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座談会をめぐる諸問題 2015-2016 ――二酔人越年問答

――2015年12月31日、大晦日の深夜、静まり返った某出版社編集室の片隅で、ある雑誌の編集長(猿川)とライター(羊山)が、年越しのカップ麺をすすりながら酒を酌み交わしていた。ふたりが囲んでいるデスクの上には、この1年に出版された小説・雑誌等が、所狭しと積み上げられている。
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● 23:00 会話文体の可能性

羊山 かんぱーい!
猿川 かんぱーい!
 ぷはー! もうあと1時間で新年ですね。今年もいろいろ本が出版されましたが、出版界的には、2015年の1冊と言えばやはりこれでしたよね(まだ読んでない…)。
 うん、これね(あ、読んでない…)。受賞作史上、最多売上部数だってね。いいなあ。
 編集長、羨ましがってないで、来年は1冊くらいヒット飛ばして原稿料上げてください……と言いたいところですが、期待薄なので、私は私なりに、ライターとしての来年のビジネス・チャンスを、すでにちゃんと見つけてあります。
 ういー! ちょっとテレビでもつけようか。
 聞いてくださいよ! 私は今年の夏、ある批評誌の座談会に同席し、そこでこんな話を耳にしたのです。曰く「最近は座談会の構成を頼めるライターが減ってるんだよね」と。つまり「座談会ライター」は今、売り手市場なんですよ!
 「みんな面倒だからやりたがらない」の間違いじゃないの。
 しかし編集長、ここに積んである雑誌を見て下さい。21世紀になっても相変わらず、日本の雑誌はとにかく「座談会」一辺倒です。文芸・批評誌からファッション誌、映画誌、サブカル誌、アイドル誌、グルメ誌から企業のPR誌にいたるまで、座談会、座談会、対談、対談、インタビューという具合で、とにかく世にあまねく雑誌は、会話体の記事がなければページが埋まらない状態です。雑誌のみならず新書・単行本もふくめ、対談/座談/インタビュー本は依然として出版され続けており、一ジャンルを築いております。つまり、質の高い座談会の構成原稿を安定して量産し、座談会市場において不動のシェアを獲得することができればライター稼業は安泰!
猿 無理無理、将来性なし。座談会なんて今どき誰が読むのさ。儲けたいなら転職しなさい。
 編集長は座談会の可能性を低く見積もっておいでです。だいたい古くはソクラテスの問答から、さまざまな宗教における教理問答、中国の諸子百家、
『源氏物語』の「雨夜の品定め」、サドの『閨房哲学』、民俗学のフィールドワーク、果ては最近の日本のテレビ番組のトーク偏重傾向まで、座談会・会話体の系譜は人類の歴史の大いなる一側面として無視できません。
 そんなことは知っているよ。ただ、ぼくは、ぼくらがいま喋ってるようなこういう軽薄な文体も含めて、いかにもわざとらしい、あの「座談会っぽさ」が嫌いなんだよね(笑)(←こういう(笑)の使い方もね)。
 しかし、活字でしかノリがわからない座談会の場合、(笑)の有無は、言質を取られるか否かに即つながるので、割と重要ですよ。
 (笑)
 無意味に入れるのはやめてください。とにかく対話というのは本来、言葉の最も自然な姿なんだという説もありますし、我々のこの薄っぺらいキャラクターによるダイアローグ自体も、筆者の内なる思考の問答をなぞった対話であるとも言えるわけで、私の仮説では、会話体というのは、ある種のノイズ混じりの内容を伝えるうえでは、かなり適した文体なのではないかと思うのです。
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● 23:15 「あいまいな日本の座談会」

 まあ、言いたいことはなんとなくわかった。けれど、たとえば日本における座談会文化については、すでに過去に何度も批判を受けているよ。それについてはどう考えるの? たとえば、1992年に行われたパネルディスカッション「文化の政治性」(『世界』1992年10月号)では、ハリー・ハルトゥーニアンやマサオ・ミヨシらが、日本の座談会は予定調和になりがちで、衝突を回避する傾向があり、暗黙裡にコンセンサスを取り過ぎだって批判したらしいじゃない。要はヒリヒリ感が足りないと。
 それは座談会批判と言うよりは、日本人批判なのでは……。
 まあ、そうとも言えなくはないけど…(的な煮え切らなさが批判されてるわけだよね)。実際、日本の雑誌を読んでると、うんざりするくらい「同意」や持ちネタの披露や、じゃれ合いみたいなディスばっかりで、ヒリヒリしない座談会って実に多いじゃない? 近年でも大江健三郎が、さっきも名前を出したマサオ・ミヨシやエドワード・サイードの論に依拠して、出版界を席巻してる「会話体主義(カンバセーショナリズム)」が、厳密な論理性を持った書き言葉を衰退させ、ひいては日本文化・政治の衰退の原因だとまで言ってるよ。
羊 なんか急にデカい話になってきましたね。しかし「あいまいな日本文化」のあいまいさのせいで、日本文化の国際的地位が失墜……というのはなんだか、鶏と卵の問題のようで、よくわからないわけですが。そもそも座談会の可能性は、明確な結論を出す議論の場というよりは、どちらかと言うとブレインストーミングのほうに分があるんじゃないかと思うんです。話題も尽きてきて疲労も溜まってきたところで、ふと誰かが思いがけない神発言、もしくは失言をする。するとそれが呼び水となって、会話が予期せぬ方向にすごい勢いで転がっていく。そんな展開こそが、対立のヒリヒリ感以上に、談話において最も興奮する瞬間でしょう。
 ビジネスチャンスだのブレインストーミングだの、リア充っぽい語彙をちょいちょい挟んでくるのはやめろ!
 しょうもない対立点を出して無駄にヒリヒリさせるのはやめてください! ときに、私は最近、鶴見太郎さんの『座談の思想』(新潮社、2013年)という本を読んだんです。その中で鶴見氏は、桑原武夫と松本清張が対談の中で、中江兆民の『三酔人経綸問答』について「結論がない」ことに注目し、しかし結論しないからこそ問答は今も生きているのだと指摘したことを重要視しているんです
。つまり、結論が出ないことによって、論がその後の状況変化に応じて自己修正される余地を残しているんだと。そして、そういう結論を持たない座談会のダイナミズムは、時に結論を出す必要がある論文に勝るのであり、それこそが座談会の独自の領分なのだと言っている。
 なるほど。つまりこのダイアローグにおいても、勢いがあれば、特に無理に結論を出す必要はないと。
 まあ、ちょっとひと休みしましょうか。
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(小休憩)
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● 23:30 虚構の談話が堂々と

猿 おーい、カップ麺こっちにまだあるよ。もう1個食べる? 電気ブラン飲む?
 
編集長、もうテープ回ってるんで、戻ってきてください。
猿 今どきテープレコーダーなんて使ってるの? そもそも録音してる設定だったの?
 細かいことは気にしないでください。とにかく前半の話で、座談会の可能性の一端はおわかりいただけたかと思います。
 まあね。でも、これまでの話だと、べつに新しい論点は何も出てないんじゃない?
 これからです。ところで編集長、今のこの我々の対話は虚構度で表した場合、ほぼ「100」ですよね。
 まあ、脳内対談だしな。現実には我々のキャラクターも発言も実在しないという意味においては「100」だな。
 実は私は最近、誌面用に構成された座談会記事の虚構性……というとちょっと語弊がありますが、編集・構成上の「ウソ」がどれくらいあるのかに注目しているんです。
 その論点はマニアックすぎるんじゃないの?
 たとえば、座談会記事においては、女性や物腰の柔らかい感じの男性の発言については、実際の発言がそうであったかどうかにかかわらず、語尾に「ね」が足される傾向があります。細かいようですが、こういうのも「虚構」にカウントされます。
 ふうん、そうなのね。でも、それが一体なんなのかしらね。
 今からキャラ変えしても無駄です。この論点を出した意図については後で説明します。ところで、たまたまここに1冊の雑誌があります。この冬に新創刊された批評誌『ゲンロン』ですが、この雑誌に収録されている座談会の虚構度はどうでしょう?
 なんだか唐突に出してきたな……。『ゲンロン1』ではインタビューも含めると、計4本の会話体の記事が掲載されてるね。しかし、部外者である我々が虚構度を検討できるのは、ゲンロンカフェでのイベントの様子が公開されている「鈴木忠志✕東浩紀」と「亀山郁夫✕東浩紀✕上田洋子」の2本のみ。
 どちらの座談会記事も、実際のトークと比較してみると、当日のイベントでは実際にはなかった発言がかなり掲載されています。これらはおそらく、構成の過程で話題を円滑につなぐために架空の発言を足したり、登壇者と実際にゲラのやりとりをする中で、本人たちによって加筆・修正が加えられたものと予測されます。
 ふむ。まあ、全く驚くようなことはない、通常の編集作業だな。
 そのとおりです。つまり座談会記事というものは、その性質上、基本的に虚構の上になりたっているのであって、世のすべての座談会記事は、誌面上にのみ存在する架空の談話を繰り広げていると言ってもいいでしょう。
 テープレコーダーすらない時代は、速記者が記録していたというしな。音声記録メディア登場以前の座談会だと、現在残っている文豪の発言も含め、多くの会話が編集者によって半ば創作されていた可能性も否定できないな。
羊 しかし読者には当然、そんなことはわからない。読み手はそれぞれ、記録/創作の区別なく、頭の中で座談会の会話を(それぞれのイメージする話者の声で)再生し、擬似的な「傍聴者」として誌面を読み進めるわけです。
 真実は闇に葬られるわけだな。
 そういうことを言いたいわけじゃありませんが、そこにこそ座談会記事の特殊性があるということです。では、それを踏まえて、『ゲンロン1』の目玉企画である共同討議「昭和批評の諸問題1975-1989」についてはいかがでしょう。
 これはそもそもが密室の座談会だし、文面を見てもかなり編集で作り込んでいる気配が感じられる。極端なことを言えば、すべてメーリングリストやメッセンジャー上での文章のやりとりを基に作られた可能性すらあるな。このメンバーなら可能なんじゃないかな。
 発言に気をつけてください。座談会は実際に対面で行われ、収録には6時間を要したそうですよ。しかし誌面からはわかりませんが、このような長時間の座談会の場合、間には当然、オフレコの会話が大量に交わされているでしょうし、休憩を何度も挟んでいるでしょうし、市川真人氏が40度近い高熱を発し毛布でぐるぐる巻きになりながら参加していた可能性はあります。
 妙に具体的な情報が混ざっているな。
 どんな座談会にも「誌面に載らないけれど多分に影響している要因」というのがありますね。実際、世の多くの誌面は、見えないところで様々な事情により様々な制約を受けて作られている。私の個人的な経験では、ある雑誌の座談会記事で、掲載号の表4(裏表紙)に自動車の広告が入っていることを完全に忘れて、要約すると「都市生活者は自動車とかいらないよね、これからは自転車だよね」といった論を全力で4ページほど展開したあげく、印刷所に入稿した後で、広告の内容に気づいて阿鼻叫喚に陥った例を見たことがあります。
 広告に依存している雑誌の場合、スポンサーの問題は命取りだからなあ……。多くの出版社においては、編集部のほうが広告営業部よりもエバっているけど、実際は広告なくして雑誌は立ち行かない。「昭和批評の諸問題」では、中盤で「新左翼系総会屋雑誌」をはじめ、思想・批評のスポンサー問題を取り上げているね。この問題は今後も確実に深刻度を増していくだろうね。2015年は『ゲンロン』が創刊された一方、『宝島』をはじめ、あいかわらず雑誌の休刊が相次いだ。次に消えるのは、たぶんうちの雑誌かな……。
 そもそもどういうジャンルの雑誌の編集長だという設定なのでしょうか……。
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● 23:45 座談会記事の越境性

 共同討議の中で、スポンサー問題に絡みの部分では、座談会好きの私にとって羨ましい話題として、エッソ・スタンダード石油の広報部が出していた「エナジー対話」という対談本の叢書シリーズが取り上げられていますね。この叢書では、1冊の本を作るために何泊も温泉地で合宿したりして、その間、食事中の雑談なども編集者が細かく拾って本にしていた、という話です。
 ぜいたくな作り方だよ。ぼくたちも温泉行きたいよね。しかし、テープ起こしをしたバイトは大変だっただろうなあ……。
 正直なところ、私はテープをただ単にベタ起こししただけのような、異様に無駄が多い座談会も、それはそれで独特のナマ感があって好きなのですが、「エナジー対話」のような完成度のものを見せられてしまうと、やはり編集側の責任を考えてしまう。つまり座談会記事においては本来、実り多い収録をすることはもちろんですが、それを後で無理矢理にでも形にしていく腕力こそがキモなのであって、その点で編集者や座談会構成者の責任は重大です。
 動画の時代だしね。でも、座談会というのは、本来、なんでもありでしょう。そう肩肘を張ることもないんじゃないの?

 逆に言えば、だからこそ座談会にはまだ可能性があるのであって、その可能性を潰しちゃいけないんです。近年の
「ウソ」や「ハッタリ」の類が極めて許容されにくいエビデンス重視の風潮の中で、座談会記事というのは、先にも述べたように、決して「結論」を求めるものではないし、そもそも文字で構築された虚構性を前提にして成立しているという点で、メジャーでありながら、極めて特殊なものでもある。だからこそ書き言葉の制約の中ではできないことが大いに可能だし、娯楽にも、詩にも、文学にも、批評にも寄せていくことができる。座談会記事というものそのものに「越境性」が備わっているんです。
 なんだか真面目にまとめはじめたな。「二酔人」とかタイトルに付いてる割に、ぼくたち酔ってないよね。
 いいですか、たとえば1冊の本を書こうとした場合、本を書く時点では著者は構想をある程度固めている必要がある。しかし座談会においてはその点、まだおぼろげに掴み始めたばかりの思考の端緒が、そのままみずみずしく開陳されることもあるし、別々に収録された談話が
編集で融合された時に、収録時には見えなかった意外な展開が現れることもある。「昭和批評の諸問題」は、先行世代の反復しながら批判している、整理でもある。歴史の創造でもある。ゴシップ的な部分もある。また、批評でありながら、実はブックガイドでもあり、おせちの中の紅白なますのようでもあり、はらひれほろはれ、はらひれほろはれ……。
 急激に泥酔モードに入られても……。

 

 おや? しーっ……。
 あ、鐘。

 編集長、年が明けてます。
 かんぱい。
 かんぱい。
 おめでとう。
 おめでとうございます。
 初詣にでも行こうかい?
 いえ、私はこれで失礼します。
 あ、そうか。おつかれさま。
 いい1年を。

 


(参考文献)
鶴見太郎『座談の思想』新潮社、2013年。
大江健三郎『「話して考える」と「書いて考える」』集英社文庫、2007年。

 

文字数:6235

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