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LINEのスタンプ

「仕事で、同僚と個人的に連絡をとる必要が生じた。電話番号は正直面倒くさいし、お金もかかる。彼がLINEを使っていることは知っていたので、LINEの友だちになってほしいと伝えた。快く応じてもらって、彼のお馴染みのアイコン(それを他のグループウェアでも使っていたのだ)が、私の友だちリスト上に追加された。

試しに、彼に「てすと」というメッセージを送ると、彼はすぐにスタンプを送ってきた。そのキャラクターが何なのか私にはわからなかったけど、そのキャラクターが喋っている言葉が、全く違和感なく彼の声で再生されたので、私は思わず心の中で笑ってしまった。」

上記は私の体験だが、LINEスタンプというツールは様々な側面で面白い要素を孕んでいるように思う。LINEのスタンプについて考察してみたい。

LINEのスタンプとは

LINEのスタンプについて、今や知らない人は少ないだろうが、改めて解説すると、スタンプとは「LINE」というスマートフォン、もしくはPCのコミュニケーションアプリで相手に送信できるイラストを指す。スタンプは主にアニメ、漫画、キャラクター等の表情豊かなイラスト群から成っている。例えば、喜怒哀楽をはじめ、驚き、期待、爆笑、恥ずかしさといった様々な感情を表すイラスト、「ありがとう」「OK」「バイバイ」などのメッセージを表すものなどがある。LINEユーザーは、相手との会話の中で、その時々の様々な感情や心境をスタンプによって表現することができる。

スタンプと文字の関係

スタンプは、文字と一緒に送信できない。いかなる文字も添付できずに、スタンプは単独で送信される 1)ということはこのツールの一つの大きな特徴と言える。スタンプは言葉を「補う」、または「飾る」ものではない。

相手から、「キャラクターが号泣しているスタンプ」を受け取った人は、「相手は今、号泣したい気持ちなんだ」と把握する。送る側はそこに追加の言葉は要らない。もちろん、スタンプを送信した後で言葉を送信することはできるが、スタンプを送った後にそのスタンプ自体について言及することはナンセンスである。

LINEでは「スタンプ」もしくは「文字」を送信する。そこにおいて、スタンプは言葉と同等の立場にある。

相手が隣にいてもスタンプをやりとりすることもありえよう。スタンプは言葉によって代替することができないから、LINEを使う他ないのだ。例えば、iPhoneのRetinaディスプレイはテレビや印刷物以上にスタンプのキャラクターの姿を美しく描き出す。その表現力の高さ故、スタンプの受信は単純なコミュニケーションという文脈から離れて、全く別の独立した価値を備えうる。

他のツールとの違い

一般的な画像の送信でも、スタンプと似たようなことは可能である。LINEに限らず、Twitter上では、漫画の一コマや、字幕付きのテレビ・アニメ等のキャプチャー画像を言葉を付け足さずに投稿する風潮は、近頃すっかり一般的になっているように思う。これは意味的にはスタンプが持つものと非常に近い。顔文字もまた同様である。

しかし、当然の話だが、スタンプはLINE専用フォーマットである点において、「画像ファイル」や「顔文字」と根本的に異なる。画像ファイルはその目的が汎用であるため、画像編集がサポートされていなければならないが、LINEはスタンプ専用で、改変不可であり、従ってスタンプは「コミュニケーションの最小単位」となる。この点において通常の画像や顔文字とは一線を画する。

スタンプ成立の条件

なぜ、スタンプは2011年になるまで生まれなかったのか。スタンプを成立させている環境的な条件は何だろうか。

まず、スタンプは、スケールさせる2)こと——それが恐らく最大の問題ではあるのだろうが——を考慮にいれなければ、ネットワークを介した画像のシンプルな送受信に過ぎない。しかし、スタンプの画像を表示できるデバイスの表現力や、画像の送信時間がコミュニケーションのボトルネックにならない程度の転送速度、かつ、それが数億規模のユーザーにおいて保証されている…。純粋に技術的な側面だけに着目しても、前世紀には想像することさえ難しい3)レベルの達成がそこにはあり、スタンプはその上にのみ成り立ちうる。

スタンプの欠かせない魅力の一つは多様性である。スタンプは一度利用する権利を購入してしまえば、基本的には制限なしで永久に利用することができるが、それは実質「無限に使える消耗品」であり、LINEを続ける限りはスタンプをアップデートしていくことになる。スタンプの魅力の一つである多様性を支えるのがスタンプのクリエーターである。

スタンプの需要/供給は縦軸に需要/供給量、横軸にスタンプの種類をとるといずれも長大な裾野を持つ、いわゆる「ロングテール」の分布を成していると推測される。キャラクターの著作権者が作成するスタンプだけでも莫大な種類を備えてはいるが、LINEのスタンプはネット上の数多くのアマチュアクリエーター達にも制作できるよう門戸を開いており、そのことによって多様なニーズに自然に対応できるようになっている。もちろんスタンプは無料ではないが、例えばオープンソースソフトウェアのように、「作品」をフリーで公開、頒布して共有するインターネットの風潮もまた、現在のスタンプの多様性を支える屋台骨となっている。仮に、スタンプが限られたデフォルトのものしか存在しておらず、増えないものであったとすれば、LINEがここまで隆盛することはありえなかっただろう。

LINEはそのネット文化が一定の成熟を迎える時期を待たなければならなかったと言えるのかもしれない。

スタンプによるコミュニケーション

では、そのようなLINE上のスタンプを介して生まれるコミュニケーションとはどのようなものだろうか。最初にスタンプが言葉と同等であると触れたが、400万は優に超える4)であろうスタンプが、ユーザーの感情を豊かなビジュアルによって表現することによってオンラインのコミュニケーションに何らかの変化はあるのだろうか。

雄弁過ぎるキャラクターたち

スタンプのキャラクターの表情は、そのスタンプを送った人の表情とは違うものだ。言葉においても同じことは言えるが、言葉が、例えば「生やす草」の数を変えたり、エクスクラメーションマークを付けたり外したりと気分に応じて微妙な緩急をつけられるのに対し、前述の通り改変できないスタンプにおいてはスタンプとユーザーのギャップは時として見落とされがちになる。ここにおいては、決してスタンプはコミュニケーション不全に力を貸さない。

スタンプの「不定な意味」

当然ながら、スタンプの持つ意味は1つではない。文脈に応じて、同じスタンプが別の意味で用いられることもあるし、「なぜこれを作ったのか?」と思わずにはいられないような、それ自体意味も意図も不明なスタンプは少なからずある。そういうスタンプに対する理解は、送信者側と受信者側で一致している方が不自然だ。スタンプはお互いの誤解を、それを誤解と気づかせることなくラップして、コミュニケーションを成り立たせているのである。これもまた、コミュニケーションの改善には必ずしも繋がってはいない。

しかし、我々はそういうスタンプを目にしたときに思わず笑ってしまったり、それに対してやはりシュールなスタンプを送り返したりして、不思議とコミュニケーションが成り立っているように見える。いや、それは誰がどうみてもコミュニケーションである。言葉で表現されうる意味以外の何かが伝達されているのだ。

動物の会話

ところで、犬、猫やカラスの、動物同士の「会話」の仕組みはどうなっているのだろうか。

特に、カラスの「会話」は間の置き方といい、交互に微妙に異なるテンションで鳴くその鳴き方、まるで本当に別言語で会話しているようにさえ思える。鳴き方、吠え方が何らかの人間の言葉に置き換え可能だったりするのだろうか?

LINEのスタンプによるコミュニケーションは、動物達の「会話」に近い。感覚でスタンプを選択し、特に理由もなくそれを相手に送信する。無言(スタンプには言葉が無いから)にして、雄弁(キャラクターは雄弁にその感情を表現しているから)なやりとりである。そして裏側で連続的に発生し続けている「コミュニケーションエラー」がそのことに互いに気づかず(気づくことができず)裏で葬りさられるその有り様は、知性とは対極にあり、ある意味動物的と言えるのかもしれない。

こう見ることはできないだろうか。われわれは、少なくとも歴史上に現れるコミュニケーションは、それが記録しうる客観的な手段であるという理由によって言語に縛られつづけてきた。しかし、情報技術の日進月歩の発展の到達点に我々はLINEというツールを生み出し、そこにおいて、「完成度の高いイラストのみを用いたコミュニケーション」という可能性を見出した。そして、原初にはそれをもってコミュニケーションしていたであろう「動物の会話」に、人間は再び到達したのである、と。その仮説に立って今、既存のコミュニケーションを省みると、それは、全く違う姿をとって我々の前に現れてはこないだろうか。同時に、そこに人間同士のコミュニケーションが改善する可能性さえ見えてはこないだろうか。

ポスト昭和のコミュニケーション

「昭和」という時代との比較に限定した「ポスト昭和」論としては大げさ過ぎるテーマになってしまったかもしれない。ただ、「昭和」は物質的な文化の成長が極まった時代だったと思う。この不十分な人間が、せめて機械の力を借りて少しでも理想の生活に近づきたい、ともがき続けた時代だ。そして、そうすれば理想を実現できると信じていた時代といえるかもしれない。

そこでは、技術は人間の能力を伸張させ、人間の生活を楽にするものであった。昭和の見た夢は、現代で多くの部分で実現している。そういえば、自分の小さい頃だとなぜか「テレビ電話」が未来の夢を象徴していたような印象があるが、いつのまにかあっさり実現しており、今や何百、何千キロを経てリアルタイムで対話して仕事を行ってさえいる。その他、電子書籍、掃除ロボット、食器洗浄機、3Dプリンター、電気自動車、などなど。思えば人類はだいぶ遠くにきてしまったのかもしれない。

昭和から見れば、インターネットの存在自体が想像の斜め上に位置している。そして、その斜め上の世界で培われてきた文化の上に育った一つの果実がLINEとそのスタンプと言ってもよいだろう。

LINE上で実現したコミュニケーションは、昭和の夢と比べるとむしろ素朴な遊びで、技術の無駄遣いのようにも見えるかもしれない。そしてコミュニケーションは理性的、人間的であろうとするよりもその反対側に向かってさえいるかもしれない。しかしそれ故に、その不思議な技術が実現したコミュニケーションは、ポスト昭和に現れる、より人同士が暖かく結びつく時代の姿を確かに予見しているようにも思えるのである。


1)文章の中に文字として埋め込める、いわば「絵文字」としても「スタンプ」としても使えるものも存在してはいるが、例外的といっていい

2)世界で5億人を超えるユーザーを支えるサーバの設計など。

3) Windows95の登場から20年であまりにも劇的に進歩した情報技術については、このネタ記事(【PC-98】Windows95で仕事ができるか実験してみた【フロッピー】http://au-tsunagaru.jp/showcase/content.php?id=13 (アーカイブ:https://archive.is/TXM7D ))に印象的に表現されている。手書きのペラいちのhtmlでウェブサイトが構成されていた時代はとうに過ぎ、自動生成されるhtmlが大量のスタイルファイルとスクリプトファイルを読み込んで駆動する、Windows 95時代のPCのスペックでは到底太刀打ちできない巨大な構造物がひしめく時代である。

4) 15万(種類) x 30(個平均)=450万以上はあると推定される

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