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「ま」と「ラ」の間を隔てるもの

インターネットにおけるソーシャル化に伴い、映画もまたその流れに飲み込まれつつある。「イメージの進行形」(渡邉大輔)において、渡邉は「映像圏的な状況」が「氾濫し尽くしている」とこの状況を指摘している。

かつては、映画館の中で一瞬を逃してしまえばもう一度映画を最初から見返さなければならなかった映像は、今や家庭内のテレビやデジタル端末上で小さく、そして映画館で閲覧するのとさして変わらないクオリティで自由に何度でも繰り返し閲覧され、注目したいシーンは監督の意向本来の流れを分断して再生速度を変えて執拗な視線に晒されうる。あるいは現代の映像処理ツールにより自由に切り刻まれ編集され、全く別のコンテキストにおける「映像素材」として貶められる。

1999年に刊行された「映画は死んだ」(内田樹、松下正己)という書籍は、松下の「人々が日常と隔絶した映画館の暗闇の中で夢を紡いでいた時代、映画と現実の相互作用によってつくられた時代が、確実に終わろうとしている…(中略)…二十世紀の終焉と共に、映画は死のうとしている」という、いささか感傷的な”予言”によって結ばれているが、それから10年以上を経た現在において、それはまた別の観点からも生々しい説得力を持って立ち上がっていると言えよう。

しかし、それでも映画は他の映像コンテンツとは異なる「特権」を備えている。公開当初は常に映画館で上映され、また、その他の場での視聴は偏執的と言えるまでに念入りに排除されるという権利である。
後者の「権利」は、テレビであれ何であれ、本来的には全てを備えているべきであるが、実態は理想とは程遠く、放映直後にその映像は動画サイトに違法アップロードされ、違法ダウンロードされ、アニメgif化されてネット上で直ちにそれにまつわる言説と共に世界中で共有され、消費される。

一方、映画は全く異なっている。映画館に行くと、上映前には必ず「映画泥棒」の寸劇が始まる。「映画泥棒」が著作者の権利を侵害し、得ようとした利益の夢想は逮捕によって打ち砕かれ、映画泥棒がうなだれる姿を我々は劇場に行くたびに目にすることになる。他方で、テレビの放映前に現れるのは、「最近インターネット上での不正な利用が多発しております。…」という、自らの主張が今まさにその時点で全国で裏切られ続けていることを承知している諦観すら漂わせつつ消えていく無力なテロップのみである。

そして、その初回の上映が映画館という場を伴って初めて現れうるという映画の前者の特権は、実は、映像をとりまく環境がフラット化している現代において唯一、映画を「映画」として延命させているーー即ち映画を支える人工呼吸器の供給管である。これはどういうことであろうか。

人は映画を観るためには必ず映画館に赴く必要がある。その時点でネットによってフラット化されていたはずの情報空間において映画が特異点であることは明白である。のみならず、映画館においては人はすべての「ネットワーク」から強制的に切断され、普段の生活でアプリオリに享受している鑑賞の営みの作法(Twitter実況や「カウチポテト」など)をリセットされる。

明らかにその質と量の割に高価であるポップコーンとドリンクを購入させられ、番号のついた窮屈なシートに座らせられ、そこから上映中は移動することさえ許されないこの空間は、あたかも「20世紀に映画という芸術がありました」といわんばかりの映画鑑賞の「コスプレ」を無意識的に、好んで演じさせられているようである。映画にとっていえば画質、音響がどれだけ向上し、4DXになったとしても、その劇場という空間の本質は、あえて時代の流れに棹差すように見せながらひそやかに逆行する劇場空間とそれをあえて許容する観客の共犯関係ーーあるいは先の隠喩にしたがい人工呼吸と呼ぶべきかーーによって逞しく延命させられている。
そして、この共犯関係の裏にある契約の媒介こそが、我々が「映画的なもの」と呼びうる曖昧とした価値であり、映画を「映画」として存在させているのである。

いくらか迂回が過ぎた感もあるが、この「映画的なもの」について、一つの作品に着目して検証を始めたい。俎上に上げるのは「たまこまーけっと」とその劇場版である「たまこラブストーリー」である。このアニメというジャンルに違和感を覚える読者がいるかもしれない。映画とは映像と現実という二つの対象の相克の歴史でもあり、現実こそが主戦場であった映画史の道筋においてアニメーション映画は顧みられることもなかっただろうからだ。しかし、それはここでは敢えて措こう。アニメーションの劇場版は、同一のモチーフがテレビと劇場で描かれることであり、即ち「映画的でないもの」と「映画的なもの」と描き分けられる契機に他ならないからである。
そして、映画作家が意識するしないの関わらず、仮に通常であれば映画を作成することもなかったであろうテレビのアニメーション制作会社が劇場版の制作に取り組んだ場合であったとしても、共犯関係の力学は彼らに「映画」を撮らせてしまう。ともかく、劇場版とテレビアニメ版の差分をとる作業こそが「映画的なもの」を析出させるプロセスであるとすれば、この検証においてアニメーションを例に挙げることはごく自然な判断であろう。

「たまこまーけっと」(以下「ま」)とは、京都アニメーション制作のオリジナルアニメで、2013年の1月より1クール放映された作品である。商店街の餅屋の娘である主人公たまこと、商店街の人々、またそこに突如飛び込んできた、人間の言葉を話す鳥との関わりを描いた穏やかで可愛らしい人情ドラマである。一方で「たまこラブストーリー」(以下「ラ」)は「ま」の続編を劇場版として製作された。たまこと、その幼馴染で「ま」にもレギュラー出演していたもち蔵とのストレートな恋バナである。たまこは高校生だが恋愛には鈍感な娘として描かれているため、早くからたまこに想いを寄せていたもち蔵の彼女へのアプローチは「ま」においては彼らの純粋さや滑稽さを描くためのお約束に過ぎなかったが、「ラ」においては一転して彼は早々にたまこに告白し、告白以降、この作品は、もち蔵と、思わぬ告白によって唐突に思春期に脱皮させられたたまこの、二人の悩みを執拗に、かつ、いかなる性的情緒を漂わせることなく爽やかに描写している。
「ラ」が単純に恋バナであるというのであれば、それはごくありふれたテーマに過ぎず、映画的云々を語ることはできないように思えるが、「ま」においてそのテーマはいわば念入りに拒絶されてきたものである。「ラ」のスタッフは「ま」のスタッフと同じく、女性スタッフがメインであり、監督の山田尚子とキャラクターデザインの堀口悠紀子、シリーズ構成の吉田玲子はそれぞれ「けいおん!」のスタッフであり、「けいおん!」において舞台が女子校に設定され「ま」以上に男性の影なく主人公たちの姿のみが過剰にフィーチャーされて描かれていたことと無関係ではないだろう。後に触れるように、「けいおん!」においては同時に両親の姿も注意深く排除されているのも特徴的である。「ま」においてもち蔵というキャラクターと商店街の大人達がたっぷりの人情で主人公たちと物心両面から支えあっていた(商店街という場所の設定も、それを描くうえで有効に機能したーー登場人物たちは時折自分たちの店の品物を互いに分け与えあっている)が、いずれにせよ「ま」において「恋愛」はテーマにはなり得なかった。すなわち、「ラ」は「ま」と作品としての意義としては全く別のものであり、「ま」において決して描かれなかったものを描くためには劇場という装置が必要だったといえる。
それでは、「けいおん!」で描かれなかった「男」「両親」「大人達」を描いた「ま」に、劇場が必要とされなかったのはなぜだろうか? いうまでもなく、モチーフが変わってしまったからである。「けいおん!」にも実は劇場版があったが、「けいおん!」においてスタッフはこれらの境界を踏み越えることができなかったのである。結果として、「けいおん!」は一つのアニメ作品としては優れていたが、「映画的かどうか」という観点においては筆者自身多少の違和感を禁じ得なかった。「けいおん!」の劇場版が、仮に「両親」を描いていたら、おそらくはこの上なく「映画的」になったことは想像に難くない。

ある作品が「映画的」たり得るためには、その作品が描かなかった/描けなかったものを引き剥がし、その後ろにあるものを描く必要がある。それは、薄暗い劇場でスポットライトを浴びてその衣装を脱ぎ捨てるダンサーを連想させる。そこは一般には、現実世界の皮膜を剥がした裏にある死や性やタブーに満ち溢れた世界であるが、必ずしもそうとは限らない。「ラ」における爽やかな鑑賞後感は、京アニのスタッフが、「ま」の皮膜を巧みに取り払って映画的なるものを生み出すことに成功した何よりの証左なのである。

最後に付け加えると、以上の議論は決して「映画的でない」ものの否定ではない。映画的なものが、皮膜の後ろを描くとするならば、映画的でないものはその手前を描いている。それは我々の生が拠って立つ、まさにその場所なのである。

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