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「敵」の末路〜『ソロモン海域における米兵の末路』考察

一艘の小さな救命ボートで、大海の波の上を漂流する七人の米兵らしき男たち。みなボロボロの衣服を身につけ、力なく押し黙っている。ボートの右方には、毅然と立ち、遠くを見つめる兵士がいるが、殆どの兵士は床にうずくまり、虚ろな目で空をあるいは絶望の内に倒れている。ボートの縁に縋り付き、怯えている米兵の視線の先の海面上には、人喰い鮫の背鰭がいくつも覗いている。暗いトーンが画面上を支配し、コントラストは非常に小さい。黒に近い茶によって描写された背景に、やはりほぼ同じ系統の色を用いて兵士達の姿が描写されている。藤田嗣治の戦争画『ソロモン海域における米兵の末路』(1943年)はこのような作品である。藤田は従軍したり実際に現地に取材してこれらの戦争画を描くこともあったが、『ソロモン海域』においては現地取材ではなく、また戦場が特定できる風景が描写されているわけでもない。連合軍に対し一方的な勝利を収めた1942年の第一次ソロモン海戦が絵画の舞台だろうか。撃沈した艦船から救命ボートで脱出したであろう米兵を想像して描かれたものである。
戦争画とは、記録絵画的な意義と共に国民の戦意高揚をひとつの目的として作成された絵画であるから、描かれた戦場と兵士が、迫真のリアリティを持つためにそのサイズは重要であったはずだ。東京国立近代美術館に展示された藤田の戦争画は、いずれも縦幅が2m近くある。そこに描かれた兵士は、鑑賞者が絵を前にして立った時に、そこから数メートル離れた人間と「等身大」に見える。鑑賞者は、描かれた兵士の姿をあたかも眼前に実在しているかのように感じる。しかし、その工夫に基づくリアリズムとは殊更対象的に、絵のトーンは展示の仕方を要求しているかのように、通常の周囲の環境光をきっぱりと拒絶している。それはあたかも暗い戦争時代と現代との時代的な隔絶をも表しているかのようにも思えてくる。

「漂流」という事象は古来絵画のテーマとしてはよくとりあげられてきた。大海の波の上の動力を持たない小さなボートという、何の保証もなく食糧も真水も限られている、人間社会のエコシステムから隔絶されたこの小さな空間。そのあまりにも開放的な閉鎖空間は、科学技術がかくも発達した現代においてなお、古代と何ら変わらぬ生と死のリアリティを人間に突きつけ続け得る場であると言えるだろう。しかし、それらの絵画作品群との比較が『ソロモン海域』を何よりも際立たせるのは、その重苦しい静けさである。
例えば、テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1818年〜1819年)がこれと比較していかにドラマティックに描かれているかは一目瞭然である。漂流し小さな筏の上に取り残された人々が、遥か彼方、水平線上に小さな船影が現れた瞬間をジェリコーは描いている。絶望の淵に追いやられながら、蜘蛛の糸のようなごく僅かな希望が現れた瞬間の歓喜と躍動。対照的に、画面の下部には既にこれまでの漂流生活で力尽きてしまったと思しき男たちの死体が折り重なっている。静と動の対比が、互いにその魅力を引き立てあっている。また、ドラクロワのChrist Calming the storm(1853年)においては、突然暴風に襲われた船の上で、弟子に起こされたキリストが風と海を叱りつけて嵐を鎮めるという聖書のエピソード[1]を描いたものであるが、暴風による大波が船を襲い、或るものは船にしがみつき、或るものはオールを波に攫われ、あるものは身体のバランスを崩して倒れそうになり、或るものは船酔いで倒れている。その中でキリスト一人が、青いローブを纏って穏やかな顔で眠っている。その無垢な純粋さすら思わせる寝顔は、周囲の混乱と好対照を為し、後光と共にその存在感をいや増している。

「漂流」が描かれるとき、画家が描いているのは漂流そのものではなく、漂流という状況下における一瞬のドラマである。そこにおいて「漂流」は背景に追いやられる。これに対して藤田は「漂流」そのものを描いた。つまり、藤田はそこに直截にドラマを描いていない。画面自体を構成する要素は、いわば『メデューズ号の筏』の画面下部の要素のみである。この絵画の中で一際目立つ形に演出されているのは、中央で力なくボートに寄りかかる米兵の「顔」である。彼の顔がほぼちょうど画面中央に位置していること、またその顔が幾許か相対的に光に照らされてよく見える。ドラクロワの前掲の作品におけるキリストとは区別されるべきだが、彼の頭部もまたこの絵画において重要な点、すなわち画面を切断する特異点として立ち上がってくるのである。
まず、彼はボートの壁に寄りかかっているので、彼を基準に画面上側は海、そして下側はボートが描かれている。彼の右側には、絶望に打ちひしがれてか、あるいは戦場において傷を負ったためか、床に倒れている男が描かれている一方で、希望を失っていないかのように毅然として立つ米兵の姿がある。そして彼の左側には、現実を受け入れられないと言わんばかりに顔を手で覆った男、遠くの鮫を呆然として見つめるだけの男が描かれている。
彼の頭部=画面中央を原点として、画面を分断する縦と横の線を引いてみよう。横の線に区切られた画面上部と画面の下部は「海」と「ボート」、縦の線に区切られた画面右側と画面左側は「希望」と「絶望」でそれぞれ画然と分割されることに気づくはずだ。すなわち画面中央の米兵は、希望から絶望へ、また穏やかな海面に浮かぶボート=生から鮫の泳ぐ荒波=死という緩やかで確実な、不可逆的な変化の過程の中央にも位置している。そして、希望と生死を切り分ける二本の軸は、時間の流れを規定せざるを得ない。つまり、希望→絶望、ボート→海という相対する概念が緩やかに遷移するための第三の時間軸が必然的に現れる。文献[2]は絵画における時間の流れについて、西洋は左から右、日本の絵画は右から左(絵巻物と同じ)であり、それは「書字方向が関係している」としている。『ソロモン海域』においても同様、右から左という流れと、また下から上という時間の流れが存在している。ボートを離れるにつれて海上の波が荒く大きくなっていく。ボートの上に立ち尽くす米兵が描かれているということは、このボートは少なくとも大波に揺られていることはあり得ないし、事実ボート周囲の海面は穏やかに描かれている。あまりにも手前が静かに描かれているため、遠くの大波はそれに引きずられてまるで非現実的に映る。張り子のように、あるいは波ではなく山の稜線のようにも見える。しかしその不自然な波の大きさの違いも、ここに来て容易く理解できる。画面上部は、画面下部の未来の姿を描いているというわけだ。
視力が極端に悪かったため、巨大な画幅の絵に対しても「画に密着して」描き、「離れて見ることは少ない」[3]と言った彼が、洋画家であったとしても、あたかも絵巻物を見るように絵画を描き、そして見たことを想像するのは殊更不自然でもなかろう。況や、これだけの巨大な画幅の絵である。漂流を描いた作品としては、むしろstaticであり、決してドラマチックでもない構図の中に、藤田は米兵たちの僅かな希望、そしてそれが絶望へと変わり、海の藻屑となるまでの時間の流れを描き込んだのである。

藤田が元々戦争画にどの程度関心があったのかはともかくとして——戦況が深まる中、一度誰もが想定外なことに逃げ出すようにパリに戻り、二年を俟たずに再度帰国していた事実は、彼の日本の状況に対する強い拒否感を表しているようにも思えるが——いずれにせよ、彼は少なくとも傍目には驚くべき積極性で戦争画に取り組み、聖戦絵画の巨匠と目されるまでになった。彼が次々と仕上げた大画幅の大作は、アトリエに一日中閉じこもって十三〜十四時間を創作に費やしたというし敗戦の一年前に『戦争画制作の要点』において、彼は「ありとあらゆる画題の統合したものが戦争画」とし、「戦争のおかげで(…)絵画の難問を勉強し得る我々今日の日本の画家程幸福なものはなく」誇りと責任を感じるとまで発言している[3]。軍に嘱託して「戦争画」を描く状況を、パリで学んだ様々な技術や先達から得たインスピレーションを作品へと反映させる絶好の機会として藤田が位置付けたことは恐らく確かだろう。軍人に依頼されてノモンハン事件を描いた『哈爾哈河畔之戦闘』(1941年)を、藤田はリアリズムの傑作と自画自賛していたという[4]。日本軍が大敗を喫して二万人近くの命が喪われたという戦争の場をリアルに描くことについて、彼自身の嫌悪やethicalな苦悩が感じられたという様子は見受けられない。自身の芸術意欲と絵画技術をいかに磨くか、また、日本においていかに認められることが最大の問題であった藤田は、戦争画においてフランス時代とは別の形での自己実現にただ邁進していた。その過程は、陰鬱にして華々しい戦争画の大作が並ぶ中、一見地味にも映る『ソロモン海域』になお、確実に刻印されている。

しかし、戦意高揚を目的とした戦争画において、『ソロモン海域』のモチーフは明らかに「回りくどい」ように見える。藤田曰く「尤も快心の作」である『アッツ島玉砕』は同年に描かれ、この絵の前で膝をついて拝み、賽銭を投げて供養を捧げる老人たちもいた程、鑑賞者の心を動かしたという。そんな中で、この絵は憎き鬼畜米英への鬱憤を晴らすよすがになり得たのだろうか。
藤田本人「敵」として描いている(註1)彼らは、その人数に対して小さ過ぎるボートの中で希望を失い、弱々しくうなだれ、荒れた海上に蠢く死の気配にただ怯えている。ひたすらに無力で弱い、ありのままの人間の姿だ。ただ死を待つばかりの「敵」の姿に鑑賞者が見出すのは、その小さなボートに乗って確実に迫る死を抵抗もできずにただ待つばかりの自分の姿である。それは太平洋戦争も末期に近づき、敗色濃厚となった日本そのものの姿でもある。
藤田は戦後、戦争画を描いたことにより日本を去ることとなったがその当時、「人間めいた行動をしようとするのに、つい残忍な本性をあらわす」動物たちの姿を度々描いていた[5]という。彼が動物に仮託して、自分を散々振り回してついに日本から放逐した日本人、また藤田を「亡霊」と罵ったフランス人の残酷な姿を描いていたとすれば、『ソロモン海域』において描かれていたものが、その実は日本国というボートに乗り、太平洋の中で頼るものもなく漂流し続ける日本人達=「敵」ではなかったと、どうして言えるだろうか。

1. 画面右下に署名とともに記されている作品のタイトルは『ソロモン海域に於ける敵の末路』である

参考文献

[1] 『新約聖書』マタイによる福音書
[2] 絵画中の時間の流れ http://d.hatena.ne.jp/consigliere/20121121/1353474427
[3] 「戦争画制作の要点」『美術』四号(1944年5月)所収
[4] 近藤史人『「異邦人」の生涯』(2006年)
[5] 東京国立近代美術館『MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。』

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