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滲む時間

 

藤田嗣治は、自らの戦争画の手法について、「顔からではなく、足から描かねばならない。なぜならば、戦場にある身体を特徴付けるのは、均されていない地面の上で、異常な形で自らを支えねばならないということであるから」という意味のことを言っている。「均されていない地面」とは、例えば密林の、木々の根の複雑な絡み合いの上の泥のぬかるみ、積み重なって友軍敵軍の区別をすでに失った屍の群れ、素足に突き刺さる鋭利な岩場であるだろう。そして藤田の1943年の絵画『ソロモン海域に於ける米兵の末路』の場合、地面とは、海とその上で揺れる小船である。しかし、この小船の上の足たちは、一組の例外を除いて、自らの身体を支える足であることを放棄しているように見える。みな、寝ているか座っているかしていて、体の重みは小船の船底をやぶることもなく委ねられ、もはや自らを支えるような力を内在させていない。つまり、異常な形で自らを支える身体、戦場を定義付けるような身体ではないということだ。

例外とは、画面向かって右で、足を開いて立っている男である。彼の足は船の舳先に頭を向けて横たわる黒人の足をまたいでいる。横たわった足を跨いで立っているこの男の足だけが、海に浮かぶ船の上で自らを支えている。あえて問うが、海の上で何にも捕まらず垂直に立つということは可能なのだろうか。画面左上には、砕ける波が描かれているが、この船の周りの海は比較的穏やかだ。この程度の海の状態ならば、訓練された身体は、波の揺れに自らの重心を一致させるように揺れることができるのだろうか。そうであるなら、彼の膝は不自然だ。海の揺れに合わせて揺れているから立っていることができるのならば、彼の膝がこの絵のように突っ張っているのはおかしい。足首が異常に柔軟なのかもしれない。しかしその足首は、船べりに隔てられてわれわれには見えない。

彼の立ち方を一言で形容すれば、「屹立」といったところか。海の上で屹立する彼は、次の瞬間、波にたゆたう足場に置き去りにされ、前か後ろに倒れるはずだ。何気なくつかった「瞬間」という語は絵画の逆説である。完成した絵画は静止している。しかし絵画は一筆一筆描かれ、その一筆ごとに時間の経過がある。その時間の経過は、すべて描かれているあるひとつの瞬間に奉仕する。だからこそ、完成した絵画は「どうしてその瞬間なのか?」という問いに晒されることになる。

この絵画『ソロモン海域に於ける米兵の末路』における瞬間とは、揺れる小船の上の、ただ一人の男の一瞬の屹立である。一人の男が揺れる船の上で自らを支えて立っていようとした瞬間。

ところで、「瞬間」という言葉を使うとき、その背後に「時間の流れ」が貼り付けられていることを明言しておく必要がある。誤解をおそれず私見を述べれば、とめどなく流れていて、ある瞬間は二度と現れないという時間感覚こそが、「瞬間」を特権的に扱う根拠だ。そして、藤田の戦争画が属するようなある種の絵画は、まさに、「瞬間」の特権性への信仰に支えられているだろう。「絵を描く」という行為は、不可逆的に流れる時間への反抗なのだ。流れ続ける時間に反抗する絵画という営みがこの画面の中に投影されているとすれば、それはこの「揺れる船の上で男が屹立しようとしている姿」だろう。時間がある世界においては「姿」は連続した「運動」の一部であり、しかもこの姿を運動に還元したなら、立ち上がり、また転ぶほかないような姿勢ではある。しかしそれが、その還元を拒否する絵画という営みにおいては、なお「姿」たりうるのである。

 

「不可逆的な時間への反抗こそが絵画」である、というとき、その「反抗」が「屹立する男」から読み取れると述べた。しかし、反抗するためには反抗の「敵」が必要であるし、それが画面に描き込まれていることが必要である。

この断言は、二つの問いを誘発する。ひとつは、まず「敵」とはなにかという問いだ。もうひとつは、なぜそれは画面に描き込まれなければならないかである。

第一の問いに対する答えは、この章の冒頭の定義から、「不可逆的な時間」でしかありえない。瞬間を志向する反抗は、不可逆的な時間を相手どって行われる。

もうひとつの、なぜ、それが描き込まれなければならないか、という問いに対する答えは、「絵画」という営みの達成条件と、「絵画」の物質的特性にかかわる。1章で、絵画の達成条件を、とめどない時間の中ではありえない特権的な瞬間を掴みだすこと、言い換えれば、「運動」の中から「姿」を切り取ること、これが絵画の達成条件であるといった。ところが、完成した「絵画」を構成する物質は、それ自体として連続する時間を表現することができない。「絵画」という物質、つまり絵具によって何かが書かれたキャンバスは、静止しているとみなされてしまう。つまり、そこに画面としてあるだけでは、「運動」そのものを含むことができないということである。ゆえに、ある画面が物質的に存在しているだけでは、「運動」という前提は失われてしまうのだ。

 

では、この『ソロモン海域に於ける米兵の末路』には、「運動」=「敵」は含まれているだろうか。

この画面には、「屹立する男」と対照を成すモチーフが存在している。画面右下の隠された男の足の位置と点対称に描かれているのが、画面右上の鮫である。この鮫もまた、水面から顔と腹を出しつつ、その尾びれは水面下にあるように描かれている。「屹立する男」が「姿」であるなら、対照となるこの鮫は、「運動」なのだろうか。しかし、この鮫もまた、運動から抽出された「姿」として描かれている。この鮫は飛び上がる途中にも見えるし、またきりもみして背びれから沈んでいくようにも見える。つまり、画面上で「屹立する男」と対照をなしている「水面から飛び上がる鮫」もまた、絵画が反抗すべき時間の表象としてというよりはむしろ、「時間への反抗としての絵画の達成」=「姿」であって、「時間」そのものの画面への描きこみたりえていない。

この画面において時間の書き込みがあるとすれば、画面左下の部分である。船の艫に頭をむけ、仰向けに横たわる男が描かれているが、注目すべきは、艫に掛けられた衣服のようなものだ。この衣服は、この絵の光源の関係か、船の外にある海に酷似した色で描かれているので、遠目に見ると海水がそこから船に入り込んでいるように見える。より海面に近く描かれている船尾の左角は、未だ船の輪郭がはっきりと描かれていて、これが海の船内への滲出=「運動」だという読みは発生しにくい。だがこの海の色の衣服に注目したとき、艫の衣服の掛けられていない側に書き込まれた、鮫のほうへ視線をやっている男の左手との対照が目立ってくる。この、艫にしがみついた二つの色、人間の茶褐色と、海=衣服の鈍色の対照は、時間の切り取り=「姿」ではありえない。もはや「姿」に切り取りえないとめどない時間の流れが、船と海とをつなぐものとして描き込まれているのだ。すべての命の始まりであり終わりであるという「海」=「時間」のイメージを経由して、この海の色の絵具は、絵画に描かれる「瞬間」に、「とめどなく流れる時間そのもの」を持ち込んでいる。

さらに、この海の色は、船の上に現れるだけではない、人間と同様「姿」である鮫の腹の下半分にも、海の色がかぶせられている。この海の色が、あらゆる動くものにかぶさっていく描写、これこそが、「絵画」の乗り越えるべき「敵」である「時間」の絵としての取り込みなのだ。この、「運動」も「姿」も乗り越えて滲みでてくる「海」=絵具こそ、絵画における「時間」である。いまや、先にあげた絵画の物質的条件は「静止」しているという定義は撤回されなければならない。それがモノである以上、いつか消え去っていくという運動からは逃れられない。絵画の中に、時間の切り取りとしては処理できない絵具のが入り込んでいることによって、絵画は絵画の約束ごとから自由になり、もはや自らが反抗の対象そのものであったということを語りだすのだ。

絵具の色を何かの表象としてではなく、第一に絵具の色としてみることができるのは画家ではなくそれを鑑賞するものである。絵画自身が画家の信仰を裏切るさまを見ること、絵が自らその条件を満たし、自足してしまう場所を許さぬこと、それは一面、信仰への冒涜である。しかしそのように画家を孤高の位置から引きずり出すことは、本当にはできぬことのはずだ。彼が真に画家ならば。

 

 

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