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「帰れない子ども」が消える場所――坂口安吾、引き裂かれた「ふるさと」をめぐって

東京に来てしばらくの間、綾瀬という町に住んでいた。千代田線の終点の駅で、北千住から荒川の鉄橋を渡ってひと駅の位置にある。毎朝、綾瀬から電車に乗ると、川を越える手前で、左の窓から東京拘置所が見える。ヘリポートをのせた巨大な壁のような外観は、よく晴れた日でも独特の存在感を放っていて、暗い想像力をかきたてられた。
坂口安吾は『日本文化私観』(1942年)の中で、汽車の窓から東京拘置所の前身、「小菅刑務所」を眺めた印象を、このように記している。

勿論、この大建築物には一ヶ所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でも有り得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである。
それは刑務所の観念と結びつき、その威圧的なもので僕の心に迫るのとは様子が違う。むしろ、懐しいような気持である。つまり、結局、どこかしら、その美しさで僕の心を惹いているのだ。[※1]
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● 柄谷行人「『日本文化私観』論」/突き放される「ふるさと」

実際には、安吾が眺めた小菅刑務所は、ドイツの表現主義に影響を受けた、当時としては斬新な設計であり「必要の美」からは遠い、むしろ安吾が同書の中で散々に批判しているブルーノ・タウトの側にある建築物だったという。しかし、ここで注目するべきはそこではなく、安吾が刑務所の印象について「懐かしいような気持」がすると記している点である。
作中で安吾はほかにも、ドライアイスの工場や、伏見稲荷の俗悪な鳥居のトンネル、場末のレビュー劇場などに対し、「懐かしさ」や「郷愁」という言葉を繰り返す。この安吾独特の奇妙な言葉の使い方は、初期の作品から継続して出現しているものであり、たとえば過去の作品にはこのような一節がある。

私は現実へ冷然と眼をみはつて、いつまでも、まぢろぎを忘れて眺めてゐる冷めたい悪魔の姿が懐しいのだ。
(「谷丹三の静かな生活」、1934年)[※2]

私はオペラグラスを取り出して、それからの毎日、窓を通る一つ一つの帆カケ舟を点検したのですが、帆影はつひに見出せなかつたのです。そして私は考へたのです、あれはあれでいい、空のやうに、又海のやうに、あれはあれ自身すでに一つの麗はしいふるさとだから……。(「帆影」、1931年)[※3]

最も有名なのは、ペローの原作版「赤頭巾」においては、赤頭巾がオオカミに食い殺される場面で、物語が何のフォローもなく唐突に終わる(オオカミを退治する場面がない)ことについて書かれた、次のようなくだりである。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
(「文学のふるさと」1942年)[※4]

安吾は、このような例を挙げることで、救いがなく、むごたらしく、モラルがないこと自体が「文学にとってのモラル」であるとし、そこにこそ「文学のふるさと」があるのだと言うのである。しかし、あくまで言葉の使われ方に注目すると、そもそも人は通常、「ふるさと」に突き放されたり、「プツンとちょん切られた空しい余白」を覚えたりはしない。ここでは「ふるさと」という言葉は、むしろ温かさや親和性とはほとんど真逆の、作家独特の意味付けにおいて使われている。
このイディオムを指摘し、坂口安吾における「ふるさと」とは何であるかを位置づけた柄谷行人の「『日本文化私観』論」と、その後に書かれた何本かの安吾論は、安吾のテキストを考えるうえで、いまなお強い影響力を保っている。
柄谷は、安吾の「ふるさと」とはすなわち、突き放す「他者」「他なるもの」であるとし、この論はそれまでのロマン主義的な「ふるさと」の解釈を一変させた。
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●「豪奢」な戦争と、「ふるさと」の変化

しかしこの「ふるさと=他なるもの」という解釈には、十分すぎるほどの余白が与えられてはいるものの、特に戦後の安吾の作品における「ふるさと」「なつかしさ」「郷愁」の用例を見ていくとき、必ずしも、覆いきれない部分や変化が生じているように思われる。たとえば「続戦争と一人の女」(1946年)には次のようなくだりがある。

夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでゐたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなってゐた。戦争の夜の暗さを憎んでゐたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのやうな深い調和を感じてゐた。[※5]

戦後の作品の中では、「ふるさと」的なものはしばしば、それ以前の抽象的な表現を離れ、より具体的なかたちを伴う。中でも最も苛烈なものとして登場するB29による夜間の編隊空襲は、非モラルの極北であり、「その美しさを予期することができず戦慄の中で垣間見ることしかできない」ものとして、あまりにも「豪奢」に描かれる。戦争の夜の暗さ=「ふるさと」的なものは、もう一方の「ふるさと」としての美しい空襲と表裏一体となり、「私」の中に奇妙な均衡を築いて息づく。これは戦前の作品には見られなかった構図である。その他の例についても後述するが、まずは、この変化(あるいは新たなる要素の登場)の背景を探る端緒として、ふたたび『日本文化私観』の中からある一章に着目し、新たなイディオムを探してみたい。
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● 「ふりかえる魔物」

『日本文化私観』を通読した際に、一読して理解しづらい部分は大きくふたつある。ひとつは前述したとおり、「なつかしい」「郷愁」という語の、作家特有の意味をはらんだ使われ方であり、そしてもうひとつが、3章「家について」に書かれている内容である。
「僕はもう、この十年来、たいがい一人で住んでいる」と始まる冒頭の一文を読み、建築物の話に続いて次は日本の家屋の話でも始まるのだろうかと読み進めると、2文目で奇妙な表現に行き当たる。曰く「家」には「いつも悔いがつきまとう」。そして、「家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない」のだと。
家から出て行くときではなく、帰るときに表れる「悔い」や「後ろめたさ」とはいったい何なのか。ここにも「ふるさと」に見られるような、同様の反転がある。

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子共も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
[中略]
叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰にも気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学とは、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。[※1]

ここまで読むと、この章で安吾は、家屋ではなくより広い意味での日本の「家」というものへの忌避感について語ろうとしているのだとわかる。それにしても「魔物」というのは幾分唐突で、寓話めいた表現だ。というよりもむしろ、この章自体がそもそも全体のバランスを考えると極端に短く、また最後まで読めば、「家」の話をしているわけでもないことがわかる。つまり、ここでも安吾は「文学の生まれる場所=ふるさと」の話をしているのである。
あるいは安吾によく親しんだ読者は、この「家への忌避感」「叱る母」といった断片から、すこし後に書かれた別の作品を連想するだろう。そして思い出すかもしれない。安吾が「帰れない」子どもであったことを。
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● 「家に帰れない子ども」/「ふるさと」の表裏

安吾は新潟屈指の旧家に、十三人兄妹の末男として生まれた。父は衆院議員だったが、安吾が生まれる頃にはすでに家は資金繰りに窮するようになっていたという。1946年に発表された「石の思い」は、その雪国の陰鬱な旧家への強い忌避感と、憎み合いながらも「命を捨てるほど」愛していた母の影を描く自伝的内容の短編である。母への憎しみのために家を呪う少年は「幼稚園のときから、もうふらふらと道をかえて、知らない街へさまよいこむような悲しさに憑かれていた」という。

私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じていた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとと愛を感じており、海と空と風の中にふるさとの母をよんでいた。常に切なくよびもとめていた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂う気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもいたのであった。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であった。[※6]

すなわち、逃げ出してくる「家」と逃げ出していく先の「風の中」は、安吾の「ふるさと」の裏と表であり、「ふるさと」への渇望はこの両面に分かたれている。安吾が戦後、後に代表作と呼ばれるようになるいくつかの作品に描いてみせたのは、まさにこの裏表ふたつの面の間に引き裂かれ、どちらの「ふるさと」にも「帰ることができない子ども」のような存在だったのではなかっただろうか。
たとえば、「青鬼の褌を洗う女」(1947年)の「私」は、祖国の危機も眼前の大破壊もただの「現実」として受け入れる、内面的に国を捨てた者、そもそも国を持たない者として描かれるが、唯一そのようにあしらうことができないものとして「母」と「家」を挙げている。この「女」もまた、「帰れない子ども」の分身であり、自らの内に「ふりかえる魔物」を抱く存在である。
舞台が説話世界に変わると、引き裂かれた「ふるさと」をめぐる結末は、より悲喜劇性の強い「救いがなく、むごたらしく、モラルがない」ものとなる。
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● 宙吊りの糸が切れるとき

表裏ふたつに分かたれた「ふるさと」に引き裂かれた者が、そのどちらかを失うとどうなるのか。
安吾はかつて『文学のふるさと』において、「私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」と述べているが、以下の二作では、いわば「ふるさと」的な結末が、極限まで昇華されていると言っていい。
「桜の花の満開の下」(1947年)と「夜長姫と耳男」(1952年)は、双子のような物語構造を持つ作品であるが、それぞれの主人公である山賊と仏師の耳男は、まさに表裏となった「ふるさと」の間の、宙吊りの怖れの中に生きる「帰れない子ども」として描かれる。
すなわち耳男は、夜長姫の無垢と残酷さ、「あどけない笑顔」と、その顔が同時に「オレを殺すかも知れない顔」であることに引き裂かれ、「だきしめても足りないほどなつかしく心にしみる」ような怖れを抱く。「桜の花の満開の下」においては、女の「苦笑」の場面が、まさに「突き放すもの」「他なるもの」としての女の「ふるさと」的輪郭を鮮烈に際立たせる。

「私も花の下へ連れて行っておくれ」
「それは、だめだ」
男はキッパリ言いました。
「一人でなくちゃ、だめなんだ」
女は苦笑しました。

男は苦笑というものを始めて見ました。そんな意地の悪い笑いを彼は今まで知らなかったのでした。そしてそれを彼は「意地の悪い」という風には判断せずに、刀で斬っても斬れないように、と判断しました。その証拠には、苦笑は彼の頭にハンを捺したように刻みつけられてしまったからです。[※1]

女の苦笑を受け止めることができないのは、山賊が寄る辺のない「子ども」だからだ。「満開の桜の下」にはりつめたうつろへの畏怖と、決して理解できない女との狂った暮らしの間に引き裂かれ、桜の森の恐慌の中で、男は女の首に手をかける。そしてすべてが終わったとき、男は宙吊りの不安を生きる「帰れない子ども」ではなく、花の下の虚空と同一化し、もはや帰ることそのものを必要としない存在として、この世の目が届かないところへと、花びらとなって消えていくのである。

日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。[※1]

「桜の花の…」が書かれた1947年近辺の安吾の年譜を見ると、生き急いでいるとしか思えない数の作品がびっしりと並ぶ。ちょうどこの頃、寝ないで書き続けるためにヒロポンを飲み始め、その状態で眠るためにアドルムという睡眠薬を大量服用していた。致死量20錠の同薬を50錠程度ウィスキーで飲んでいたという。『クラクラ日記』と読み比べるとき、文面上の正気さは、むしろグロテスクにすら思えるほどである。
あらためて「日本文化私観」を開くと、「王様はハダカだ」と言わんばかりに「平等院も法隆寺も焼けていい」と言ってのける安吾は、やはりどこか「子ども」のようでもある。それも、恐ろしく早足で戦後を通り過ぎていく「帰らない子ども」だ。そうして、早足で歩き去りながら、「ふりかえる魔物」を抱くもうひとりの自分を、「ふるさと」の縁に平気な顔で遊ばせていたのではないか。


※1 『坂口安吾』《ちくま日本文学全集》、筑摩書房、1991年。太字強調筆者。
※2 『坂口安吾全集 01』筑摩書房、1999年。太字強調は筆者。
※3 同上
※4 『堕落論』新潮文庫、2000年。
※2 『坂口安吾全集 04』筑摩書房、1998年。太字強調は筆者。

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