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「肉」に負けない人生であるために〜ネット炎上と『俺俺』

学校の方に、僕と家族に対する殺害予告が来ました。なんか、僕だけならまだしも、なんで家族に対してもそうなるのか…。

言うまでもないかもしれないが、これはSEALDs奥田氏のツイート(※1)である。奥田は警察に被害届を出すが、このツイートや行為に対し、多数の中傷ツイートが投げつけられることとなった(※2)

 ツイッター上に限らず、ネットにおける匿名ユーザーによる炎上はいまや日常茶飯事である。オリンピックのエンブレムを制作した有名アートディレクターに関する盗作騒動は早くも忘れられつつある程だが、最近のもっとも印象的な事例であろう。有名人の失言、一般人の暴言、犯罪告白、写真の無断掲載などなど、定期的に炎上が発生し、標的となったアカウントは凍結/削除で済めばまだしも、発言者の本名や素性、過去の犯罪疑惑などをたちまち調べあげられ晒されるというネット制裁の憂き目に遭う。炎上する側にも落ち度はあるだろうが、炎上させる側は、その圧倒的な多数性と、それを背景とした異常に優れた調査能力をもって標的に襲いかかる。ネットユーザーはこの優位性にきわめて自覚的である。特に著名人のツイッターのフォロワー数が時に「戦闘力」と揶揄される(※3)ことは象徴的でもあるし、今市太郎は「炎上のネタ探しを日常的に行っている」という「炎上焚付け屋」の存在を指摘している。彼らは「問題発言をあえてピックアップしてきては2チャンネルをはじめとする別の掲示板などに掲示したりしている」[1]。より多くのユーザーの目に触れさせ、炎上に加担するユーザーを増やそうとするわけだ。

ネット上の炎上を煽ったり、実際に炎上に加担するという行為に対して取り締まりを行う法律は存在せず、逆にそんな法律が制定されたとしたら、それこそディストピアである。この比較的新しいネットメディアにまつらう問題に対し、人類は対処する術を持たない。

つい先日、「イスラム人が子牛を殺して食べた」という噂に激怒したヒンズー教徒100人が、イスラム人とその息子を集団で暴行し、殺傷したという事件(※4)があった。この21世紀とは思えないような恐ろしい暴力事件と、ネット上/現実の匿名による袋叩きはある側面においては気味が悪い程によく似ている。一見平和な日本社会に生きる我々は、同時にネット上においては迷妄と残虐が支配する暗黒時代を今まさに生きている。

冒頭から気分の悪くなるような生生しい事例を提示してしまったが、追い討ちをかけるように、ここで『俺俺』(星野智幸、新潮社、2010年)という奇妙な小説に注目してみたい。最初に、最終章を除いたあらすじを追っていこう。

なりゆきで「大樹」という男の携帯電話を盗んでしまった主人公「均」は、大樹の母親に対して俺俺詐欺を行う。それ以降、自分の家に大樹の母親が現れ、均をまるで大樹であるかのように振る舞う(以降、主人公については「大樹」と表記する)。自分の実家に戻ってみた大樹は、そこにイケメンスーツで「均」という名前の(※5)が住んでいることを知る。均の母親は大樹を不審者とみなして追い出してしまう。

大樹がであることに気づいた均は、さらにもう一人の茶髪学生の(もともと名前は「均」と主張していたが、途中から自分が本山直久(「ナオ」)という名前であったと記憶が変わる)と大樹を引き合わせる。3人の俺らは、この状況に戸惑いつつも、互いに思っていることも行動も分かり合えることで意気投合し、ナオの住むアパート(後に「俺山」と呼ばれる)に集まるようになる。

 しかし、俺らは3人だけでなく少しずつ増え、職場の嫌な上司までになる。大樹、均、ナオの俺らの間にも、でありながらも軋轢が生じてくる。さらにはどんどん増殖を続け、同士で殺し(「削除」)合いを始める。

ついにブチ切れた均はナオを削除し、去る。また、大樹もまた別のに削除されてしまう。しかし、削除されてもの意識や記憶は別のの中に存在し続け、主人公は「あつし」になったり「ナカノ」や「ヒロシ」になったりして、化したそれぞれの「親」達と、お互い削除されることを恐れつつ、適当にその場を取り繕ってやり過ごすことを続けるしかないのである。すべてが化して、サバイバルとなった社会は完全にその機能を喪失する。

自分が増殖する、というよりも、他人がどんどん自分になっていく、悪夢のような超現実的な世界。顔が同じというわけではない(※6)。例えば、古い写真を観た時に、今の自分とは全く似ても似つかない人間を見て、これは僕だ、と気づく感覚。自分だから分かるのだ。しかし、他人が自分になっていく過程は、自分と他人との違いを見失っていく過程でもある。主人公は削除を繰り返し、別の俺としての生を繰り返す過程で、自分の名前も忘れていく。

自己の境界線が曖昧になる不思議な感覚を、作家は「鰯」に喩えている。

自在に海を泳いでいるようでいて、じつは俺はまわりの鰯に合わせて体を動かしているだけなのだ。誰かリーダーの鰯が動きを決めているわけではない。すべての鰯がまわりに倣うだけで、全体としては雲のように膨らんだり縮んだり横へ流れたりひたすら遠くへ泳いで行ったりする。そこには意思はない。

鰯においては、それぞれの鰯一匹が主体的に振る舞うわけではなく、そこには「自分」というものは存在しない。鰯一匹という単位は、細胞一個という単位同様であり、個体としての意味は薄い。その意味で、鰯は個体で完結する生物ではない。「鰯」という概念的存在と言ってもよいかもしれない。

一方で人間は皮膚を外界との境界として、その内側の肉体が即ち自己とみなしがちであるが、そんなことはない。自分の近くに人間がいたとしたら、例え触れてなくても、大気を媒体として、体温や息する音、あるいは鼓動までも、例えば近くの人間の存在を、自らの体の全ての感覚器官で捉えることができる。当然、相手にとっても同じだ。人同士は言葉無しに互いに影響を及ぼし合うことができる。人が近くにいる時とそうでない時の違いは、ただ「人の目」の不在に拠るものではない。そして、この人間の能力は、同調圧力の感覚器官とみなすこともできるだろう。『俺俺』の作者の星野は政治、社会についての提言を小説以外の形で積極的に行っているが、「同調圧力」に関する言及も多く(※7)、本作においても同調圧力は様々な形で登場している。例えば、電車の中で俺らではない二人組に車中の俺らが一斉に襲いかかるシーンである。

磁石に引きつけられる砂鉄のように、空気中の針がいっせいに二人を指す。俺の目には、その針の群れが日の光を浴びてきらめくさままではっきりと見える。

二人組にのしかかるよう、まわりの俺らから圧力を受けていた。俺も加われば楽になれると思った。加わりさえすれば、もう誰も俺を色のついた者とはみなさず、同じ祝祭に参加している俺らの一部として、放っておいてくれるだろう。

もちろん、人間は、鰯とは違い、一人でも自立して思考する能力を持つ。ただし、現代社会においても、人間が人間であるための努力を放棄してしまうと、自らの意思を失い、同調圧力にただ合わせて動くだけの「鰯」に容易に陥ってしまうリスクを常に抱えていることが、ここには明瞭に描かれている。
作家自身は、この作品について「自殺に追い込まれていく人というのは自分の責任というより状況に追い込まれてそうなっているんだと感じる」「その社会を構成しているひとり一人に自殺に追い込まれる可能性がある。ということは、自分が自分を死に追い込んでいるようなもの」であるとし「それを極端な形にして、みんながみんな同じ〈自分〉であって、理由がわからないままお互いを排除していくという社会として書いた」(※8)と言っている。
ただ、注意したいのは『俺俺』において俺らが互いに排除する前の状況である。

「いやー、俺の純度、高いっすね」と学生が言った。
「俺も同じこと考えてた。なんか、酸素ルームにいるみたいだよね」と俺も同調する。
「俺もさ、人といてこんな気楽な気分、初めてだよ」と均は言ってビールをあおる。

後の「俺山」における、初めての「三者面談」は、このように打ち解けた雰囲気で楽しく語り合っているのである。同じ職場で勤務してさえ、人は概して「他者」であり、同じゲームのルールは通用しない。その関係には必ず緊張が伴う。それに対し、は俺なのだ。同じ共同体に属している人間なのだ。例えるなら、ニッチな趣味のオフ会に出かけていった時の、何を隠す必要もなく、表現したいことが何の遠慮もなく表現できる、あの他では決して得られない解放感。俺らが感じていたのはそれだったのだ。

改めて、ここで冒頭のネット炎上の話題を思い出してみたい。ツイッターの日本語版が出た2008年4月以降は「ユーザー全体がおおらかであり、フォロワーの反応は極めて寛大かつ受容性の高いもので、炎上などという昨今の殺伐とした事態はブログには起こってもツイッター上では殆ど起こらず、いい意味での内輪感覚を醸成されていたといえるだろう。」[1]という指摘がある。まさに草創期のツイッターは、内輪の「俺山」だったのである。それが冒頭に示したようなネット制裁の場に成り果ててしまうまで、長くはかからなかった。この日本におけるツイッターの歴史は、まさに『俺俺』のストーリーとパラレルである。『俺俺』の刊行は2010年であり、ツイッターが一般的になり始めた頃だっただろうから、『俺俺』は、この日本のツイッターが陥った隘路を予言していたかのようにも見える。

再び、あらすじに戻ろう。最終章である。作家は、どのように物語を締めくくっているだろうか。

語り手(の)は、完全に機能を停止した街を去り、高尾山で雀や魚を狩猟する野外生活を営むようになる。しかし、人肉目当てにもう一人のに削除された上、食われてしまう。しかし、食われながら、語り手は自分の肉体が人のために役立っていること、俺の存在に意味があることに気づく。食った俺と食われた俺は一体となり、自分たちが意味のある存在だという認識を胸に、生き残った僅かな俺らと協力して社会を復興させる。いつのまにか俺らはいなくなり、誰もが、ただの自分に戻っていた。

生物であれば最低限備えている「肉」。そういう限界の地点に、自らの存在意義の可能性を見出すという壮絶なラスト。社会の同調圧力の中で、鰯のように主体性なく動くばかりで、他人との境界も曖昧になるような人生においては、「人の役に立つ充実」を感じる自分がいない。そんな人生は、ただの「肉」にも劣る。星野はそう厳しく戒めているのである。

奥田に対する匿名中傷ツイートに対し、内田樹はこう言っている。「匿名で、個体識別できないようなことを言うのは、発信者の「自分自身に対する呪い」として機能します。」「(そういう人は)弱い酸に侵されるように自分自身の存在根拠を掘り崩しているのです。」(※9)。つまり、誰でも言うことを匿名で発言する時に、「自分」である必然性は全くない。放置していれば誰かが勝手にやることだ。そういう行為を続ける生き方は、まさに星野が非難する生き方そのものではないだろうか。

作家は最後に、年老いて俺俺時代を顧みる語り手にこう呟かせている。

だから、頼む、覚えておいてくれ。そして自分たちが誰だか、忘れないでくれ。

 

※1 https://twitter.com/aki21st/status/648384408714506240
※2 殺害予告をされたSEALDs奥田氏への中傷ツイート可視化プロジェクト
※3 ツイッターユーザーである著名人が例えば自分への誹謗中傷ツイートをRTすると、その著名人のフォロワーから、その中傷ツイートの主に対する批判ツイートがフォロワー数に比例した数だけ集中的に寄せられることになる。
※4 http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2015093000837
※5「自分ではない俺」を作品中ではとボールド体で表している。
※6 どうでもいいが、映画版の『俺俺』(三木聡監督、2013年)では、俺は皆主演の亀梨和也が演じているので顔も同じである。
※7 例えば、http://www.mishimaga.com/hon-watashi/146.html など。特にここでは、殺人事件を犯した容疑者に対する暴力的なバッシングと関連した発言であり興味深い。
※8 作家の読者道 第104回:星野智幸さん
※9 https://twitter.com/levinassien/status/648609110489890816 ,https://twitter.com/levinassien/status/648610220017496064

参考文献

[1] 今市太郎『何か変だよ日本人のツイッター』小動顧客価値研究所、2013年

文字数:5250

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