてね・・・」
  • 「は?何を言ってるの。本当に映画観てたの?」

◇◇◇

■映画がカスタマイズされる時代は確実に訪れる

2050年の日本。デジタル化によって変貌した社会インフラは、人-クラウドーモノ・サービス・コンテンツの間に革新的な進化をもたらした。身体的反応(脳波など)と“マシン”が常にインタラクションし、最適な解を常に与えてくれる。人はもう“選択”することを求めていない。

2015年。時代はいま、デジタル化によって加速度的に変化を遂げている。産業革命後進化してきた情報環境と、これから数十年の変化とでは、そのスピードや質が圧倒的に違う。外部環境が圧倒的に変化する中では、“映画的なもの”の意味や、その本質について語るには、未来を見据えるしかない。

“SF的想像力、くだらない…”と批判する人もいるかもしれないので、一つ例をあげる。

昨年グーグルが、200人のベンチャー企業「ネスト・ラボ」を32億ドルで買収した。

ネストが販売しているサーモスタット(室温調節器)はインターネットにつながっており、スマホから操作できる。さらに、ヘルス系のウェアラブルデバイスを用いれば、自身の体温、発汗量、眠りの深さなどにあわせて、勝手に温度を調節してくれるようになる。もはや、“意識を持つ家”である。

大量のセンサーとセンサーがつながり、ビッグデータとして集積され、圧倒的な速さでアナリティクスが行われ、ヒトの意志を介さない“マシン”がリアクションを返す時代。

コンテンツが個々人にカスタマイズしたストーリーを提供するのも、もはや時間の問題だ。

未来の映画館では、ヒトは脳波を常にモニターされ、最適な状態に導くよう(β波3:α派7のような)になるだろう。“マシン”が膨大なビッグデータから導き出したパターンと個人のコンテンツ体験の履歴から、シナリオを瞬時に修正するミライが、かなりの確率で到来する。

そんな時代にあっても、残さなければいけない“映画的≒映画っぽい”ものとは何だろうか。

■シナリオがカスタマイズされる時代でも通用する“映画っぽさ”とは何か?

“映画的なもの”といえば、一つの決まったコンテンツを消費するというイメージが圧倒的だった。

人は、映画の中に一個の“作家性≒人間観≒世界観”を観ようとしてきた。あるクリエイターなり、クリエイター集団なりが、そこで表現したいこと、メッセージが込められているはずだ、と想像を巡らせる。物語の解釈について会話を楽しんだりもしたのもその前提があってこそだ。

“映画的なもの”を考えるとき、人間らしいとは何か、尊厳とは何か、崇高なもの何かといった価値判断、美学が必ずニュアンスとしてつきまとう。

単純化していえば、“映画的なもの”≒“人間的なもの”と言っても良い。映画概念を問うことは、そのまま人間概念を問うことに他ならないのだ。

“人間的”のイメージは歴史的にも大きく二つに分かれてきた。時代の環境や情勢に合わせ自身をファインチューニングして適応しようとする「進化論的人間像」。一方で、物事の真実や正しさ、美しさをとことん追求しようとする「イデア型人間像」だ。

映画的なものは、両極に目配せをしながらも、主に後者の流れに棹差しながら、進化をしてきた。しかしいま、それが大きく揺れている。ファインチューニングの磁場に、大きく引き寄せられている。

そして、ファインチューニングの果てには、個々の消費者に最適化された、ツボを抑えたカスタマイズが待っている。

■テイルズオブエくシリア2 二つに引き裂かれる“人間と映画” ~過渡期としての昭和90年代~

現在は“映画的なもの”、そのイメージの過渡期にあると、言える。

快楽(“心地よい”ではない。その人が志向する精神状態を指す)のつぼを押す技術は加速度的に発達しているが、いまはまだ属人的なもの、もしくはボヤんとしたマーケティング的な範疇に収まっている。

一方で、大きな物語が終焉した現在において、「何が人間的なのか」を問うことも非常に難しくなっている。

この進化論的とイデア的に“引き裂かれる”人間像≒映画像”の代表として、ゲームの「テイルズオブエクシリア2」(2013年)を上げたい。

簡単にあらすじを説明しよう。主人公はルドガーという青年だ。引きこもりで大した職にもありつけなかったが、自身が特殊な能力を持つことを知り、世界を救うミッションに駆り出される。

この作品では、パラレルワールドが設定されている。(もし誰かが違う選択をしていたらどういう世界になっていたか、という裏の世界をのぞける程度に理解しておけばいい)

ルドガー(ユーザ)は、度々パラレルワールドに足を踏み入れては、ほんのちょっと偶然が変わっただけで(例えば誰かの妻が深刻な病に陥ったり)、人々の選択が変わり、歴史が大きく変わってしまうことを度々目撃する。

偶有性が支配する歴史の中で、個人が“選択”をするとはどういうことなのか。個人の選択の積み重ねである歴史とは何か。そんな問いに向き合いながら、エンディングでは、究極の選択を迫られる。たまたま出会った目の前の少女を救うか、人類を救うか、それともー。

肝はエンディングだ。3種類用意されている。ハッピー、ノーマル、バッド。このゲームが特筆すべきなのは、必ずしもハッピーエンドを経験したゲーマーたちがの間で、“ハッピー”と受容されていないことにある。

ハッピーエンドを迎えるためには、自身を犠牲にして、少女と人類を救うという“選択”が必要だ。一方で、少女を犠牲にするコマンドを選んでしまうと、ノーマルエンドに導かれる。

しかし、ノーマルエンドの方では、少女と再び出会える設定になっており、主人公は大財閥の社長にまで上り詰めている。一方、ハッピーエンドの方は、主人公は完全に消えている。オトナになった少女が元気そうに人生を切り開いていこうとするけなげな姿だけが、淡々と描かれている。

このエンディング、多くのユーザを“ウツ”にしたことは間違いない。ノーブルで正しいと思った決断が、明るい、未来を導くとは限らない―ことを思い知らされる。世界はそんなに単純ではないことに、絶望する。

ファインチューニングし、合理的な判断から最適な生存戦略を見つけ出す計算高い人間と、自身の内なる素朴な正義の感覚から少女を救う決断をする人間。このゲームでは、ハッピーと称しながら後者のイデア的選択が貶められ、ノーマルと称しながら、前者の進化論選択が勝つ。

実際にプレイした消費者からは興味深い反応が寄せられている。

  • 「人生を深く考えさせられた」(ブルガリア、男性)
  • 「人生を変えるかもしれないゲームに出会ってしまった」(アメリカ、男性)
  • 「ノーマルエンドが普通の方がハッピーだと思う自分はおかしいのだろうか」(ブラジル、男性)
  • (※いずれもYouTube上の動画についたコメントから)

人間的なものの変化(イデア的-進化的)を如実に表した、“映画的な”コンテンツだったといえよう。

■改めて問う。全てがコネクトされた時代の、“映画的なもの”の価値とは何か

映画は20世紀を通じてエンターテインメントの王様だった。シアターに入り、映し出される物語に没入し、感動したり、自分の人生について、人間ンついて考えたりした。

だが21世紀に入り、インターネットの登場と共に、映像≒イメージは爆発的に増えた。

撮影機材の発達もあり、もはやお金をかけなくても、経験を積まなくても、“映画っぽい”映像を提示できる環境が整った。今日も世界の誰かがどこかで撮影した動画が、人々の心を揺さぶっている。

しかし根本的な変化は、チャネルの増加や撮影機材の進化ではない。“映画的なもの”を支える“人間的なもの”の概念そのものが揺らいでいることだ。

では、未来永劫残るであろう、「映画っぽい」ことの価値は何なのか。

人は原理的に、相互承認を必要とする。「私の良いと思うものは、世の中も人も良いと思っているに違いない」という認識が成り立たなければ、真・善・美(何が真実で、何が正しく、何が美しいのか)などの価値判断はできない。

映画的なものの価値と言うのは、究極的には、人々の真・善・美を鍛えるプラットフォームとして機能することしかないでのはないか。コネクテッドワールドでは、それは決してマスを相手にしたものではないだろう。一部のアーキテクト(社会システムを設計する人たち)に向けたものかもしれない。

誰もが真・美について考える必要はないし、現実的にも、ファインチューニングする人間と、それを批判的≒批評的に見つめる人間は、両極化するだろう。

映画的なテキストは、イデア的人間が人間としてあるための、最後のセーフティネットであり続けるべきだ。そして同時に、社会的コンテクストに開かれ、常に批判的視線を投げかけるものではなくては、ならない。

どんなの情報技術が進展しようとも、人間の真・善・美を追求する精神≒映画的なものは、原理的に絶対になくならない。「映画的≒人間的」を享受するリテラシーを持った人がたちが、人類の中で一握りになろうとも。

文字数:3892

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