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不在証明としての批評 ―佐々木敦「誤解をおそれずに言えば」―

1.

佐々木敦が『あなたは今、この文章を読んでいる。』において提唱した、「パラフィクション」という概念、そしてその概念によって引き起こされることを理解するのは難しい。何が難しいのか。それは、同書の中で佐々木自身も述べているように、「パラフィクションはメタフィクションの歴史と同じだけの、つまりはフィクションの歴史と同じだけの歴史を持っている」、ある意味では当たり前のことにすぎないからである。しかし、その当たり前さ、身もふたもなさに惑わされて、「パラフィクション」を考えることによって生まれるある種の可能性まで失ってはならない。ともあれ、パラフィクションという新しい言葉が、どのような内容を示しているか、本人の要約を見るところから始めてみたい。

 

【(前略)いわゆるメタフィクションが、一篇の小説における「作者」の権能を極大化してゆくプロセスの産物であるのに対し、その向こう側に想定される「読者」の存在とその関与を小説自身が意識化、内面化してゆくベクトルを、パラフィクションと命名した。】

新潮2016年1月号 佐々木敦「虚構外存在の悲しみ 筒井康隆『モナドの領域』論」より

 

つまり、パラフィクションにおいては、「作者とフィクション」ではなく、「読者とフィクション」の関係こそが問題なのだ。では、どのような関係なのか?『あなたは今、この文章を読んでいる。』から引用する。

 

【「外部の作者」によって存在させられたひとつのフィクション=テクストは「外部の読者」によって実在させられる。ひとつのフィクションが存在しているからには「外部の作者」が実在しており、それは「外部の読者」を自らが読まれるごとに実在させる。(中略)「読者」とは「内部」から「外部」に創出されてくる存在だと言っていいのではあるまいか。】

佐々木敦 『あなたは今、この文章を読んでいる。』p.210

 

この引用部分が示しているのは、パラフィクションにおける「読者」は、例えばテクスト論的な読者のような、完全な自由を保障された存在ではなく、あくまで「フィクションを読むときにだけ創出される」、限定された存在である、ということだ。つまり、「パラフィクション」という概念を提唱することは、「フィクション」に対するアプローチではなく、むしろ、「読者」の定義の更新だった、ととりあえず言っておく。そのような「読者」、テクストによって創出されてくる「読者」は、「誤解をおそれずに言えば」、すくなくとも「文学についての言説=文芸批評」を更新する可能性をはらんでいるだろう。

 

2.

前章の終わりで、私は「誤解をおそれずに言えば」と書くにあたってこの字列を太字にした。なぜなら、このフレーズは、音楽批評を主戦場にしていたころの佐々木敦が、しばしば書き込んでいたからである。たとえば、

 

【誤解を恐れずに言えば、それはコンラッドが、究極的には「精密な聴取」などあり得ないのだということを、一方では分かっていたからである。】

『テクノイズ・マテリアリズム』 「Ⅲ ケージ・ミニマリズム・音響派」p.205

 

【生者でも死者でもゾンビでもないものの、終わりではない終わり。それは、誤解を畏れずに言えば、儚くもけなげで、そして美しい。】

『ex-music R』「生者でも死者でもゾンビでもないもの―渋谷慶一郎+岡田利規「THE END」」p.136

 

音楽や演劇を批評するにあたって、佐々木敦は「誤解を恐/畏れずに言えば」と書きつけること抜きには、決定的な一文を続けることはできなかった。その理由を考えることは、「誰による何に対する誤解」に対する「恐/畏れ」だったのかを考えることにほかならない。

素朴に考えて、というのは、実在する作者が実在する読者にむけて書いた、と考えてという意味だが、第一に想定されるのは、読者に作者(実在の佐々木敦)が誤解されることである。だがこれが公開された文章である以上、実在する読者の誤解に対して、作者は責任を問われる可能性こそあれ、おそれる必要はないはずだ。ある意味では、読者による生産的な誤解こそ、文章が公開される理由ですらある。

第二に、論じている対象に対して、書き手が「誤解」しているのではという「おそれ」である。しかしこの場合も、佐々木敦の位置が入れ替わっただけで、第一の想定と変わらない。つまり、佐々木敦が現に論じている対象もまた、佐々木敦による誤解を許しているはずだ。つまり、作品があり、それに批評する、というとき、「誤解をおそれる」という態度には意味がない、はずだ。しかし、それでも、佐々木敦は「誤解を恐/畏れずに言えば」と書いた。

ここで、パラフィクションの「読者」像の更新について思い出せば、佐々木敦の「恐/畏れ」について一歩踏み込むことができるだろう。

パラフィクションの「読者」は、「フィクションによって創出される存在」であった。そのことが意味することは、「読者」は「フィクションの終わり」とともに消える、ということだ。では「かつて読者であった私」はどうするのか?佐々木自身が、『あなたは今、この本を読んでいる。』で、伊藤計劃から円城塔が引き継いだ小説、『屍者の帝国』読解に際して述べている。

 

【このとき、この小説の大半において「わたし=ジョン・H・ワトソン」の忠実なる「記録者」であった「ぼく=フライデー」は、彼に記すべき言葉を告げてきた主人を喪い、おそらくは一種の奇跡とでも呼ぶべきプロセスを経ることによって、純然たる「書き手」に、もっと言うなら「作者」へと変貌している。彼は、フライデーは、「ぼく」は、今、自分で考えたことを書いている。

だがもちろん、(中略)「自分で考える」ということ、考えているのは/が「自分」である、ということこそが、錯誤であり誤謬であるのだが。しかし、ここには確かに「ぼく」と名乗るぼくがいる。】 前掲書 p251

 

ここに引用した部分とのアナロジーで考えれば「誤解を恐/畏れず言えば」と佐々木敦が書きつけるその時間、彼の存在はすでに、彼のいう「読者」ではなくなっているのだ。彼の生きるその時間は、「かつて確かに読者だった書き手」という時間である。今問題になっていること、「佐々木敦は、誰に対するどんな誤解を恐/畏れているのか?」という問いにはだから、こう答えることになる。「佐々木敦が恐/畏れているのは、「書き手佐々木敦」が、かつて「フィクションによって創出された「読者」としての佐々木敦」を裏切ってしまうことなのだ」と。佐々木敦は、パラフィクションという概念を持ち出す以前から、自らの「読者」性を裏切らぬ「書き手」であろうとしていたのだった。「読者」性とは、まさにフィクションから人が譲り受けるフィクションの一部であり、それを「書き手」としての自己が誤解するとしたら、それは「おそるべき誤解」だったのだ。

 

3.

ところが、理の当然として、「書き手佐々木敦」が書いたものは、フィクションが発生させた「読者」そのものではありえない。なぜならば、書かれたものは文字であり、表象、代理でしかなく、なによりそれ以上に、「読者佐々木敦」はフィクションが終わる瞬間にすでに消えてしまっていて、「書かれたもの」はその参照項(「読者」)を失った場所から始まっているのだ。「読者性への畏怖」(つまりはフィクションに対する畏怖だが)にも関わらず「書く」という行為は常に、自らの、また作品の「読者」性を裏切る、いや裏切ることすらできない。なぜなら書いている現在において、「読者」はすでに存在しないのだから。

ここにあるのは、書くことが対象を裏切る、そして裏切る以上、対象に対してなんらかの奉仕、貢献が求められるといった議論とは別の困難だ。批評の根拠となるはずの「読者」性(フィクションと受容者の合作であるような存在)が既に消えているならば、「書き手」の行為はなんのためにあるのか?

ある意味では、「書き手」がすでに消えてしまった「読者」性を拠り所にして書くのは、「読者」がすでに不在であることを否認する身振りであるかもしれない。だがそれだけではない。「不在を拠り所にして書く」という態度は、倫理的ですらあるのだ。なぜか?個人の「読者」性は、作品との関わりにおいて発生する。そして個人は、読者である限りにおいて、ほかのあらゆる規定から自由である。「読者」は、作品とともに消え、さまざまな要素の集積である個人が回帰するが、そこにはかつて「読者」であった、という痕跡が残る。彼がその痕跡を追いかけ「書き手」になる時、彼と「作品」との関係(つまり「読者」であるということだが)は終わっている。だが、だからこそ、「書き手」である彼は「作品」に対してなんの影響も及ぼさぬままに書く、書くことができるだろう。ともすれば、いかに作品を「われわれ」に回収するかの競技になってしまう批評というジャンルが、作品と向き合って孤独であること。もはや、作品は批評を必要としていない。同時に、批評もまた、元ネタとしての作品は必要としていない。だが、そのどちらにもまたがって「読者」という存在があるのだ、ということを「パラフィクション」という概念は示している。「読者」のため、作品は「読者」の誕生のため、批評は「読者」の埋葬のため、書かれなければならないのだ。

 

 

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