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批評家、東浩紀は、「批評の再生」のための教育的事業「批評再生塾」を開講するにあたり、さしあたって二つのことをしたといえる。ひとつには、主任講師として批評家佐々木敦を招聘すること。もうひとつは、この時代、2015年から25年という10年間に、「昭和90年代」という名づけを行うこと、である。批評家が時代に対し、ある「名前」を与えること。そしてそれに伴い「批評の再生」を謳った事業を始めること。このことの意味への思考がなければ、「塾生」の存在意義は無に帰してしまうだろう。

 

したがって、「批評再生塾塾生」たるものが課せられているのは、ひとつには、「昭和90年代」の指し示す内容を定義することである。そしてその定義の中には、なぜ「批評の再生」が求められるのかについての明確な応答がなければならない。しかしそれだけでは十分ではない。この表明は、パフォーマティブに行われるのではなく、あくまで「批評再生とは、しかじかのものである」と、テキストとして提出されねばならない。このことは、批評再生塾の主任講師が、佐々木敦である、という点にかかわる。佐々木敦は、批評再生塾開講の前年まで、映画美学校において「批評家養成ギブス」の主任講師をしていたが、その概要文で次のように述べている。

 

批評とは、まず第一に「世界」に対する感応と、そこから開始される思考と、それを外へと開いてゆくための方法のことだ。膨大な事象と情報の交錯の中から、自分にとって価値と意味のある何かを発見し、それらと自分自身の間で何が起きているのかを考え抜き、そしてその考え自体を他者へと伝達可能なものへと変換する技術、それが批評である。批評とは何よりもまず言葉によるものだが、批評力の訓練の効用は文筆の範疇のみには留まらない。

 

ここで佐々木は、「批評」について、「何よりもまず言葉による」と前置きしつつ、「文筆の範疇のみには留まらない」と、批評文を書くことによって養成される、批評的な「態度」をこそ重視しているが、批評再生塾の開講宣言文においては、

 

批評という営み/試みの定義は一通りではないが、いずれにせよ、それは「~についての言説」である。

 

と述べ、「言説」である点を前景化させている。批評的であることの定義についての、佐々木敦の態度変更の意味をつかみ取るためには、書き付けられた「言説」の形で「批評再生」の定義を行い、それを「書く」という体験自体を「読み」解きながらまた「書く」という循環運動の中に、身と精神をともに投じなければならない。その結果として、「昭和90年代」の内容を明示し、そしてそれを「批評」=「読みの言説化」を試みた痕跡を残し、「批評再生塾」の「外に出る」こと。この批評の目的はここにある。

 

まとめよう。「批評再生塾」の「最終課題」に対する応答としての当批評は、次のような意図で書かれる。

 

1.「昭和90年代」の内容を示し、その内容と「批評再生」の関係を明らかにすること。

2.自ら指し示した内容を読解すること。

3.「書く」ことによって「昭和90年代」の「外」にでること。

 

 

 

1‐1.批評と言語

さしあたって問題になるのは、「昭和90年代」という同時代への名づけについてどう考えればいいか、ということである。この名づけの意味を言語化するには、「名づける」という行為一般についての思考を経由する必要がある。かつて、批評家ベンヤミンは、「複製技術時代の芸術作品」(初稿1935)を書くことによって、彼の時代を、彼のテクストの名に含まれた名で呼んだ。このテクストの内在的な読解はいったん措き、彼の時代の新しい「芸術」と、その芸術の生息している「時代」の関係を、どちらが「主」で、どちらが「従」かという点にとらわれず、どちらをも「名づけ」の対象として語りえている、という点を指摘しておくにとどめる。「芸術」の側から「時代」を考えるのでも、「時代」の側から「芸術」を考えるのでもない、ということだ。言い換えれば、常に、時代と芸術の「関係」をつむぎだすような視点から書くことに成功していた、ということである。

だが、書かれた「名」としての言葉は常に一つの対象を名指してしまう。ある二つの互いに関係する事柄に対して、主従を問わない視点をベンヤミンが持っていた、ということを、ある事柄、――「芸術」について、「時代」についての―に対して与えられた文章から証拠立てることはできない。結局、文章は順序の中で一語ずつ書かれるしかない。だが、「関係」への視点の存在を読み取ることができる文章が存在しないわけではない。彼がその二つの事柄の「関係自体」を記述する可能性にたどりつきながら、それを果たさなかった「分析者=人間」たちへの(不満の)言葉という形で現れている。

 

歴史の広大な時空のなかでは、人間集団の存在様式が相対的に変化するのにともなって、人間の知覚のあり方もまた変化する。人間の知覚が組織されるあり方――知覚を生じさせる媒体(Medium〔メディア〕)は、自然の条件のみならず、歴史的な条件にも制約されている。(中略)ヴィーン派の学者たち、リーグルとヴィックホフは、この芸術から、それが栄えていた、時代の知覚がどう組織されていたか推論することを思いついた、最初の人びとであった。(中略)この研究者たちは、後期ローマ時代の知覚に特有の形式的な特徴を指摘するだけで満足してしまったのである。この知覚の変化に表現されていた、社会的な大変動を明らかにすることを彼らは試みなかったし、またそんなことはできないと思っていたのかもしれない。(筑摩書房『ベンヤミンコレクションⅠ』所収「複製技術時代の芸術作品」 )

 

ここで、「人びと」への言及があるのは、たんに不徹底を批判するためではない。ベンヤミンが、言葉を扱う「人びと」に対して、ある仕事を期待していたからだ。そのことは、彼の初期の論考「言語一般および人間の言語について」(1916成立、以下、「言語一般および」と略す)に見える言語観を参照することで説明することができる。

 

1‐2

ベンヤミンの言語観、そしてその言語における人間の役割とは、どのようなものだろうか。「言語一般および」から、ベンヤミンの言語の定義を引用する。

 

(前略)言語とは、(中略)精神的内容の伝達を目指す原理を意味している。(中略)生ある自然のうちにも生なき自然の中にも、ある一定の仕方で言語に関与していない出来事や事物は存在しない。

 

さらにベンヤミンは、言語とは純粋な媒介であるという。媒介とはどういうことだろうか。ここで、「伝達は、言語によってではなく、言語においてなされる」、という、「言語一般および」にあるベンヤミン自身の別の言葉を参照してみる。「よって」と「おいて」にはどのような違いがあるのか。

「よって」の場合には、言語が伝達するのは、言語以外のなにかに結び付けられた対象だということになる。つまり、言語に「よって」という伝達の場合には、言語の媒介の外側にあるなにかが伝達されるということだ。この「よって」的伝達の不毛さは、『ガリバー旅行記』の学者島での会話を思い出せば理解しやすいかもしれない。『ガリバー』の学者島では、「ある石」について伝達するために、その「石」そのものを持ってこなければ会話が成立しないことになっている。石という記号だけでは、「石」そのものを共有することができないからである。もちろん、『ガリバー』では、その学者的厳密さを風刺しているのだが。

 

それに対して、「言語において」の伝達ではどのようなことがいえるのか。言語に「おいて」といった場合に、言語はなにか伝達せねばならない対象は持たない。にもかかわらず、言語に「おいて」、伝達は生起してしまうものなのだ。

つまり、言語に「おいて」の伝達とは、発信者にとっての「伝えるべき対象」は存在せず、しかしその「媒介」を受け取ったものは、その「媒介」についてなんらかの知覚が発生する、その現象全体が「言語」であるというのである。

 

言語を、「ある媒介における精神的な現象」と定義した上で、さらに、ベンヤミンは言語を三つに分割する。人間の言語、事物の言語、そして神の言語である。ベンヤミンは、旧約聖書の万物創世に依りながら、その3分割の根拠と、それぞれの言語の特質を見ていく。

 

人間の言語については、この論考の趣旨、「批評」行為に密接に関係するため後述することにし、まず「神の言語」と「事物の言語」についてみてみよう。

神の言語は、創造し、同時に認識する性質を持っているものである。

「光あれと神は言った。すると光は生まれた。神はそれを見てよしとされた」

神がその名を呼ぶと、呼ばれたところのものが存在し、次いで神がそれを呼んだところのものだと認識するリズムをベンヤミンはここに見ている。

神の言語によって創造されるのは、まず事物である。事物の言語とは、神との関係においては、呼びかけられて存在を始めること自体だ。つまり、神と事物の関係内では、事物は神の「言葉=媒介」なしに存在することができない。そして神もまた、呼びかけにこたえ存在を始める事物なしには、それを認識することはできない。つまり、言葉という媒介の上で、神は媒介において創造し、事物は媒介において存在しはじめ、その存在において神は事物を認識する。この順序=リズムが、神の言語である。

 

ベンヤミンが人間の言語についてのべるとき、人間の創造についてだけ、材料が明記されてあることを指摘する。旧約聖書中、人間は土=事物から作られる。そして神は人間に事物を支配させるために、神の言語のうち、認識し、名づける特性を譲り渡したという。

そのような出自を持つ人間の言語は必然的に次のような二つの特性を持つことになる。第一に、神の呼びかけによって生まれた事物から作られたがゆえに、存在していることにおいて、神が彼に呼びかけた言葉において存在しているということ。第二に、事物を認識し、名づける力を、神が人間に譲渡したゆえに、人間は事物に対して名を与えるという現象が起きるということである。

この言語観を見たときに知覚される状況とは、旧約聖書に依拠するベンヤミンの言語観においては、人間は、「事物」という側面と、「人間」という側面に分裂している、ということになる。つまり、人間は、事物=名づけられるべき存在であると同時に、神からの力の譲渡を受けた「人間」として名づけるべき存在であることの分裂である。そして、「神からの権利の譲渡」という「言語=媒介」が神と人間との間にあるために、人間は「名づけ」という行為を行うことで、「神」との間の言語現象を全うするのだ。

しかしベンヤミンは、神から人間へ「名づけの力」が譲渡されたことを言祝いでいたというわけでは決してない。

 

事物は神のなか以外には固有名をもたない。というのは、神は創造する言語において、事物を、むろんその固有名を呼んで生ぜしめたのだから。これに対して、人間たちの言語においては、事物は過剰に命名されている。人間の言語が事物の言語に対してもつ関係の中には、近似的に「過剰命名」と言い表せるものが混じりこんでいる。それはつまり、すべての悲しみの、そして(事物の側から見た)すべての沈黙のきわめて深い言語的原因をなす、過剰命名である。悲しみにあるものの言語的本質としてのこの過剰命名は、言語がもつもうひとつ別の注目すべき関係を指し示している。それは過剰に規定されてあるということであって、話す能力をもつ人間たちの諸言語間の、その悲劇的な関係のなかで支配しているのは、この、過剰に規定されてあるということなのだ。(「言語一般および」より)

 

ここでいわれているのは、事物とはその存在が始まるときにすでに神によって「名」を与えられているので、人間による「名づけ」は、その事物を、その元のあり方から疎外するような、過剰な規定に貶める、ということだ。

この認識において、人間の言語状況がおかれた分裂はさらに苛烈なものとなる。人間は、神に名づけの力を譲渡されているが故に、事物に名づけざるをえない。一方その名づけは、事物には神の呼びかけという真の名がすでに与えられているがゆえに、人間による名づけは必ず事物を過剰命名の状態に陥れる。このような言語に対する認識を持ちながら、なお「名づけ」=批評を行うことは可能だろうか。しかし現にベンヤミンは、「複製技術時代の芸術作品」をこの20年後に書いた。

 

1‐3

前の節で見たのは次の3点である。ベンヤミンの言語観において、「言語」とは、ある「媒介」を共有しているもの同士の精神の中で、なんらかの内容が生じるという現象である、ということ。もうひとつは、人間の「言語」が、事物の側面=名づけられる客体と人間の側面=名づける主体に分裂してしまうということである。そして、人間の「名づけ」は、神によって与えられた固有名をもつ事物に対し、過剰命名となってしまうということだ。こうして迂回を経た目的は、ベンヤミンのテクストにおける目線、「芸術」と「時代」どちらかだけによらず、その「関係」を見る目線は、どのような言語観によっているか、ということを考えるためだった。この言語観を「批評」に結びつけるには、なおもうすこしの迂回が必要である。ベンヤミンは、「芸術」を媒介にしておこる精神現象(つまり、「芸術」の言語ということだが)は、事物言語のカテゴリーに含めている。つまり、「芸術」は、人間の言語のうち、神から譲渡された名づけの言語ではなく神と事物の間で起こっている、呼びかけと存在の精神現象のほうに属するということだ。ところで、ここまで、ベンヤミンの「言語=媒介」説を見てきたが、その媒介されている関係の種類については、神と事物、神と人間、人間と事物という別のカテゴリーしか見てこなかった。

しかし、ベンヤミンは、事物同士の関係についても述べている。

 

彫刻や絵画の言語は、ある種の事物言語と呼べるもののうちに根拠づけられており、これら彫刻や絵画の言語においては、事物の言語の、無限に工事の言語への、といってもおそらくは同じ圏域内にある言語への翻訳が存在している――そう考えることは十分に可能だろう。ここで問題となっているのは、名を欠いた非音響的な言語、物質から成る言語である。その場合、事物のあいだでの伝達においては、事物の物質的共同性がはたらいていると考えられる。

付言すれば、この事物間での伝達は、必ずや、そもそも世界というものを分化せざる全体として包括するような、そういった種類の共同性によるものであるにちがいない。(「言語一般および」)

 

この引用部分において、なぜベンヤミンが、「時代」と「芸術」への「関係」へのまなざしを持ちえたか、という1-1で提起した疑問に答えることができるようになる。「芸術」が事物言語のカテゴリーに属する言語に基づいており、人間もまた事物の側面をもつものであれば、人間は芸術に対し沈黙のうちに言語関係を持ちうる。さらに、事物の言語が、「世界というものを分化せざる全体として包括」する「共同性」を持つならば、それを、「時代」というカテゴリーに敷衍することもまた可能である。

しかし、ここには、「世界というものを分化せざる全体として包括する」というホーリズム的な危険な立場がある。実際、ベンヤミン自身、この論考の末尾を、「一切の高次の言語は低次の言語の翻訳であって、その最高次元において、究極の明澄さにつつまれて、言語の運動の統一性に他ならない神の言葉がみずからを展開するのだ」と、調子の高すぎる一文で締めくくってはいる。

だが時代を下って、「複製技術時代の芸術作品」の頃にはすでに、いかにファシズムに対抗するか、という問題意識が前景化していたベンヤミンは、このホーリズムを避けるにあたって、先には「事物に対する過剰命名」の原因とした、人間の名づけの言語の可能性を見出していたといえないだろうか。人間の名づけはつねに、神の名づけた事物の真の名を言い当てず、事物は悲しみのうちに沈黙しつづけるだろう。しかし人間は、また事物でもあり、その悲しみを分かちもつことができる。そして人間は人間であることによって、ほかの人間が「名づけ」ざるをえないことを知っているのであって、だからこそ、「人間」が行う名づけに対して、その痕跡としてのテクストに対して、また別の「名=言葉」を与える必要がある。当論考において「関係」と呼んだものは、「他の人間がなした名づけ」である。この「他の人間がなした名づけ」への「再命名」こそ、「批評」なのだ。

 

1-4

「批評」とは「他の人間がなした名づけ」行為への「再命名」であるといった。

では、「昭和90年代」という東浩紀の名づけは、何に対しての「再命名」かということを問わなければならない。東は、批評再生塾のゲスト講師回、課題文において、昭和90年代、という名づけの理由について次のように書いている。

 

昭和90年代、というのが今年度の批評再生塾全体を貫くテーマである。なぜ昭和で数えるかといえば、元号こそ平成に変わって27年というものの、ぼくたちはまだ昭和の引力のなかで生きているように思われるからだ。戦後70年のいま、戦後レジームの克服がいまだ政策課題になり続けていることが、いかにぼくたちが深く昭和に囚われ続けているかを証明している。

 

このテクストから、「昭和90年代」という名づけは「平成」という言葉で時代を名づけることの不可能性を示す意図で行われている、ということが言えるだろう。そしてもう一点、注目すべきなのは、「戦後70年」という言葉もまたここでは使われているということだ。「昭和90年」と名指すことによって、「戦後70年」という言い方も避けられている。「平成28年」でもなく、「戦後71年」でもない現在、「昭和90年代」という東氏の名づけはどのように読み解けばよいのだろう。

 

この論考では、「名づけ」にとって重要なのは、それが人間によってなされるものであるという点だ。だから、「平成」という時代への名づけ「戦後」というなづけも、誰か「人間」によってなされたもの、ということでなければならない。では、いったい誰が「平成」と名づけ、また「戦後」と名づけたのか?この問いはあまりにも拙い問いであるといわざるを得ないだろう。すでに人口に膾炙したこれらの言葉の起源を問うたところで、いったい何になるというのか。これらの時代への呼称は、もはや誰の責任においてでもなく、私たちの思考に住み着いているのだ。

 

それでもなお思考を手放さぬためには、まだ東浩紀という個人がみずからの名において行った名づけである「昭和90年代」という6文字にこだわるしかない。「東浩紀がこの時代を昭和90年と名づけた」といったとき、「私人が、時代への名づけに、もともとは公的な言葉であった元号を用いた」ということが指摘できる。ほとんど言いがかりに近い。ディスプレイに映し出されたこの文字を見て、私は苦笑いをしている。しかし、「昭和90年代」という言葉の持っているニュアンスも、大真面目に受け取ることを許さないような一種のユーモアを含んではいないだろうか。2016年2月19日、惜しくも鬼籍に入った小説家・記号学者のウンベルト・エーコは、「喜劇的「自由」のフレーム」の中で次のように述べている。

カーニバルとは違って、ユーモアの方は、われわれをみずからの限界を超えて連れ出そうというようなことはしない。ユーモアは、われわれ自身の限界の構造をわれわれに感じさせてくれるか、あるいは、もっと適切な言い方をすれば、描き出してくれるのである。ユーモアに関しては立ち入り禁止などということはない。それは、内部から限界を破壊するのである。ユーモアは、あり得ないような自由を求めるということはしない。しかし、それでいてそれは、自由を求める運動として本物のものである。ユーモアは、われわれに解放を約束するというようなことはしない。むしろ逆に、それは、今日ではもはや従う理由もなくなってしまった法が存在することをわれわれに想起させ、完全な解放などというものは不可能であるとわれわれに警告する。そうすることによって、ユーモアは法を転覆する。そして法――それはいかなる法の場合も同様である――の下で生きることがいかに不安定なものかをわれわれに感じさせる。

(岩波書店『カーニバル!』所収 ウンベルト・エーコ「喜劇的「自由」のフレーム」)

 

「昭和90年代」という名づけに、エーコのこのユーモアについての言葉を寄り添わせたとき、「法」という言葉という言葉が前景化してくる。「昭和」という時代への名づけもまた、もともとは「法」によってなされたのだった。そして、「昭和」という名づけは、まさに「戦後」より前の「法」を想起させずには置かない。しかし、「法」とはなんであるか?それが単に制度として明文化された「法律」をさすのだ、というわけにはいかない。エーコのいうような「法」、これはいったい何なのか。直接答えることはできない。しかしおそらく「批評」の危機、あるいは「再生」とは、「法」との関係において捉えるべきことがらなのではないだろうか。そして、「法」というポイントにおいて、東浩紀が「戦後」という言葉を避けた理由が見えてくるはずだ。

 

2.法と批評

2-1

1章では、批評と言葉の関係を問うた。ベンヤミンの言語論を経由して得たのは、批評とは「人間の名づけへの再命名である」と定義である。この定義から東浩紀の「昭和90年」という時代への名づけを検討し、「法」について考えなければならない地点に出た。「法」について、一種偏執狂的にこだわった「戦後」知識人が知られている。江藤淳である。 江藤淳は、『一九四六年憲法――その拘束』所収の論考、「「ごっこ」の世界が終わったとき」(昭和45年1月)の中で、こう述べている。江藤の思考、またその思考を統御する論理は、戦後憲法成立の過程を仔細におった論考群よりもむしろ、「「ごっこ」の世界が終わったとき」を見たほうがわかりやすいだろう。

 

いいかえればこの世界は、黙契と共犯の上に成立している世界、あるいは、「鬼ごっこするもの、この指とまれ」という呪文によって喚起された世界である。(文春学藝ライブラリー『一九四六年憲法――その拘束』所収「「ごっこ」の世界が終ったとき」)

 

 

もちろん、ここにいう「この世界」は、「ごっこ」の世界のことである。江藤がこの例えを用いたのは、「現代日本の社会」を論じるためだ。江藤の言葉をもう少し引いてみる。

 

私がこんなことをいいだしたのは、現代日本の社会がこの「ごっこ」の世界によく似ているように感じられてならないからである。実際この社会は、真の経験というものが味わいにくい社会である。どこかに現実から一目盛ずらされているという感覚がひそんでいて、そのもどかしさと、そのための自由さ、身軽さが混在している。たしかに禁忌は緩和されているが、その反面ある黙契があって、なにかに対する共犯関係を強請されているという気分がびまんしている。みんながわれにかえらないために協力しあっているかのようでもあるが、ひとりひとりをとってみると、麻酔の覚めかけに味わう吐き気のようなものを感じはじめていて、いったいこれはどういうことだろうかと思っている。(同上)

 

江藤の「現代日本の社会」つまり、1970年の日本の社会の空気についての認識は、上の引用につきている。ところが、そのことを主題にして論じていく動機を述べるとき、彼の言葉は遠慮勝ちになってしまう。

 

私は国を守る必要がないといっているのではなく、日本は守るに値いしないといってるのでもない。単に自衛隊を日本の軍隊と感じることができないというのである。これはイデオロギーの問題ではなくて、それ以前の心理的な問題である。いいかえれば、私は自衛隊の三軍に自分を同一化(アイデンティファイ)できないのである。(同上)

 

江藤の論考の主題は、「現代日本の社会」である。そして、江藤自身の論考執筆の動機は、「心理的な問題」である。江藤の論考に沿って言えば、「心理的な問題」の意味するところは「真の経験の不可能性」だが、江藤の論考に弱点があるとすれば、個人的な「真の経験の不可能性」の原因を、社会的な環境に求めてしまう点にある。「真の経験の不可能性」が彼の「心理的な問題」である限りにおいて、それを「社会」の問題に転嫁したとしても、「社会」が彼ひとりで構成されているわけでない以上、彼のテクストは彼の「心理的な問題」、「真の経験の不可能性」をかえって補強してしまう結果になるだろう。

この論考の初出は1970年だが、その10年前に江藤自身も、心理的な問題と社会の連絡が失敗していることへの自覚が前提になっていると思われる批判を書いている。「〝戦後″知識人の破産」(1960年11月)で、清水幾太郎の「安保戦争の『不幸な主役』」を統御する論理について、こう書いている。

 

清水氏の主張はこうである。(中略)「われわれの間から何人かの国民代表を選出して、岸首相に面会を求め、(中略)要求を、つきつけて、この要求が容れられるまで坐り込みを続ける、という方法」をとれば、おそらく安保は阻止できたであろう。そういかなかったのは国民会議と共産党がデモ隊を解散してしまったからだ。その結果、「勝利」のちかくにいた反政府側は「きめ手」を失ってしまった。……ところで、私が注目したいのは、これを「きめ手」と考えている清水氏の思考の底にひそむもののことである。ここでは果たして政治は道徳と結びついていないか。(中略)清水氏が行おうとするのは、結局岸氏の寛容と道義心に期待することにすぎない。(中略)首相は警官に命じて「国民代表」をつまみ出すことも可能である。そのような単純な可能性を、清水氏はまったく眼中におかぬままにこれが「きめ手」だと主張する。おかしいではないか。

おそらく清水氏はあたう限り現実的に、政治的に行動しようとしたのであろう。しかし、その行動が極点に達したとき、「きめ手」を決定するのは相手の善意と寛大であった。現実にふれようとする瞬間に、もっとも観念的になっているということを清水氏自身は意識していないが、氏は共産党や国民会議にではなく、ほかならぬ自己の信奉する仮構の限界に敗れたのである。(「〝戦後″知識人の破産」)

 

この江藤自身の批判は、そのまま、彼の「「ごっこ」の世界が終ったとき」にも当てはまる。「「ごっこ」の世界」で江藤は、10年前の清水氏への批判を自らに向けるような身振りを示しつつも、「ごっこ」の世界の終りがどのように現実化するかについては、自らの「心理」を根拠とするのではなくて、外部の社会に向けざるをえない。

 

(前略)私が今日夢想しているような新しい日米関係は、比較的早い機会に成立するかも知れず、それも思ったより容易でさえあるかも知れない。真の自主独立は、案外早期に達成されるかも知れない。

それはいうまでもなく現実の回復であり、われわれの自己同一化の達成である。そのときわれわれは、自分たちの運命をわが手に握りしめ、滅びるのも栄えるのも、これからはすべて自分の意志で引き受けるのだとつぶやいてみせる。それは生き甲斐のある世界であり、公的な仮構を僭称していたわたくしごとの数々が崩れ落ちて、真に共同体に由来する価値が復権し、それに対する反逆もまた可能であるような世界である。われわれはそのときはじめてわれにかえる。そして回復された自分と現実とを見つめる。今やはじめて真の経験が可能になったのである。

(「「ごっこ」の世界がおわったとき」)

 

この二つの段落の短絡。夢想された社会の訪れを予期し、夢想の中で勇ましくつぶやくありかたは、まさに江藤が批判した清水式の精神構造である。ある意味で清水よりも危険であるのは、彼は夢想の中で、なお「同一化」を果たしてしまうことだ。彼が同一化する対象とは、「共同体」である。そして、この「共同体」とは、とりも直さず、「戦前の」日本だった。なぜ江藤が、「戦後憲法」に異常にこだわったのかはこの「共同体」の問題に帰着する。江藤は、「戦前の」日本に対してあまりに同一化してしまったために、その更新としての新しい「法」、それを象徴する「戦後憲法」に対して、拒否反応を起こしてしまったのではないだろうか。

 

江藤は、日本人が最後に「真の経験」つまり、共同体と運命をともにする個人的体験を持ちえたのは、敗戦の瞬間だった、と述べる。しかし、「戦後憲法」に象徴されるような新しい「法」によって、その敗戦を否認してしまったが故に、日本人は「ごっこの世界」で生きるしかなくなったのだという論理展開である。この展開は一つの疑問を惹起せずにはおかないだろう。すべての「共同体」は等しく、「ごっこ」の世界ではなかったか?という疑問だ。彼が「真の経験」と述べる敗戦もまた、ある一つの「ごっこ」の終わりに過ぎない。問われるべきは、それがどのような「ごっこ」だったのか、という点だ。

 

2-2

 

江藤がみずからを同一化していた「共同体」とは、いかなるものだったのか。江藤と同じように、「戦後」日本は「欺瞞」に満ちているといい続けたのは三島由紀夫だった。三島由紀夫についてここで書きとめておきたいのは、彼が、法学部の出身であったということだ。『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集』(徳間書店)末尾の年表によれば、1944年10月に東京帝国大学法学部法律学科に入学とある。1970年の彼の自殺は、法学を勉強したものとしての戦前日本共同体の論理と、人の知覚と精神に訴える芸術の論理を接続しようとした結果なのではないか。

東京帝国大法学部に入学といっても、卒業は戦後であり、昭和20年2月には召集令状を受け取っているので、戦前の法律学を正式に学ぶ時間はなかったはずではある。しかし、勤勉な三島はおそらく、大日本帝国憲法の勉強もしていただろう。前掲書所収の論考『団蔵・芸道・再軍備』の中で三島は述べる。

 

戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒の飯を喰い、死の機会は等分に見舞うところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。

飛躍するようだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであったと思われるのである。

史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握ったのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を握って、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムはそのように経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もっと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に直属せしめるところにあったと思われる。

 

三島由紀夫や、江藤淳の法=共同体の観念は、こういった戦闘集団の論理だった。江藤が憲法の書き換えにこだわったのに対し、三島は、天皇と死とにこだわった。しかし彼らが通底しているのは、結局のところ戦争に負けたのに生きている自分という問題だ。そのことといかに折り合いをつけるか。しかし、明らかになっていないのは、どのように彼ら、戦前の子供たちは戦前の日本に「同一化」したのかという問題だ。参考になるのは、原武史による一連の天皇研究である。原は、『大正天皇』(朝日文庫)の中で、皇太子時代からの裕仁の国民への受容のされ方について

超国家主義が橋川のいうように、究極的には天皇との理念的一体化を目指す思想である以上それを奉ずる人びとが現実の天皇や皇太子の動向に無関心のままでいるというのはあり得ない。(中略)昭和初期に頻発するテロや事件を起こした農村青年や青年将校は、(中略)儀礼空間にしばしば現れた昭和天皇の生身の身体をありありと思い浮かべながら、多かれ少なかれ天皇を「変革のシンボル」とみなして「夾雑物」の排除を目指す傾向があった。(p306)

と述べている。「昭和初期に頻発するテロや事件」を題材とする小説を多数書いた三島においては、天皇の身体、は単なる政治の問題ではなく、芸術の範疇にまでかかわってくる問題だったのだろう。

 

2-3

三島の例を敷衍し、天皇の存在とは、芸術としての政治にかかわってくるということができるだろう。

その事が今なお有効であるのは、元号という制度においてである。「昭和90年」と元号で表記し、今なお、我われは昭和という時代の呪縛の中に生きているのだ、と言った時、もしそのように呼ばれる時間がこの日本に実際に流れるのだとすると、その時、昭和天皇裕仁は、114歳でご存命ということになる。徳冨蘆花(1868~1927)は『みみずのたはこと』中、明治天皇の崩御に際して、「陛下が崩御になれば年号も更る。其れを知らぬではないが、余は明治と云ふ年号は永久につヾくものであるかの様に感じて居た」と述べており、天皇が践祚してからどれくらいの時間が経ったかを示すに過ぎない元号が、ある個人、ここでは徳冨蘆花にとって、累々重なっていく時間の数え方として機能してしまうこととして読める。この「陛下が崩御になれば年号(元号)も更る」という制度は、慶應4年に「一世一元の詔」によって慶應が終わり、明治のはじまりと同時に生まれた。現在は、1979年に施行された「元号法」が法的根拠となっている。それ以前の元号は、天皇の在位期間と必ずしも一致するものではなかったので、天皇の身体の機能が続いていることが、時代の呼称を決定するという制度は、近代天皇制における特徴のひとつといっていい。

そのような元号が機能している現在、昭和90年である、と述べることは、「いまなお昭和的な空気の中で日本人は生きている」という意味以外に、「昭和天皇は、なお存命である」ということに等しい。逆にいえば、「時代としては「昭和」と全く同じ原理で動いているにも関わらず、なおやはり「平成」なのだ、なぜなら、昭和天皇は既にお隠れになっているのだから」ということでもあるだろう。やや混乱してきたが、天皇の身体が機能している、生きているかどうか、ということによって時代の呼称が決まることは、端的に不便なのではないだろうか。

にもかかわらず、なぜ時間の数え方の基準に、特定の一つの身体――つまり、天皇の身体のことだが――が据えられたのかについては、『大正天皇』によって2001年の毎日出版文化賞を受けた原武史が、先に引用した徳冨蘆花のことばを評した次の文言が参考になるだろう。「天皇の生身の身体についての記憶が脳裡から消え去り、天皇がいつしか時間を超越した「現人神」になっていたことを示す証拠ではなかったか」。つまり、重要なのは、無限の時間の表象とされた有限の身体に、神秘化が起きるということなのだ。神秘化された身体が、国家を統制するために必要とされる、という観点については後に述べるが、一方、統治される側の庶民からみた元号制の効果について、劇作家の山崎正和は次のように述べている。

庶民の立場からいうと、元号こそが天皇家と接触できる唯一の機能だった。日ごろ顔はみられないけど、元号ということでつながりをもつわけでしょう。明治何年生れとか昭和二十年に結婚したというようにね。それは日本人の生活にリズムを与える上で大変大きな役割を果してきたと思うんです。意識の底のきわめて深いところで、機械的でない、生命的な時計が時を刻んできたといえる。

文藝春秋誌上シンポジウム「日本人にとって天皇とは何か」       (昭和46年1月号)出席者、山崎正和、福田恆存、林健太郎、司馬遼太郎

山崎が述べたように、明治以降の元号が、被統治者の側から統治者の存在を受け止めさせるに一役買っていたとするなら、元号は天皇の身体の延長として機能していた、ということになる。一方で、無限の時間の記号として天皇の身体を神秘化し、また日常に普通に現れながらも天皇によって支配されているものとして、天皇の表象でもある元号。

元号がそういったものである以上、「昭和90年」という時間軸を持ち出すことは、「昭和天皇」の蘇生、あるいは延命を意味上で含む。そして、その相手が「昭和天皇」である以上、その蘇生は単なる思考実験であるよりはむしろ、昭和天皇という存在を支える身体が、「不死性」とでも呼ぶべき特質をまとわされていたからであるように思われる。昭和21年という時間すら、ある意味では天皇の延命なしにはありえなかったのだから。

 

昭和21年の延命

ある身体にまつわる意味の体系が言葉であるとするなら、敗戦後の憲法改正において、天皇の定義が書き換えられたことは、非常に大きな出来事だったと言わざるをえない。

現実に対してどのように言葉をあてがえば現実を理解したことになり、「現実」という文字を屈託なく書きつけることができるようになるのか、という問いはひとまず遠ざけて、言葉は「現実」という言葉を軸にして、ふたつに分類することができるだろう。つまり、それは現実に関係しようとしている言葉なのか、それとも現実との関係を切断しようとしている言葉なのか、というふうにだ。注意したいのは、現実に関係が「ある」か「ない」か、という事実による二分法ではない、ということだ。前者、「現実に関係しようとしている」言葉は、むしろ現実と「切り離されている」という自覚を前提しているし、後者は現実に「縛られている」という状態においてしかあり得ない態度だ。だから、例えば私が、「昭和90年」なるものに対して言葉を差し向けたとして、それはある意味では全く現実とは関係のないおしゃべりである。一方で、そのようなことを言ったという事実は書かれたテクストがそこにあるということによって保証されてしまう。そして言葉というものは時として、その場、その時、そこに書きつけられてしまったということで、決定的な影響をもってしまうことがある。戦後の天皇の地位が決定された時の話を、当時外務大臣だった吉田茂の側近、白洲次郎は次のように語っている。GHQに与えられた、英語で書かれた新憲法の草案を、日本語に翻訳する際のエピソードである。

 

 この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。

新潮文庫 『プリンシプルのない日本』白洲次郎 p.240

 

憲法の文言が決定される現場が、こういうものだった。そう聞き、頭の中に受け入れてみた時、少し拠り所のないような気持ちになる。もう少し勉強してみると、戦後、新憲法の制定にあたっては、まず草案の作成をGHQに命じられ、日本側が提出した草案が、主権在民論ではなく、天皇神権論を護持していた、という前段があることがわかる。また、この天皇をシンボルの位置におく草案を受け入れねば、天皇本人に危機が及ぶ、という示唆がGHQ側からあったこと…。芋蔓式に出てくるこれらの事を知ったところで、我々の現実に変化が起きるだろうか。なぜ我々はこうなのか?

ある事を知る前と後では、ある出来事において、当事者ではないが、その影響関係にある、という立場は変わらない。

けれども、ではそのことと自分がどう関係しているか、という視点が現れるが、ここで、この節の冒頭で挙げた、芸術としての政治、という問題がかかわってくる。

この論考の冒頭では、芸術とは事物と人間の間での精神的現象だと述べた(第1章、ベンヤミンについての考察を参照)。そして、天皇の身体の表れ方が、当時の人びとの精神構造に、超国家主義をなじませる役を担ったという指摘をみた。

つまり、モノとしての空間の操作によって、われわれの精神においてなんらかの現象が起きる、ということを受け入れるならば、「昭和90年」という言い方はあながち冗談とも受け取れない。われわれの現在のものの環境は、インターネット空間によって、私たちが見たいものを眼前のディスプレイに表示することができる。youtubeで、昭和天皇と検索してみれば、非常に多くの映像が見られる。そこについている様々なコメントが見られる。そして、われわれに対して、昭和天皇はその意志の更新された声を発することはない。実際にはもうお隠れになっているのだから。

死者とは、われわれが同一化の欲望にもっとも晒されやすいものである。死者は拒まない。拒まない死者に対する同一化は、生きているこちらの側で、拒まなければならない。もう一点、問わなければならないことがある。「批評」が、「再命名」行為であるのなら、「再命名」を「再生」する、とは、どういった事態なのだろうか。「昭和90年」という時代を批評=「再命名」すること、それは、みずからが何者かに同一化していってしまうさまを、みずからの眼前に文字として書つけ、その一瞬ごとに外へ外へと押しやり続けるしかないのである。このキーボードを打つ指先を、私の精神から追い出し続けること。批評の再生とは、批評を出来事にせぬことである。つねに現在が過去への再命名となるような運動を続けること。続けることなのだ。

 

 

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