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言葉に使われないために 

はじめに

今回の論考では、日本語学者今野真二氏の仕事を扱い、言葉に回収されない氏の読みの態度を、昭和の引力から逃れるための方法として検討する。

紹介する事象は今野氏の著作で取り上げられていることもあれば、今野氏の著作に触発され、筆者が自ら調べたこともある。この論考の責任は筆者にあり、筆者の非力さによって今野氏に害を及ぼすことがないように祈っている。

今野氏には

岩波新書「百年前の日本語――書き言葉が揺れた時代」

岩波新書「日本語の考古学」

ちくま新書「日本語の近代――はずされた漢語」

ちくまプリマー新書「漢字からみた日本語の歴史」

中公新書「かなづかいの歴史 日本語を書くということ」

集英社新書「振仮名(ふりがな)の歴史(れきし)」

などの著作がある。

 

・五十音図から考える

 

五十音図をご存じだろうか。

ひらがな(カタカナ)が、あ(ア)行から、わ(ワ)行まで、5文字ずつ10行並んでいる図である。この文を読めている方ならば、おそらくどこかで目にしたことがあるはずだ。

では、その見慣れた五十音図がいつ、どのように作られたかご存じの方はどれほどおられるだろう。

早速その答えをいってしまえば、私たちが馴染んでいる五十音図が初めて登場したのは、1900年8月21日に公布された「小学校令施行規則」の第一章「教科及び編制」の第一節「教則」の第十六条の中で、である。その条文を見てみよう。

第十六条 小学校ニ於テ教授ニ用フル仮名及其ノ字体ハ第一号表ニ、字音仮名遣ハ第二号表下欄ニ依リ又漢字ハ成ルヘク其ノ数ヲ節減シテ応用広モノヲ選フヘシ

wikisourceから引用)

 

今引用した条文中の、第一号表と呼ばれる表が、現在我々が五十音図と呼ぶものだ。明治政府が、小学生への授業に使用してよい文字を指定した際に生まれたものなのだ。ちなみに、1900年の第三次「小学校令」の定める教育体系の中には初等教育の無償化も含まれており、この年を境に小学校の就学率は飛躍的に上昇した。1902年には90パーセントを超え、1909年には98パーセントとなる。

五十音図の設定、また100パーセントに近い就学率。このことは、日本語にとって決定的な変化だった。

 

なぜ決定的かというと、それ以前の日本語の表音文字(ひらがな、カタカナ)は、音と字の対応が一対多であったところを、一対一の対応を持つものとして子供に刷り込むことになったからだ。

つまり、これ以前の日本語では、例えば<あ>という音をあらわすのに、「安」を崩した「あ」という字の他に、「阿」「愛」「亜」「悪」を崩した文字が使われていた。ある音を文字として記すのにどの仮名を選ぶかということは、慣習的な偏りがあるにしても、使用者自身の選択に依っていた。これを、第三次「小学校令」以降 <あ>という音なら、「安」を崩した文字であるところの「あ」のみを教えることになる。

このことは、ただ、書くのが容易になった、という変化ではなかった。日本語が、言語としてのあり方を変えたということだったはずだ。なぜか。

日本語における表音文字はその出自を漢字に持っている。漢字を崩して形を単純にし、同時に漢字の持つ意味を奪い、音だけを残して使ったものが仮名、と言われる。日本語という言語を使う者は、大陸からの輸入品である漢字を、表語的にも、表音的にも使うことで、筆記の用を足していたわけである。

だから、日本語は、それを書くという行為そのものの中に、漢字の向こうに透ける中国への態度表明が含まれてしまうような言語だった。それがよいことかどうかはひとまず問わない。ともかく、使用者がどういう意識かは関係なく、日本語を書くということは、中国からやってきた文字に間借りすることなしにはありえなかったし、自ら書くたびに、それを思い出さなければならなかったのだ。

この法令がしたことは、仮名文字と口で喋る日本語を、間に挟まっていた文字の出自を飛び越して、直接結びつけることだった。日本人は日本語のための表音文字を子供の頭の中に作りだした。この教育を受けた1900年以降の小学生、つまり以後の時代に大人であるような人間の頭の中には、ひらがなはまるで自らの言葉を直接記すことができるような、母語ならぬ母字として場をもつことになったのだ。

もちろん、古事記の昔から現代にいたるまで、日本語の書き言葉は多くの人の使用の中で姿を変え続けてきている。しかし、それでもこの1900年という年が日本語にとって特別であるのは、この年に日本語に起きた変化が、言語と使用者の関係の中からではなく、社会制度や法という別のレベルからの強制によって起きたということである。1895年の日清戦争によって、日本人にとっての中国の特権性が減じたことが、あるいは影響しているかもしれない。

ともかく、1900年以降に生きている日本人は、公的に操作された日本語を刷り込まれるという教育を受けていることになる。我々が習った書き言葉は、今もこの1900年の延長にあると言っていいだろう。

 

  • 昭和とは、そして、今野氏の仕事の可能性

 

すでにお気づきかもしれないが、筆者は、昭和とは、1900年以後の日本語を教わった子供が作った時代であると考えている。日清戦争の年に生まれた子供が、1900年の小学校無料化によって、同じ国語を学ぶ。しかもその国語は、耳で聞けば、そこにどのような文字が書いてあるか分るような、新しい日本語である。

このような状況は、日本という国にとって、中国からの自立という長年の悲願の実現だった。表音文字の獲得ということは、日本が中国を乗り越え、中華圏から離脱した証だったのだ。書き言葉として考えた時、どちらが豊かであるかはわからないが、とりあえずその当時の日本人にとって、ある種の開放感のようなものは与えたのかもしれない。

この後の歴史の流れを、日清戦争後の明治政府による言語矯正との関係で眺めるとき、たとえば2.26事件も、神風も、いまにいたるまでの戦後の流れも、なんとなく頷けてしまうのだ。いまこうしてパソコンに向かって文字を打ち込む便利さすら、表音文字を持つ言語が求めるような便利さで、筆者自身がそうしたいと望んでいるのではないというような気がする。

前章で、我々が使っている日本語は、1900年の法令によって、暴力的に影響を受けた以後の日本語であるということを述べたのは、我々が思考する際に使う日本語という言葉もまた、けして過去や誰かの思惑つまり歴史と無関係だと言えるようなものではないということを確認するためである。そして、気をつけなければ、そのような言語の枠組みのなかで、我々という個人は物事を考えてしまうだろうとの危惧を共有するためである。

 

我々と同じ時代に生きながら、歴史の転換点となる1900年を指摘し得た今野氏の仕事は、昭和を終わらせるとまではいかなくとも、少なくとも昭和を定義づける=終わらせる助けになる可能性を持っている。最後に、氏の方法を概観してみたい。

今野氏の仕事は、モノとしての本、ページを丁寧に見ることから始まる。表記はどうなっているか、ある言葉が漢字なのかひらがななのか、振り仮名はどうか、そういった細かい事実を積み上げつつ、もう少しまとまった事実を推測していく。たとえば、ある作者は表記にこういう癖がある。日本語に英語が入ってくる際に、華英辞書が助けになっている…。このようにひとつひとつの言葉や文字のふるまいを眺めながら、歴史を引き出していく。氏の仕事にかかると、文字は声を失う。

それはおそらく原理的に正しい姿、字がある力を纏って言葉になってしまう前の姿に戻っていく過程である。

個人が文字を読む仕方は、それ自体が歴史的な産物でもある。言葉がある仕方で読まれようとすることに抗う方法を知らなければ、どのような事物も言葉に回収されてしまうだろう。今野氏の仕事は、昭和を生んだ1900年以降の日本語の書き言葉の呪力から、確実に距離を取っている。

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