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家族の欲望

 

 

1.

テレビアニメや、テレビドラマの劇場版=映画が製作されるという現象は、コンテンツ産業の経済合理性という面から説明できる。映画批評家の三浦哲哉は、著書『サスペンス映画史』の中で、映画における「ジャンル」について以下のような指摘をしている。

 

「ジャンル」は曖昧で多義的な語であるが、(中略)実際にフィルムが製作され興行され受容される局面で問題になるのは、観客の期待を前もって方向づける機能である。

『サスペンス映画史』p133~134

 

この指摘に従うとき、作品があらかじめ、「ホラー」「サスペンス」というように自ら「ジャンル」を名乗ることは、その作品が観客に与える体験の種類を宣言することを意図しているということになる。この状況は現在ではさらに進展しており、作品はむしろ、前もって方向づけられた観客の期待に奉仕するという転倒を起こしている。新しい体験をもたらす作品があり、観客の期待とのマッチングミスによる不幸を減らすというジャンル分けの本来の機能は陳腐化し、むしろ作品を規定するように機能してしまっている。

その最たる例と言えるのが、「テレビシリーズの劇場版」である。テレビドラマであれ、テレビアニメであれ、テレビで支持をえたコンテンツを映画に移動させることで、収益を上げるというビジネスモデルによって生まれた作品だが、このとき、あるコンテンツは、「ジャンル」的に機能している。たとえば、「ドラえもん」の映画は「ドラえもん的体験」を観客に期待させるジャンルなのである。

そのようなジャンルである「劇場版」を支えているのは、2つの要請である。一方で、原作との連続性があること。他方では、テレビシリーズでは描けないような、「劇」的なものであること。この二つの要請は必然として、作品に陳腐な意味での「サスペンス」的な要素を持たせる。まず、テレビ版において描かれた世界が、「日常として」呈示されること。次にその「日常」を脅かす「外部」と接触すること。そのせめぎ合いの結果、「日常」が守られ「外部」が去る。観客のお気に入りの世界は、壊される危険に近づき、無事に帰還する。つまり「劇場版」というジャンルにおいては、サスペンスは原作世界の日常を補強するためにだけ機能するのだ。

 

ところで、子供向けテレビアニメの劇場版映画作品は、商品として優秀である。その映画を欲望する子供の来場は、親の引率を伴うことが期待できるからだ。つまり、商品戦略上、『テレビシリーズ』の劇場版は、2つの顧客に奉仕せねばならない。本来の顧客である子供と、子供が連れてくる親すなわち大人、である。「劇場版子供アニメ」は、子供と大人の欲望に奉仕せねばならない。そして人間とは、みな子供か大人である。「劇場版」というジャンルは、定義上、すべての人間の欲望に奉仕する「商品」であるよう求められてしまう。だが、そんなことは可能なのだろうか?

 

2.

「劇場版」という商品は2種類の観客を相手にしている。片方は子供=ファンであり、もう一方はブラックボックスとしての大人=保護者である。保護者がチケットを買うとすれば、それは作品を見るためではない。子供のそばにいるため、保護者であるためである。そもそも作品を見ることが目的ではない保護者に対して、どのような体験が提供できるのかが、「劇場版」としての優劣である。

すぐれて「劇場版」的である映画として、2001年4月21日に公開された『クレヨンしんちゃん』の劇場版第9作、『クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(以下『オトナ帝国』と略す)を取り上げたい。

この作品の筋立てはこうである。

主人公しんのすけの一家が住む「かすかべ」の郊外に「20世紀博」なるテーマパークが出来た。そこは、古き良き懐かしの日本に対するノスタルジーを刺激する仕掛けが満ちていて、大人たちは子供そっちのけでそのテーマパークに夢中になる。じつはこのテーマパークは悪の組織「イエスタディ・ワンスモア」の拠点である。組織のリーダー、ケンと、その恋人チャコの目的は21世紀を終わらせ、もう一度20世紀を取り戻すこと。大人たちは自らの子供時代懐かしさに、組織の策略に嵌ってしまう。しんのすけの両親、ひろしとみさえも例外ではなかった。次の標的はしんのすけを始めとする子供たち。組織の手下となってしまった大人たちが、しんのすけたちを捉えにくる。果たして、しんのすけ達はどうなってしまうのか。

このようにまとめると、前章でも述べた商品ジャンルとしての「劇場版」が要請するストーリー定型にかなり近しいことがわかるだろう。結末においてもテレビシリーズの主人公が敗北することはない。20世紀は復活しないし、しんのすけは大人に負けないし、ひろしとみさえは正気に戻る。それが「劇場版」としての当然の帰結である。しかし、『オトナ帝国』においては、「劇場版」であることを徹底するあまり、子供向けの「クレヨンしんちゃん」としても、保護者を満足させる「商品」としても、危うい。

 

3.

作中、家事や仕事を放棄した父と母に向けてしんのすけは、「父ちゃんも母ちゃんも何かへんだゾ!いつもみたいにしろ!ごはんつくれ!歯みがけ!顔あらえ!服きがえろ!ヒゲそれ!会社いけ!」と声をあらげる。これはテレビ版ではしんのすけに向かって言われる言葉であって、父と母が大人であることを放棄したことによって、しんのすけはテレビシリーズと同じような振舞いは許されず、大人と子供の立場は逆になってしまう。しんのすけにとって、父ひろしと母みさえは「しんのすけであること」の条件である。その条件が崩れてしまったとき、彼がなお「しんのすけであること」を続けるならば、彼自身の振舞に、父ひろしや母みさえを再現しなければならない。テレビシリーズでは、「しんのすけ」は日常を攪乱する側にいる。両親や幼稚園の先生、大人の都合を骨抜きにするのがテレビシリーズで作りあげてきた「クレヨンしんちゃんであること」である。権威、秩序、習慣といったものを体現する大人たちの存在が必要なのだ。「劇場版」であるために主人公しんのすけは彼の同一性を保たねばならないが、彼の同一性が依存しているもの=大人たちが、彼以外のもの=「イエスタディ・ワンスモア」によって破壊されてしまっているために、

まずしんのすけは大人としてふるまわねばならない。「クレヨンしんちゃんである」という要請は、この映画の筋立てでは応えられることはない。

 

4.

評論家の岡田斗司男は、NHKのテレビ番組「BSアニメ夜話」の中で『オトナ帝国』について「しんのすけの父、ひろしの夢は、「イエスタディ・ワンスモア」と「しんのすけ」に半分ずつ仮託されている」と述べている。これはいかなることか?そもそも、ひろしの「夢」とはなんなのか。

これを考察するには、作中で20世紀とはどのような時代だったと語られているかについて指摘する必要がある。悪役組織のリーダー、ケンに、「20世紀は貧しかったが、未来を信じることができた、こころがあった」という意味の台詞がある。また、子供時代のひろしが万博を訪れているシーンで、「月の石が見たい。ただの石じゃない。アポロが取ってきた石だ」というシーンがある。ひろしによる月の石への言及は、作中で何度かなされるが、それは果たされない。

夢とは、ただの石を、アポロが取ってきた月の石だと信じることができることである。それは、「未来を信じることができた」、というケンの言葉ともつながる。

しかし、現実には、大人になってしまったひろしには、未知を信じる体力は残されていない。彼が希望を感じるためには、無知だった子供のころの自分に戻らねばならない。しかしそれは現実には不可能である。ひろしにとっての現実とは、「月の石を見ることができなかった」という原体験の上に重ねられてきた過去なのだ。

もしも月の石を見ることができたら、そこから歴史を書き換えることができれば、という葛藤がひろしを苛んでいる。そして、歴史を書き換えるということは、しんのすけがいない世界、みさえに出会わなかった世界を肯定するということなのだ。観客は、自らの過去、やりなおせるならばやりなおしたい過去、やりなおしたら存在しない自分の子供とともに、スクリーンを見ている。

 

5.

映画のラストで、しんのすけは、悪役ケンとおいかけっこをする。アニメによる長回しの間、アニメーションの中のしんのすけの輪郭は、ぼろぼろにくずれていく。つくられた身体としての絵姿は、自らが生まれた歴史を消そうとするケン=大人に追いすがりつつ、解けていく。

観客は、その姿に、自らの歴史と、こうあれかしというパラレルワールドを重ねながら、応援すべきかいなか、最後まで決定できない。

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