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間にカメラを挟むこと

コンテンツとは、あるさまざまな形をとった情報の塊と、ある受容者が遭遇することによって生起するが、それは受容者の内にではない。受容者の身体はある情報に触れている間、情報を記録するプラットフォームの役割をする。その情報の記録が終わった後から、体感された記憶に対して、一種の省察がなされた時に、事後的にコンテンツのようなものがたちあがってくる。つまり受容者が、「自分が見たものはなんだったのか?」という問いを立てたとき、体験に対してあとからつけられた仮説がコンテンツなのだ。時間的には体験の後、位相的には受容者の外部としての言語の上に生まれるのである。

であってみれば、「自分が見たものはなんだったのか?」という受容者からの問いなしには、あるコンテンツを生起させる可能性を持つ情報の塊を評価すること自体が成立しなくなる。だから、我々は受容者である場合、できるなら問わねばならない。「私はなにをみたのか?」と。しかし、私を問う、ということは難しい。

「もうすぐ誰もが通訳を必要とする。自分を理解するために」

これはゴダールがその最新作『さらば、愛の言葉よ』の終わりちかくで登場させる言葉である。自分についての言葉を自分の外に位置付けること、その困難はどこからくるのか?

四方田犬彦は『ユリイカ』2015年1月号の特集『ゴダール2015』に寄せた論考、「ドッグ・スター・マン」の中で、ゴダールの長編最新作『Adeiu au langage』のタイトルを次のように分析している。

 

Adieu au langage という原題を読み解いてみると、文法的な意味での「韻」を踏んでいることがわかる。A Dieu / au langage、つまり「神様に、言語に」である。Adieu というのは(中略)中世では「こんにちは」でも「おかげさま」でもあり、要するに広義でいう挨拶言葉であった。だから「さらば、言語」と「こんにちは、言語」という二重の意味を原題に読みとらなければならない。ちょうど3D画面が左右二つの、わずかにズレた映像から構成されているように。

 

ここで問題にされているのは、タイトルによって予め告げられた、この作品の「二重性」であり、それはこの作品を考える上で重要な問題ではあるだろう。しかし、まず我々が問うべきなのは、四方田が自明につかっている「映像」や、「画面」といった語彙そのものの二重性である。二重であるというのは比喩や文学的修辞ではなく、現在の環境では大きくわけて二つの状況を指し示しているということだ。

第一には、投影された光が、スクリーンなどに視覚的な効果を及ぼしている場合だ。映画館で映画を見る、といった時、観客はこの意味で映画を体験している。プロジェクションマッピングもこの範囲に入るだろう。第二には、液晶やテレビ受像器など、それ自体が発光体でもあるようなものが表示した光を目に入れる場合。テレビを見る、スマートフォンやパソコンを見るとき、我々はこの意味で視覚的な刺激に晒されている。この第一の場合を、ここでは仮に「遮像系」(しゃぞう)と呼び、第二の場合は「顕像系」(けんぞう)と呼んでみる。

このように映像という語の指し示す対象を二つに分けることは、そのうちの片方を「映画」的といい、残りを「非映画」的であるという短絡を意味しない。受容者に異なる体験をもたらす(はずの)二つの状況を、映像という言葉で一括りにしてしまう前に、それぞれ検討してみるためのことである。受容者の体験そのものを描くための言葉を定義しなければ、コンテンツについて語ることはおぼつかない。ここで目指されているのは、体験そのものを描写するのに使わざるをえない言葉(ここでは、映像)を更新することによって、体験についての言葉(コンテンツ)のための場所を作るということである。

 

「遮像系」の場合、受容者は必ず反射した光を受け取る。彼が見ているのは壁である。光源は受容者の背後にある。一方「顕像系」の場合、それは像そのものとしての光に受容者は向き合うことになる。この違いは、ほとんど馬鹿げて単純だが、スクリーンが介在するか否かである。その違いは大きい。スクリーンに映し出される映像は、受容者の身体の介在を許さない。もしスクリーンに触れようとすれば、受容者の影が写り込んでしまい、受容者の視覚的体験じたいが壊れる。「遮像系」イメージは、受容者と空間を同じくしながら、受容者の身体を拒否し、受け入れるのは視線だけである。スクリーンのある暗闇に受容者の身体は溶けだし、視線だけが取り残されるような体験を強制するのが「遮像系」である。

一方、「顕像系」の場合、イメージは受容者とは別の身体を持つ。つまり発光するディスプレイのことである。受容者と別の身体を持ちながら目の前にある像だ。この体験は、光源に接触可能であり、また接触を惹起するような光の刺激を通して、受容者の身体を補強する。

この二つの体験について「映像」という一つの言葉を使うことは、人が視覚体験をする状況が多様である今日において、もはや実効性を失っている。「映画的」なコンテンツとは、ある時期まで、身体が暗闇に解けだすような体験、ここでは「遮像系」視覚体験を前提にしていたが、2015年現在、見ることが受容者の身体の輪郭を補強するような「顕像系」視覚体験も想定した上で定義されなければならない。

先に触れたゴダール『さらば、愛の言語よ』では、光の刺激をある形として認識するという、受容者が自動的に行ってしまう行為を自覚させるような編集が行われている。特に注目すべきは、既存の映画からの引用が、ディスプレイをカメラで撮るという方法によってなされている、という点だ。これは上映された際、字幕がスクリーンレベルにあるのに対し、はめ込まれた画面がスクリーンより深い位置に像を結ぶこと、そのディスプレイに映像以外のなにかが映り込んでいることからわかるが、このことが示すのは、撮影時、撮影者とディスプレイの間にカメラが挟まれていたということだろう。なぜ?

ここで、この映画の主役ともいえる犬について考えてみる。この作品では人間には世界が見えない。動物をとおさねばならない。という言葉が登場する。世界を見るとはどういうことか?

フィルムに焼かれた光景は、現在ある完成したフィルムに対して端的に過去である。その過去を現在見ることを、受容者から切り離すには、中間項がなければならない。それはフィルムであり、犬であり、言葉である。「映画的」とは、過去を過去として認識すること、ディスプレイと受容者の間に、カメラを挟みこむことなのだ。

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