印刷

最も静寂に満ちた、最も囂しいメディア 〜 音響から見たインターネット

「音」とはすなわち「振動」であり、それが物質同士の接触もしくは破壊によって生じ、それが物体の運動に不可避的に伴う以上、地球上の、音を捉える感覚器官を備えたあらゆる生物が音から逃れることは決してありえなかったに違いない。
水は例えば地表を穿ち、地表はいずれ穴の形状を為し、それは水を湛える(=秩序の形成)。溜まった水は臨界を超えると溢れだし(=侵犯)、周囲の風景を一変させるだろう。系はじきに安定を取り戻して、新たな地形が新たな系を構成する(=秩序の再形成)。物理法則にしたがう物質たちの戯れ——秩序の構成と侵犯の際限なき反復運動は、そこに音を伴わずにはいなかった。いわんや、自ら声を出し、物を打ち鳴らして音を発生させる人類の歴史は、戦争と祝祭に彩られた喧騒の歴史だった。ジャック・アタリは言う。「労働の雑音(つちおと)、人間の雑音(ざわめき)、自然の雑音(ものおと)。買われ、売られ、あるいは禁じられる雑音(おと)。雑音の聞こえぬところに、何も起こりはしない。」(金塚貞文訳『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』2012,6)

静寂の支配する地平

しかし、情報技術による産業革命は、雑音という呪いの支配する場から遠く離れた地平に、インターネットという前代未聞の建築物を築き上げたのである。むろん、ネットに音響/音楽がないはずがない。Apple MusicやYouTubeを例に挙げるまでもなく、ネットが音響を含む大量のマルチメディア情報を吸収し続け、また吐き出し続けてきたことは疑いない事実である。
しかし、改めて注意深く振り返ってみよう。ブラウザを起動してウェブにアクセスする。Facebookを開いてタイムラインを眺める。関心を引く記事のサムネイルをクリックし、サイトにアクセスする。知らないキーワードを見つけてGoogleで検索する。あるいは、そこで見つけた書籍をamazonで検索/アクセスし、カートに入れる。Gmailの新着メールを一瞥し、作業用のウェブアプリを起動する…。このような日常的なルーティンにおいてネットは雑音(ものおと)を、あるいは音響/音楽を一音たりとも発しただろうか?
PCは無音でネットに接続してその端末となり、情報を相互に送受信するインタフェースとなる。そして端末がウェブ上のサーバへと無音のリクエストを送り、サーバはそれに対して無音でレスポンスを返し続けている。ネットにおいて特筆すべきは、それが副次的な雑音さえ伴わないことだ。例えば書籍や新聞であっても、それが物理的なメディアである以上、必ずそこには雑音が伴う。ページを捲る音、新聞を開いて閉じる音。ところが、情報端末上においてはページを捲る作業は即ちハイパーリンクを辿る作業に等しく、そこに一切の「音」は必要とされない。かくして完璧なる静寂のメディアが誕生したのである。
敢えて説明するまでもないだろうが、htmlが音楽をサポートしていないわけではない。HTML5がaudioタグを用意するはるか以前から、ウェブ上の音声ファイルをブラウザに演奏させることは可能であった。実際、音声/音楽を伴うウェブページというものが存在しなかったわけではない。しかしインターネットという形式は、その最初期からプレイヤーに対して演奏の手段を与え続けながら、同時に本当にそれを用いて演奏するプレイヤーをネットの舞台の隅へと追いやり続けてきたといってよいだろう。

さて、人類がインターネットという広大な未開拓地に放り出され、その驚きと喜びを知ったその時から既に二十年以上が経過している。上記の指摘すら、ネットにおける音響の欠如、それに対する一般の認識は、その欠如という異様さが看過ごされる程度には当然のものとなっている。また、その欠如が他の感覚によって十分過ぎる程に補完される程度には、ネットは余りにも煩過ぎるメディアである。

インターネットの喧噪

今やインターネットは地球上の七十二億を超える人口の約四十%(グローバルノート – 国際統計・国別統計専門サイト 世界のインターネット普及率 国別ランキング・推移)、即ち三十億人近くが利用している。ネットがTVやラジオと一線を画すのは、その利用者が単なる情報の受信者ではなく、そのまま発信者となりうる双方向性にあることは今更言うまでもないだろう。即ちネット上には潜在的には三十億のインタフェースから発される情報が地球上に張り巡らされた網目を光の早さで駆け巡っていることになる。Twitter上では千九百万のアクティブユーザーによる日本語の情報だけでも滝のようにTLが流れる。世界中で、ナンセンスなツイートが無責任に垂れ流され続ける一方、活発に喧嘩のような議論が交わされ、日々炎上騒ぎが起きてはアカウントが削除され、Twitterから消え、あるいはスパム報告により凍結される。記憶に新しいもっとも卑俗な例を挙げよう。某有名アイドルが、自らを批判する一般人女性のツイートを「ですね」とわずか三文字の発言とともに引用リツイートした。その瞬間、彼女が擁する二十万近くのフォロワー達により、その批判ツイート主は「火だるま」にされ、「惨殺」された(“ぱるるの日”炎上のAKB48島崎遥香、今度は一般人女性を吊し上げ…騒動連発で「Twitterに向かない」の声 )。無論これは喩えである。その一般人女性は、無数の批判に堪え兼ねてアカウントの削除を余儀なくされた。しかし、ネットユーザー達の振る舞いは、あたかも前近代の人類が現実世界において行っていた無法的な行為を、そのままネットという新たに人類に与えられた空間に場を替えて繰り返されているかのようである。そこには恐らく、国家の栄枯盛衰さえも、ネット上の小さな共同体のそれとして「再現」されているに違いない。「喧噪の歴史」は、静寂の支配する地平において再度繰り返されているのである。

「雑音」の排除 

アタリは「音楽の社会的機能」に対する「二つの結論」として、その一つに「雑音はそれ自体暴力であること——それは撹乱する。雑音をたてること、それは通信を乱し、遮断し、挫折させることである。それは殺人の模倣である」(同,47)ことを挙げている。すなわち雑音は「侵犯」であり、そうであるからこそ「侵犯の快楽」として音響の快楽は存在する。では、なぜネットは静寂たらざるを得なかったか。その問いは、インターネットの開発の原点へと我々の視点をいざなわずにはいない。

インターネットの起源であるARPANETは、軍の委託を受け、故障への耐性が高いネットワークを志向してその開発が始まった(Wikipedia 「インターネットの歴史」3 パケット交換 )ものである。そして、パケット交換ネットワークという技術により、俗に”核攻撃にも耐えられる”堅牢性を実現したとされる。すなわち、メッセージはパケットに分割されて分散ネットワーク上を送信されるため、ネットワークの一部が破壊されたり通信不能な状態に陥ったとしても別のネットワークを辿ればよいというだけになる。つまり、インターネットの誕生はまさに「撹乱」「暴力」「通信の遮断」に対する秩序の形成に他ならない。インターネットは、あたかも呼吸をするような自然さで、同時に侵犯としての雑音を排除したのである(※)。

「音楽」の排除

では「雑音」ではない「音楽」はどうか。アタリは「雑音」に「音楽」を対置して図式化する。先述した「二つの結論」のうち、残る一つは以下の通りである。「音楽は雑音の方向づけであり、それ故、供犠の模倣である。音楽はそれ故、社会秩序、そして政治的統合を生み出すものであると同時に、想像力の昇華であり、高揚である」(同,47)アタリがここで主張するのは、「雑音」と「音楽」の二元論である。しかし、果たしてわれわれは、「音楽」をアタリのようにナイーブに「秩序」とみなすことができるだろうか。人間が作曲した音楽そのものについて言えば、時にそれは精緻に組み立てられた壮麗な芸術品であり、単独であたかも秩序の象徴であるかのようにすら響くであろう。では、それはどうして「雑音」において成立し得ないのだろうか?

当初は反体制、秩序に対する侵犯として、あるいは「文化的音楽に対する否定的価値」として現れた「ノイズ」という「運動」は、一つの音楽ジャンルに収められてしまうという皮肉な帰結を辿った。そして、その後に続いた「音響派」の登場。「音の高さや響きということが今まで音楽の中心だと思われてきたと。そうじゃなくて、音の肌触りだとか、音響そのものとしての響き方ですとか、あるいは聴覚の枠組みを変えてしまうような極端に小さい音や極端に大きい音を聴くことに、フレージングや和音の響きを聴くのとは違う意味があるんだ、という聴取の仕方を提示した」続・ジャズの明日へ 〜ジャズにおけるモダニズムとポストモダニズムの境界とは?〜 vol.14「音響派」はどうして生まれたのか? )、そんな彼ら(音響派)の導出した「音響」は、ノイズミュージックの与えた我々がこれまで「雑音」としてきたものと「音楽」とみなしてきたものを劃然と区別していた二元論を崩壊させていたのではないか。そして、そういった歴史を経てきたわれわれにとって、「それはどうして「雑音」において成立し得ないのだろうか?」という先の問いは、もはや答えを探す「問い」ではなく、力強い「宣言」として受け止めることができる。「音楽」は、その一見して優等生的な外見とは裏腹に、ありとあらゆる音響を飲み込む混沌である。そして、真の「秩序」を体現したインターネットが「音楽」を排除した一貫性も、また同時に受け容れることができるだろう。

最も静寂で、最も囂しい空間

不思議と音響を持たない、あらゆる意味で前代未聞の「インターネット」というメディアをテーマとし、ジャック・アタリの「雑音」/「音楽」に対する批判的な観点から「音響」を改めて定義し直しつつ論じてきた。インターネットがかように「秩序」の体現として、「侵犯」たる音響を排除し続けながらも、皮肉なことにその上においてはもっとも無秩序で混沌とした情報の戯れが繰り広げられている。最も静寂で、かつ最も囂しいこの空間は、矛盾に満ちた人間という存在そのもののようにも見える。

 

※ やや抽象的過ぎる表現になってしまっただろうか。卑近な例としては、音楽を持ったウェブページがシンプルに否定的に受け止められるという流れによるものである。テレビやラジオは、遠慮なく雑音を提供する。それはテレビやラジオ自体が既に音楽の一部であるからだ。しかし、秩序の体現たるネットにおいては、雑音は排除されなければならなかったのである。

文字数:4348

課題提出者一覧