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祝祭の波形〜「しくじり」と「ノイズ」について

 「しくじり」とは「死に向かう行為」である。「しくじり」または「過ち」が本質的に容易でない行為であることは、その名詞形に付随する動詞が「おかす(犯す、侵す、冒す)」というものであることからも示唆される。仮に、それがどんな些細な行為——例えば、靴下を表裏反対に履いてしまった、うっかり深爪してしまった、授業中に居眠りしてノートに判読不能な文字を書きつけてしまった、吹奏楽部で難易度の高い小節を正確に演奏できなかった、等——であったとしても、それを究極的に延長した線上に「生」ではなく「死」があることに違いはない。
 したがって、「正しさ/しくじり」の裏には、人類が永遠に逃れられない「生/死」という不滅の軸がおかれている。あらゆる価値を価値として成立させ、駆動させ、絶対的な裏付けを与える、もっとも原初的にして普遍的な価値と言えるだろう。例えば、価値観を共有しない小さな物語達の共同体間のコミュニケーションにおいて、「正しさ」という一見ナイーブで頼りなく、また容易に相対化されてしまいそうに見える価値の根源にあるのも、この「生/死」という絶対的な価値基準であり、それは異なる価値観の共同体においても一定の機能を担保されるのである。

 さて、ここで「正しさ/しくじり」についてより深く考察するために、いくらか迂回しつつ「音楽に先行するカオス」、「文化的音楽に対する否定的価値」または「音楽に対する非音楽」(1)と呼ばれた、その萌芽は20世紀初頭にまで遡る「ノイズ」(ここではいわゆる「ノイズ・ミュージック」を一律に「ノイズ」と表記する)という一つの芸術形態に注目してみたい。
 ノイズとは「原則的に非楽音の芸術」(2)であり、工具、工業製品、電子音、街頭の音、心音や、鳥のさえずりや波の音のような自然界の音、叫び声や呟きなどを音源として曲を構成するものである。音楽の三大要素であるリズム、メロディ、ハーモニーはここにおいては存在しない。歴史的には、六十年代以降のエレクトロ・ミュージックの副産物として、七十年代後半以降、アンダーグラウンドロックシーンにおいて、「インダストリアル・ミュージックの線上に固有の輪郭を与えられた一つの動向」(3)とされる。
 ノイズ・アーティスト(4)達は、ノイズを情報撹乱、反システムツールとして、淫楽殺人鬼を崇拝してアルバムを彼らに捧げ、アルバムカバーにナチスによる大量虐殺の死体の画像を掲載した上で楽曲全てに強制収容所の名を付し、あるいは歌詞やアートワークにレイプ、暴力、連続殺人、摂食障害、児童虐待などの過激なモチーフを盛り込む…など、様々な表現と共に用いた(5)

 これらのアーティスト達のノイズを用いた様々な試みを、我々は今、どのように位置付けるべきであろうか。
「エタン・ドネ演劇」と自称する特異なステージ・アクトで評価を受けたエタン・ドネについて、秋田昌美は「その音と身体表現を総じて「演劇」「詩」あるいは「祝祭」と呼んでいる」とし、その作品について「すさまじいスピードで練り上げられた様々な力の継起的運動であって、全くの暴力、射精の瞬間、そして「死」以外の何ものでもない」と表現している(6)が、
彼らの作品は文字通り、ニーチェ的な意味での「祝祭」そのものであり、アーティストは躊躇うことなく音楽的形態と、作品の枠を超えたメタ的な表現形態によって、バタイユ的にいうならば禁忌に対する「侵犯」としてノイズを機能させたのである。「過剰な力に由来する超越的な権能を帯びている」ノイズが、「中心をひきずりおろし混沌の中で構造を組み替える侵犯」(7)を試みたと言えるだろう。
 結局、ノイズとは音響的手段を用いた「実験」(8)であった。つまり、あくまでそのアウトプットが基本的に聴覚にのみ働きかけるという意味で対象を限定し、そこで「音楽に対する否定的な価値」つまり従来の音楽的価値から見たときの「誤り」を究極まで追求した、ということである。対象を限定することなく、無邪気に「否定的価値」へと自らの社会的・物理的身体を躍らせることをすると、その「しくじり」は速やかに行為者を行為不能な状態へと追いやるであろう。
 そして、その「実験」は思わぬ結果を導く。ノイズがその「実験」を時代を経て繰り返した結果、当初の問題意識が「音楽形態そのものの非定型化、無化であったはず」(9)のそれは、皮肉にも「音楽」の一ジャンルとして確立し、そこに収められてしまったのである。つまり、同様の価値観を共有する多数の追随者(仲間としてのノイズ・アーティスト達)を招き入れた上に、雑音の集積に肯定的であれ、倒錯した否定的なものであれ、価値を見出すオーディエンス、すなわちノイズの消費者がいたということである。ここで我々は問わなければならない。果たして、ノイズにおける「肯定的な価値」とは具体的にどのようなものだったのだろうか、と。

大友良英は、ジミ・ヘンドリックスの演奏したThe Star Spangled Banner(10)についてこう語っている。

「ギターをアンプに通して『ギャーン』とやるだけでも楽しいんですよ。暴力衝動だったり、パンク的衝動だったり。単純な社会性だけじゃなくて、ものすごくプリミティブな身体感覚もきっとあったと思うんですよね」(11)

これはノイズ以前の、インダストリアルのアーティストでもない一天才ギタリストの演奏についての言及でありながら(12)も、大友がここで語っているのは、ノイズという祝祭の中で生み出した楽曲群の一部が偶然にも備えてしまった価値でもある。
また、20世紀初頭に「騒音芸術」宣言を行ったルイジ・ルッソロはこのように語っている。

長い間、ベートーベンやワグナーは我々にショックを与えてきたが、我々はそういうものに飽き飽きして、電車や内燃機関のバックファイアー、群衆の叫び声等の結合したノイズに快楽を見出したのだ。…水の流れる音、空気、メタル・パイプが吹き出すガス、モーターの唸り声、バルブは脈動し、ピストンは鼓動し、まるで動物のように呼吸し律動するだろう。我々は金物屋のブラインドやドアの開閉音、群衆のつぶやきや小競り合い等がおりなすオーケストレーションに狂喜する。(13)

 時代は60年遅れて、彼の先見性を証明することになるだろう。The New BlockadersのChangez Les Blockeurs(14)には、金物屋か製材所で誰かが作業しているかのような音、巨大な金属の機械が遠くで回転しているような軋んだ音、叩く音、引き摺るような音、物と物がこすれ合う音の「オーケストレーション」が収録されている。そこでは聴覚以外の五感はほぼ役に立たない。突然聴覚だけが違う世界に入り込んだような不思議な緊張の中で、我々は注意深く音を追いかけるしかない。そこで得られるのは構成された音楽を聴くのとは全く別個の、音そのものに強制的に触れさせられ、その荒々しい魅力=「祝祭」の波形に否応なく気づかせられるという全く新しい体験である。

 日常でしばしば犯してしまう「しくじり」において、我々はいわば、ノイズ・アーティストが意図的に行ってきたこの「実験」を非意図的に反芻させられている。それは、人間の浅知恵と近視眼的な価値判断から、(否応なく)大きく逸脱したアプローチで対象と向き合わされる絶好の機会として立ち現れる。明らかに知識不足の状態で批評再生塾に参加してしまい、まるでRSWの楽曲の阿鼻叫喚に日常が覆い尽くされてしまったという、そんな筆者の「しくじり」も、「正解」を選択し続ける以上に新しい価値を生み出すことになるかもしれない。

 

(1) 秋田昌美『ノイズ・ウォー ノイズ・ミュージックとその展開 NOISE 10 YEARS』青弓社、1992年 pp.101
(2) Wikipedia「ノイズミュージック
(3) 『ノイズ・ウォー』、pp.101
(4) 当時は「ノイズ」というジャンル、あるいは「ノイズ・アーティスト」という肩書きは存在していなかったようであるが、便宜上ここではこのように表現する。
(5) やや時代は下るが、Rancid Shit Wankのアルバム群は、その醜く生理的嫌悪感を催すアートワーク、歪んだ電子音と悲鳴に似た金切り声と共に暴力的に反復され続ける楽曲、下品なスラングまみれの楽曲タイトルによって、その最も極端な例として参考になるだろう。
(6) 『ノイズ・ウォー』、pp.68、69
(7) 浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年、pp.119
(8) なお、おそらくノイズに限らず、文学においても美術においても、こういう試みは可能かもしれない。しかしここで、敢えてノイズを取り上げたのは、我々の日常生活のもっとも近くにあるのはノイズであるからだ。「ノイズ」という単語自体、音楽の文脈を離れて「夾雑物」や「外乱」という意味で用いられており、生活空間はノイズに満ち溢れている。都市はいうまでもなくノイズの舞台である。
(9) 『ノイズ・ウォー』、pp.142
(10) Jimi Hendrix – The Star Spangled Banner [ American Anthem ] ( Live at Woodstock 1969 )
(11) 大友良英『題名のない音楽会』でノイズ語る「当時のスタンダードからするとビートルズはノイズ」
(12) 大友は「影響を受けたノイズ・ミュージック3曲」の1曲にこれを挙げ、「ノイズミュージック」という文脈でこの演奏を捉えている。
(13) 『ノイズ・ウォー』、pp.145
(14) The New Blockaders – Changez Les Blockeurs Part 1 (Excerpt) 

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