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体育会系平成男子が文化系昭和男子に送るケツ別の書 ~平成維新は五反田から始まる~

みーんな、昭和に戻りやがって、クソが!

最近そう感じることが増えた。相変わらず自民党は好き勝手やってるし、野党は実行力と胆力のない優等生ばかり。反吐が出そうな左翼も右翼もいる。読売新聞みたいな警察・政治・司法権力ベッタリメディアがいまだに生き残っていて、空気を読めない朝日は相変わらずとんちんかん。

政治や社会情勢もさることながら、一番の問題は昭和の“ふつう”に寄り掛かる人が多すぎることだ。

男は頑張って働いて持ち家を購入し一家の主となる。女は家庭を守り、健康で明るい“良い子”を育てる。そんな感じで家族も社会も未来永劫発展していくー。という誰もが共有していた“昭和”の物語。

次々に大学の同期の男やら女やらがこの“昭和の方程式”に回帰していく姿を見て、正直、心底うんざりしている。

はっきり言って、クソだろう。なんでもっと可能性を見つめないのか。同棲でも、同性でもいいじゃないか。婚外子だろうがシングルマザーだろうがどうでもいいだろうが。男が男のアナルにぶち込んで何が悪い。男が女の気持ちで男っぽい女を愛し、女が男の気持ちで女っぽい男を愛したっていいじゃないか。

アナルはちゃんと開発してもらえばガチで気持ちいいし、そのための聖地五反田だろう。大体アナルと亀頭を同時攻めされた男の9割は女みたいな喘ぎ声をだして、「お願いだから逝かせてください」と懇願する。その気持ちよさを味あわずに死んで行っていいのか?お前らの価値観が揺らがないと、言い切れるのか!?

時代はオープンイノベーション。カオス(乱交)の中からしか新しいものなんて生まれやしない。大企業がスタートアップ企業に学び始めたように、“普通”を装っている男女も、新しいカオスな生き方を試している“開拓者”たちに生き方を学ぶべきなのだ。

昭和は一本のレールが敷かれていた時代。平成は自由の時代、だ。べ平連をやっていた小田実先生だっていってたじゃないか。「全部見てやろうって」。その気概がない奴は、正直“平成”を生きる価値がない、いや損をしている。

補助線がないと分かりにくいだろうから、平成の象徴、浜崎あゆみさまの有り難い話を共有するとしよう。「今さら浜崎あゆみ?」と思ったやつ、五反田でM性感を体験してからモノを言え!

「オワコン」というネット用語をご存じだろうか。「終わったコンテンツ」の略で、一時期は人気を集めながら、多くの人に見捨てられてしまったモノを指す。元々はアニメやゲームに対して使われていた言葉だが、近年は人や企業、商品など様々なものを“オワコン認定”するようになった。

変化の速い時代。インターネットやらデジタル技術やらロボットもなんだかガンガン成長しているいま、ある日、自分や隣の人がオワコンになるか分からない。一方で、オワコンにならないようにと怯えつづけながら世間に迎合していくのもなんだかな、と“普通の人間”だったら思うだろう。

歌手浜崎あゆみもまた、ネット界隈を中心に激しくオワコン認定されている一人だ。なぜ“平成”を象徴し、その時代を真正面から生きているアーティストがオワコンになってしまったのか。

慶應SFCなどを出て、週末フットサルをやっているどこぞのポジティブ野郎どもの責任だ。「キャリア重ねたいんです~」と言いながら、育児との両立を狙ってるキラキラ広報女子の責任だ。タビラボなんぞをよんで、日々自分を誤魔化してポジティブに生きようとしている一人ひとりの責任だ。

要するに“上手く生きる”ことしか考えていない奴らが圧倒的に増え、昭和に回帰した結果、浜崎は凋落した。

言うまでもなく、浜崎は2000年代前半をリードした歌手。ルックスやファッションセンスなどの魅力もさることながら、“女子高生のカリスマ”になり、300万枚のアルバムが売れた理由は、「歌詞」にある。

彼女の歌を聴いた経験のないクソ野郎とカス女どもは、ビッチ西野カナ的な「恋愛ソング」の人と捉えているかもしれない。間違っている。浜崎の代名詞であり、大ヒットの起爆剤となった曲「A Song for ××」以来、一貫して、絶望を歌い続けてきた女だ。

かろうじて残っていたバブルの残り香も、昭和の普通も消えかかり、全てがフラット化したかに見えた時代状況を生きていた若者がそれに共振した。浜崎は、拠るべき価値観がない中で、自分で自分を「これでいいのだ」と認められないことのキツさを歌い続けたのだ。

「『君のその自由が眩しい』という少女に 『存在する意味すら見つけられなくても』と答えた」(Pride)

初期の歌は多少香ばしく、また痛々しいばかりに、この世で生きていくことの“辛さ”を叫ぶ楽曲が多い。おそらく日本一暗い大ヒットアルバム「Duty」(2001年)は、ガチでヤバい。

歌詞をいくつか抽出してみる。

「犠牲者だなんて思うなら 全て失くしても構わない覚悟で 最後まで演じ切ればいい」(End of the World)

「誰もが探して 欲しがっているもの “それ”はいつかの未来にあると 僕も皆も思い込んでいるよね なのにねまさか過去にあるだなんて」(Duty)

浜崎は自分が消費され、いつかは飽きられていく入れ替え可能な“商品”であることにもきわめて自覚的だった。だからこそ、自分がいつかは忘れ去れていく存在なのだということに、どうやって対抗するか、というのは彼女の一大テーマになっている。

物語を失い、単なるシステムを回していくための“歯車”に過ぎないと存在に陥ることを避ける戦略を描いた。一つは、絶対に妥協をしない自分自身であり続けることを通じて。たとえ売れなくても、ファンの支持を失うとしても。もう一つは、ファンと自分が一つになる“わたしたちの居場所”を確保し続けていくことを通じて。

当然、この二つのベクトルは時に相反することになる。時激しくブレながら、狂いまくる“自分の感性”にだけ従いながら、多くの人の居場所になり続けることなんて、度台無理だ。安室奈美恵のように、いっそプロフェッショナルに徹した方がいかに楽か。

おそらくこの時既に、浜崎は直感していたに違いない。「多くの人が昭和の“普通”に回帰し、“かりそめの居場所”で落ち着くのだろう。しかし私は“平成の自由”を貫き、またどんなに人気がなくなっても、そう生きたい人のために歌い続ける」と。

浜崎の代表曲の一つである、「Surreal」。そこには彼女のケツ意が既に表明されている。

「どんなに孤独がおとずれようと どんな痛みを受けようと 感覚だけは閉ざしちゃいけない たとえ言葉を失くしても」

「どこにもない場所で 私は私のまま立ってるよ ねえ君は君のままでいてね そのままの君でいて欲しい」

物事が自明でなくなったこと。生の根拠が希薄であることから、一切逃げない。真正面から受け止める。ある信念や考え方、世界観、宗教や人間関係への依存によって不安が慰撫されることを拒否しつつ、それでも、前を向いて進んでいこうとする。

それが“平成”。それが浜崎あゆみが示した新しい生き方だ。

「何をやっても自信がなくて、これがいいなと思った瞬間に『いや、でも』と思っていて。いろんな賞を貰っても、どんなに褒められても、記録を作ったとしても、自分のことをすごいと思えない。わたしは何かこう、『コレ』っていう最後の大切なものが欠落している人間なんじゃないかってずっと思っている」(2005年のインタビュー)

そのキツさのなかにあっても、何とか前向きに生きていく手触りを探そうともがき続けている姿が時に力強く、時に痛々しい。「全ての価値が無根拠であることを受け入れつつも、ギリギリあきらめていない」。このほふく前進感、緊張感、ひりひりする感じが、アナルを経てないお前らに分かるか!

YouTubeに上がっている浜崎コンテンツには、海外からのコメントが3割ぐらい(肌感)を占めている。ブラジル、アメリカ、台湾、ロシアと、国籍も様々。彼女の紡ぐ歌詞やスタイル、その生き方に共感する声が圧倒的だ。

「課題先進国」などとほざき、一部のバカ愛国者は日本を何とか先進国のロールモデルとして位置付けようとしている。しかし、世界の誰にでも届く普遍的な形で、人間にとって一番大切な“生き方のモデル”を示したのは、国家でも社会システムでもなく、浜崎なのだ。

彼女の凋落ぶりははなはだしい。今では“信者”が殺到するはずのツアーファイナルのチケットさえ、一般販売で手軽に買える。それでも、彼女は止めない。「自分に正直に自由に生きてやる」という生き様を、その支えを必要としている“平成人”に届けようとしているから、だ。(思い切り推測だが)

結婚して子供を持って、安定した企業に勤め、これからも昭和が続く。それが人生の目標であり、最大の幸福なのだと勘違いしている全ての人は、一度浜崎のライブを観にに行くと良い。

声も、体型も、ルックスも劣化しながらも、なぜ彼女がステージに立ち続けるのか。その迫力を、肌で感じるべきだ。

「想い出はいつの日も 美しく映るもの 誰の瞳にも同じように だけど僕たちは知っている それだけではないことを どうか忘れないで 私もあの子も君も 僕達は 表面だけ繕って 死んだよな顔を隠して 生きる為 生まれてきた訳じゃない」(Marionette)

もちろんそのあとは五反田へ行こう。世間に飼いならされた自分と、ゆるみきったアナルを鍛えに。そして、喘ぎ声を出してしまう自分を再発見し、“普通”の仮面を脱ぎ捨てるために。

文字数:3858

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