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重婚する文字――『魔術師』について

 

 

「印度を見ないで印度の物語を書く? 少し大胆過ぎますね」と、作中の「タニザキ」を咎める一文を書きつけたのは、他ならぬ小説家、谷崎潤一郎であった。

冒頭に引いた一文は大正六年十一月に発表された『ハッサン・カンの妖術』中、「タニザキ」の読者である印度人の口から述べられる。ここで、「見ずに書く」ことを咎める谷崎はしかし、そのわずか十ヶ月前に発表された短編『魔術師』の執筆において、「大胆」であるよりはむしろあからさまな犯罪へ読者を手引きしていた。その罪とはすなわち、「現実を見ながら嘘を読むこと」である。読書という行為は例外なくこの罪から逃れられない。だが、この『魔術師』における罪は、それが罪であることを読者に自覚させながら、読者自身の欲望において侵犯していくことを選びとらせるだけに、なお根深い。

開巻劈頭すでに誘惑は始まっている。

 

「私があの魔術師に会ったのは、何処の国の何と云う町であったか、今ではハッキリと覚えていません。(中略)しかしあなたがその場所の性質や光景や雰囲気に関して、もう少し明瞭な観念を得たいと云うならば、まあ私は手短かに、浅草の六区に似ている、(中略)そうしてもっと頽乱した公園であったと云っておきましょう。」

 

素直な読者であれば既に「浅草六区」という現実の土地を想起しながら、その固有性を剝ぎとるという暴力を行使させられることになるのだが、周到な作者は、続く二段落を費やして、浅草六区の公園という土地をその空気へと希釈し、そしてその空気の悪臭を支那料理の渥味へと刷り換える様を「私」に演じさせ、読者をして現実の上に虚構を描くよう唆す。

読者を導くのが語り手「私」であるなら、「私」を魔術の行われる公園へ連れ出すのは「恋人」だ。「彼の女」とも名指されるその女は、作家の処女作である『刺青』の「白い足の娘」のように、「私」の欲望を引き出すだろう。しかし、『刺青』と『魔術師』では事態が異なる。ここでは、「彼の女」の誘惑が身体によってではなく言葉によってなされ、そして惹起された「私」の欲望が向かうのもまた、「彼の女」の身体にではなく、その「舒述」の対象なのだ。

 

彼女の語る挑発的な巧妙な舒述は、一言一句大空の虹の如く精細に、明瞭な幻影を私の胸に呼び起こして、私は話を聴いているより、むしろ映画を見ているような眩ゆさを感じました。同時に私は、その公園を今まで何度も訪れたことがあるらしく感ぜられました。少くとも彼女が見物したというそれ等の幻燈の数々は私の心の壁の面に、妄想ともつかず写真ともつかず、折々朦朧と浮かび上がって私の注視を促すことはしばしばあるのです。

 

「私」が「彼の女」の「舒述」によって自らの欲望を掻き立てられていく様は、『刺青』で男の見せた二幅の絵画が女に「隠れたる真の「己」」を見出させる様を思わせる。しかしここで、『刺青』の「娘」と『魔術師』の「私」は類似を見せながらずれていく。『刺青』の「娘」が「真の「己」」を自らの外なる絵画に見つけ出すのであれば、『魔術師』の「私」は、外なる「舒述」を通して、自らのうちにある「幻燈」を見る。『刺青』では欲望は外に向かうが、『魔術師』では、欲望は「私」の内に向かっていく。

そのことをより際立たせるのは、ここで使われている「虹」という比喩である。

「私」は、「彼の女」の言葉が惹起した感覚を、「虹の如く精細」な、「明瞭な幻影」と言っている。素朴に問う。「虹」は「精細」でありうるだろうか。「虹」は、認識の恣意性を言いたてる際にしばしば言及される対象である。虹は何色か? 答えはその問いの発せられる文脈によって二色であり、五色であり、また七色であるだろう。ではその捉え難い虹がなぜ「明瞭さ」の比喩足りうるのか。答えは明白だ。それが「私」の中にしか生起しないものである事をしめすための比喩だからだ。「私」にとってのみ「明瞭な幻影」こそ「私」の興味を引くものなのだ。「彼の女」の「舒述」によって「私」自身の欲望に捉えられた「私」は、「彼の女」の次の誘惑にあっさりと乗ってしまうだろう。

人間よりも鬼魅を好み、現実よりも幻覚に生きるあなたが、評判の高い公園の魔術を見物せずにはいられないでしょう。たとえいかなる辛辣な呪咀や禁厭を施されても、恋人のあなたと一緒に見に行くのなら、私も決して惑わされる筈はありません。………

 

しかもその魔術が、「彼の女」にとってすら未見のものであるのならば!

彼ら二人は既に幻想を外から語る存在ではない。幻想の中で現実に生きるものである。そこで「私」は、つい今しがた比喩でしかなかった「虹」をまのあたりにする。

 

二人はいつしか町の中央にある廣工事の、大噴水の滸をさまようていたのでした。噴水の周囲には、牛乳色の大理石の石垣が冠のような圓形を作って、一間毎に立っている女神の像の足下から、泉の水は淙々として溢れ膨らみ、絶えず大空の星を目がけて吹き上げながら、アーク燈の光のうちに虹霓となり雲霧となりつつ、夜の空気に潺湲と咽び泣いているのです。

 

「私」は、水しぶきとアーク燈によって作られた「虹霓」を見ている。虹霓はコウゲイと読み、「にじ」を指す言葉だ。些末に過ぎるという批判を覚悟してあえて問う。さきに、「虹の如く精細」と比喩で現れた「虹」はここでなぜ「虹霓」と書かれなければならないのか?

漢字字典を引けば、虹、霓の両字ともに、一字で「にじ」を示すとでている。虹は雄の「にじ」であり、霓は雌の「にじ」であるという。漢字の祖国たる中国では、想像上のものも含むある種の動物に、雌雄で別に字を与える用語法がある。例えば鴛鴦(おしどり)、蜘蛛、鳳凰、麒麟などが挙げられる。谷崎が既に明治四十三年に『麒麟』という小説を書いていること(その書き出しは「鳳兮。鳳兮。」という論語からの引用である)に鑑みても、虹/虹霓の区別を考えることは、あながち穿ちすぎとも言われまい。

一つの読解としてはこうだ。前者、「虹」は、「私」の内面に対する比喩である。それは「私」という男にとってだけ当てはまる。だから一字で記されなければならない。しかし後者、「虹霓」は、「私」と「彼の女」両者の眼の前に広がる光景として現れる。だから二字を費やさねばならない。「私」の見る光のスペクトルは「虹」つまりオスの虹でなければならず、「彼の女」の見るそれは「霓」でなければならない。よって、ここでは「虹霓」と書かれる「にじ」でなければ、この男女の眼に同じく映る、実際に存在する「にじ」として描かれたことにはならない。

しかし、語り手「私」と読者の関係から見ると、別の読解が浮かび上がる。「私」はここで、読者に対して一種の踏み絵を課したのだ、という読みである。どういうことか。

ここで「私」は、一つの情景を描写している。廣小路から噴水へクローズアップし、牛乳色の石垣が大理石であることが分かるまで近づいたのち、女神の足「下」で水が溢れ膨らむ様すら捉えうるスローモーションでしぶきが吹き「上」がり、大空の星に重なった水しぶきはアーク燈に照らされて虹霓になる。

この一つのカメラで連続してとったような描写を読むとき、読者は「虹霓」を二語として読むだろうか。おそらくそうではない。夜の空に一つのにじが架かる情景こそ、彼らの見たものだったろう。ここから顧みるに、「私」の狡猾な口ぶりが透けて見える。「私」は光源の数を特定しなかった。単にさりげなく、「アーク燈」とだけ言ったのだ。読者はここで、二字で書かれた一語、つまり一つの対象を指す一つの記号として、二字を読まされる。

「私」がしかけた踏み絵とはいまや明白である。「舒述」によって齎される幻想につくか、それとも「舒述」そのものにつくか。それをこの語り手、「私」は問うているのだ。

この踏み絵を踏んでしまった、つまり、「虹霓」を一つの「にじ」と読んでしまった、思い浮かべてしまったものは、ここからある態度を取らねばならなくなる。つまり、二字を一語に総合する、という立場である。読者の読みを分析よりも総合をする立場においてしまえば、どのような奇想も、一つの完結した世界として読者の「心の壁」に映しだすことができる。決してつながりえない物を、読者の脳裏において連続させること。このことこそ、谷崎が読者に仕向けた、読むという暴力、ひとつの犯罪なのだ。

この小説において、字義よりも作品の場面のイメージを優先させるような読みを招きいれるのは理由のないことではない。野崎歓によって指摘されるように、大正期の谷崎が映画に傾倒し、映画製作にも乗り出していたことは周知の事実である。作品中にも、「彼の女」に対して「私」は「いとしいお前よりも尚大好きな活動写真」といい放つ。そしてその活動写真よりなお危険な魔術を二人は見に行くのである。

冒頭から、魔術や妖しい公園のイメージを予告してしまったこの作品にとって、読まれるか否かはその映画的イメージと魔術の強度に賭けられている。魔術がいかに強度を保ちうるかについては後に論じるが、ここまで見てきた読者への手引きは、作品に映画的イメージを招きいれても破綻をきたさないための手続きであったといえる。ここで、映画的イメージとは、谷崎の芸術観における美の源泉としての異国インドや、ヨーロッパや、中国などに直接つながるようなイメージを指している。たとえば、谷崎は大正四年の『独探』で既に次のように書きつけていた。

 

私は欧羅巴の風俗に関するG氏の説明を聞きながら、西洋物の写真を見るのが何より好きになってしまった。(中略)而もフィルムの上に現れた夢の世界は其の実夢でも何でもない。(中略)此のフィルムが現像される欧洲の国土へ行けば、夢の世界は立派な現実の光景と化して展開されて居るのである。(中略)映畫の中に浮かび出た、さながら此の世のものとしも想われない貴い建築や天女の群が、実際其処の空に聳え、そこに動いて居るのである。其処には活きた詩がある。活きた絵畫、音楽がある。

 

だが一般に書き言葉に可能なのは、名前を書きつけることだけだ。例えば、『魔術師』の中で「ピサの斜塔」などと書きつけたとしても、映画にはかなわない。だからこそ、ここで描かれているのはピサの斜塔そのものではない、「ピサの斜塔を更に傾けた突飛な櫓」として描かれる。

言葉の対象を利用しながらその対象を排除するということが、作品に映画的イメージを招きいれるためだった、と述べたが、しかし、この方法は繰り返すことはできない。なぜなら、この方法は、言葉と対象の結びつきが有効である場合においてのみ可能だからだ。言葉と対象が一致しているからこそ、別の対象に結びつけられた時、逆説的に、読者は映画を見るように言葉を読むことができるのだ。

この物語は、「二人の恋が勝つか、魔術が勝つか」というせめぎあいの物語だ。ここで二人の恋とは、まさに、言葉と対象が結びいてあることであり、魔術は、その結びつきをほどいてしまうことだ。

映画的イメージに満ちた道中はだから、既存の語義が「私」によって幻として見られることによって、壊れていく過程である。たどり着いた魔術小屋の周辺が道中の賑やかさに比べて死を思わせるような雰囲気を有するのは、言葉の意味を破壊した先にあるからだ。「私」は結局、魔術に負けるだろう。新奇なもの、美しいものは、必ず未知なものでなければならない。「私」は、魔術師の行う「人身変形法」にその身を投げ出す。魔術の強度とは、もはや言葉が何の対象も持たないが故に、何が起きても全く不思議ではないことだ。「私」は未だ書かれぬ文字である。「彼の女」という軛を振り棄て、新たな意味、彼自身が望んだ未知であるところの「魔術師」が与える意味を引き受けて変身しようとする文字だ。

「私」は「彼の女」とともに魔術小屋を目指しながら、文字そのものへと姿を変えた。では「彼の女」は?谷崎の女性が常にそうであるように、「彼の女」もまた、紙面そのもの、谷崎のペンがその身の上を走るのを待つ紙面そのものなのだ。だから、どの様な姿の文字であっても、それが文字である以上、「彼の女」は喜んで受け入れるだろう。

かくして、「お前は初めから、人間などに生れる必要はなかったのだ。」と魔術師に言われながら、半羊神に姿を変える「私」を、「彼の女」もまた半羊神になっておいかけ、「二つの首は離れない」。彼らは永遠に、読まれる直前の文字である。紙の上にしか存在できない文字、文字なしでは何の意味ももたぬ紙。

谷崎は意味そのもの、物語そのものであろうと欲望した。だからこそ紙面の側が彼の言葉を欲望するのだ。それそのものでは何の意味もない紙面、意味そのものにとって不完全な容器でしかない紙面が、書かれることを欲し、谷崎に書けと命令しつづけるだろう、そして谷崎も、自ら喜んでその命令に従いつづけるだろう。

文字数:5229

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