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「泥水」のような「美味さ」から「甘さ」へ〜西加奈子『炎上する君』

西加奈子『炎上する君』(2010年)には、「珈琲牛乳の泥水のような美味さ」という虚をつくような表現が物語の前半と終盤の二度現れる。「泥水」を美味しさの喩えとするのは極めて珍しい用例であろう。これが二度目に登場する際には、「泥水的甘さ」という表現に変わっている。「美味さ」と「甘さ」は読み的には「う」が「あ」に変わっただけだが、本作品の主人公である「私」と、その親友「浜中」にとってはこの違いは人生を変える変化であった。

「足が炎上する男」

具体的で現実的な世界を描く中で、ふと夢が紛れ込んでくる。西加奈子の短編に共通して見られるそんな展開は、深い含みや味わいを醸しながら、作者の語り口の明晰さは、決して読者をけむにまいて放置することはしない。それは本作品においても同様である。
「炎上」は、「いわば生きることへの不感症」である「私」とその親友である「浜中」において対極的に位置する価値であった。「今この場所、この「世界」にいるのは、浜中と、私と、ふたりだけである。願ったりだ。」そして続ける。「それは、我々の望んでいることなのだ。望んでいることだ。望んでいることだ。」と、ご丁寧に三度繰り返す。無論、文字通りに受け取るべきところでもないが、少なくともふたりの姿勢はそうだ。さらに、「物心ついたときから、私は、自分が女であることを呪っていた」。浜中もまた、「自分と同じ人間」「女であることを嫌がり、男になることを拒む人間」である。
しかし、人がいくら心/体の奥の情熱は、いくら自ら隠し、否定したところでそれはどうしても、不思議なことに、弱い箇所を突き破って外に現れる。殺人の罪から逃れるため土に埋めて隠したはずの死体は、必ず何者かに掘り起こされて明るみに出るし、コンクリートで地面を覆っても、地中の種は芽を出し、それを突き破って成長する。それと同じだ。感情の働きというよりも、それは物理的な必然なのだろう。「私」と浜中にとって、その物理的な必然は「足が炎上している男」の都市伝説という形をとってはじまった。

「私」と浜中は、実際にどう振る舞おうが、女性的でありたくてたまらないのである。自分達が女性性から遠く離れてしまっている現状を打ち破る、そのきっかけを無意識のうちに探し求めているのだ。そのくせ、それが顕在化しようとする度に、それを強引に押さえ込んでいた。バンドを始めた時だって、彼女たちはそれを求めていたはずだ。バンド体験が自分達を否応無しにどこか遠いところに運び去っていくことを、浜中もまた求めていたはずだ。浜中は「冒険をしたことがない」と言った。しかし、同時に「婚姻は毛頭望まないし恋愛などは唾棄すべきもの」と自分を押さえ込んでいた。バンドが成功しても、「私」と浜中のホメオスタシスはあまりにも強固だった。そして「私」は思い詰めた。

神のようなその男に会うことくらいしか、自分達の感情を劇的に変えることは出来ない。

しかし、この「足が炎上している男」は、「燃え滾る己の情念を隠しきれず、それが「足が燃える」という体となって表れたのか。それとも「足を燃やす」ということで、何かに抗議をしている、アナーキーな人物なのだろうか」という「私」の想像とは異なり、ローカルなスーパーマーケットや、ライブハウスや、銭湯に現れた。そして、彼の後を追ってついに発見した彼は、決して燃え滾る情念を隠しきれないような人物でも、アナーキーな人物でもない、ましてや神などではありえない、普通の男だった。

男は、自分の足を、困ったように見た。そして、私達を交互に見、「本当に、すみません。足なんかが燃えていて。」と言った。

熱い足を炎上するままにし、自ら対応を講じるでもなく放置し、銭湯の番台の女主人には怒鳴られて出て行ってしまう。むしろ頼りない男にすら見える。しかし「私」と浜中は「その視線を受け、一瞬の間に、ほとんど寛いでしま」い、自分自身さえ不思議に思えるような軟化した女性的な態度で接するようになる。「人間をまっすぐに見ることの出来る、黒くて綺麗な目を持った、ぼうぼうと燃える足をもてあましているあの「男」に、我々は、恋をしたのである」。これはどういうことだろうか。「足が炎上する男」とは、常識では考えられない事態であると共に、ふたりが自分達が変わる可能性を信じて、走り続けて追いかけ、ついに追いついた一種の到達だったのだ。それは、ふたりがこれまで自らの女性性を強引に押さえ続けてきたその手を離すこの上ない機会だった。

だから、正体が普通の人間であろうが何も問題はなかった。また、だから、彼女たちは彼の特に変哲のない目を、「私達の品定めなどしない、男であるか女であるかなど関係ない、「ひとりの人間」をまっすぐに見つめる、目」と極めて好意的に解釈できた/してしまった。そして、「私」と浜中は、ついに「今この場所、この「世界」にいるのは、浜中と、私と、ふたりだけ」という閉じた世界の外へ、一歩踏み出した。あるいは、ふたりが隠し持ち、隠し続けていた「女性でありたい」という情熱が、「足が炎上する男」をいわば触媒として、ふたりを「世界」の外側に押し出したのである。
一度立ち止まって考えてみたい。彼女たちは果たして本当に「恋」をしたのだろうか。「私」は「我々は、恋をしたのである」と言うけれども、これまで押さえつけていた情熱が、その出口を見つけて迸る時、その状態を例える言葉は「恋」しかなかっただけではないだろうか。

作品における「笑い」

「私」と浜中自身は「真面目」に生きているが、その姿は極めて自嘲的なニュアンスを伴って戯画的に描かれている。
本作品において「私」と浜中の主人公自身が笑うのは、ただの一度限り。「足が炎上した男」が、熱くなった缶コーヒーを取り落とした姿を見て、「まあ!」「滑稽ね」と、凡そ現代的とは言えないリアクションで笑う時だけである。しかし、時に悲哀の入り交じった可笑しさは、間違いなく本作品の基調をなしている。
「戦中」「学徒動員」と呼ばれた浜中に対し、「私」が「戦後」「火垂るの墓」と呼ばれたという、不謹慎ではないかと思える程のエピソードも、それを受けて「バンド名はアイロニーを込め、「大東亜戦争」にした」というオチ。そもそも、足が燃えている人に対して「冷たい缶コーヒー」を提案したふたりだが、何か買うなら普通は水ではないのか。しかしふたりは疑うこともなく、「急くように缶コーヒーを購入し」てしまう。当時のふたりが、これまでしようとも思わなかった精一杯の「女性らしい心遣い」がこういうしくじりのような形で生々しく表れてしまったと見ることもできるだろう。また、銭湯で「私」と浜中が顔を見合わせたが、浜中の眼鏡が曇っていた、という絵面。あれほどまでに女性らしさを嫌悪していた「私」が「神様お願い、頬の赤みを消して」と、容姿にコンプレックスを持った少女漫画の主人公のように願う姿。まるで吉本のコントでも見ているかのような気持ちになってくるのである。ちなみに、作者である西加奈子はテヘラン生まれではあるが、中学生以降の学生時代は大阪で過ごしている。又吉直樹も、文庫版の「解説」で「気がつくと自分が芸人であることを忘れ笑っている」「笑いのセンスが作り物でなく、元々自身に感覚として備わっている」などと絶賛している。この作品を真顔で最後まで読み終えられる人がいるとは思えない。
それでも作者は、決して彼女たちを嘲笑することはない。自嘲的に描いてはいても、常に彼女達は必死で自分達の人生に立ち向かっている。だからこそ、作者は最後に彼女たちに呼びかけている。「君は戦闘にいる。恋という戦闘のさなかにいる。誰がそれを、笑うことが出来ようか。」と。作者はこんなところでも、ちゃっかり「戦闘」と「銭湯」をかけているのだが、それは単なるオヤジギャグではない。

「銭湯」と「戦闘」

銭湯は、いわば、「生きることへの不感症」を疑う程の「私」と浜中の唯一とも言える生の価値だった。こういう行(くだり)がある。

「血が滾るようなこと、これがあれば死んでもいいと思うようなこと、それを探していた。銭湯以外に。」(傍線筆者)

これは思わず笑ってしまうかもしれないが、決してただのオチではない。銭湯はふたりにとって、実際、「血が滾」り、「これがあれば死んでもいいと思」える場なのである。だからこそ、「恋」をしたふたりを作者は再び銭湯に入らせている。

そして、銭湯は物語的な観点からも特別な位置にある。前述の、作者のシャレである。そう、「銭湯」はすなわち「戦闘」なのだ。いずれも生の価値という観点からすれば、等しいのだと作者は言っている。「銭湯にいる」ふたりは、「戦闘にいる」。「薔薇の香りのシャンプー」で念入りに髪を洗い、「ピーチの香りのコンディショナー」を丁寧に髪に塗り付け、「蜂蜜の洗顔料で優しく洗」う。恋という戦闘のさなかにいる。
「私」と浜中にとっての銭湯は、ふたりが炎上する男に出会う以前であっても、そこにいる時は「戦闘」であり「炎上」でもあっただろう。しかし、銭湯は出なければならない。それは、生活のごく一部しか関わらない限定された空間なのだ。
今や「私」と浜中は「恋という戦闘」のさなかにいる。ふたりが銭湯を出ても、その「戦闘」は続く。決して限定された空間ではないそれは、彼らの世界を新しい発見と喪失とに彩られた、ダイナミックに炎上する世界へと変えていくであろう。

「泥水のような美味さ」から「泥水的甘さ」へ

最初に飲んだ珈琲牛乳は「泥水のような美味さ」だった。ふたりが女性になって、飲んだ珈琲牛乳は「泥水的甘さ」だった。もはやいうまでもないだろうが、この違いは非=女性と女性の違いだ。そして、彼女達にとって最大の困難を乗り越えた前後の違いでもある。酒を「鯨飲」する「私」と浜中にとって、珈琲牛乳は「美味い」ものだ。しかし、「薔薇の香りのシャンプー」と「ピーチの香りのコンディショナー」を意識的に使っている彼女達に、「美味い」という表現は似合わない。やはり、珈琲牛乳は「甘い」と表現する他ない。
それでもやはり「泥水」に例えてしまうのは変わらない。それを思うと、ふと頬が緩んでしまう。しかし、銭湯/戦闘にいる彼女らに、「泥水」という喩えは妙にしっくりくるとは思われないだろうか。それは、作者=西加奈子の、「私」と浜中に対する限りない親近感と愛情の表れでもある。

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