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「対」の画と目 ―藤田嗣治、1943年の2作をめぐって―

前年6月のミッドウェー海戦の大敗というターニングポイントを過ぎて、1943年(昭和18年)の日本は、4月に山本五十六の戦死、追い打ちをかけるように、5月に開戦後初の「玉砕戦」、アッツ島での日本軍全滅を迎える。
藤田嗣治(以下、フジタ)はこの年の9月に開催された「国民総力決戦美術展」に《アッツ島玉砕》を出品、評判となった。同年12月の第二回大東亜美術展には《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》《○○部隊の死闘-ニューギニヤ戦線》に加え、本稿で取り上げる《ソロモン海域に於ける米兵の末路》を出品しているが、戦後の《アッツ島》の再評価、知名度に比べると、戦争画的な派手さ、受け止めやすさを欠いた《ソロモン》は、今日においてはほとんど忘れられた作品だったと言っても過言ではないだろう。
同作にはそもそも「戦争画」として見ると、奇妙な点が多いのであるが、それについては後述する。
フジタは戦後すぐ、米国での日本占領をテーマとした展覧会向けに、戦時中に散り散りになった戦争画の収集の依頼を受けていたこともあり、《アッツ島》をはじめ何点かの自身の戦争画については、絵画に記した年号を皇紀から西暦の数字表記に改め、署名も漢字から「Fujita」と英語表記に書き直している[※1]。しかし、《ソロモン》については、描かれた当時のままの表記が現在まで残されている。
題材が題材だけに、米国での公開は不可能と踏んだのかもしれないが、いずれにせよ、展覧会の計画はGHQによって差し止められ、フジタが収集した戦争画は、自身の作品も含めて、米国どころか、その一部が国内で公開されるまでに30年以上、収蔵されていたフジタの戦争画が今年、一挙公開となるまでには実に戦後70年の年月を要した。つまりフジタは自らの戦争画を1945年以降、一度も見ないまま没した。

そもそもフジタが戦争画に本格的に取り組むきっかけとなった作品は、1940年の秋に制作された《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》である。前年のノモンハン事件を描いた本作は、陸軍から正式な依頼を受けたものではなく、事件の責を負って予備役に退いていた萩洲という中将が部下の慰霊のためにフジタに依頼したもので、それが後に陸軍の「作戦記録画」として靖国の遊就館に収められたものである。この制作のためにフジタは萩洲の手配によって実際にノモンハンを現地取材しており、後の戦争画に比べると、いかにも晴れ晴れと開放的な明るい画面の中に描かれている草原の戦場は、あるいは現地取材での印象を強く受けての筆致なのかもしれない。
しかしフジタは、実はこのとき、表向きの作品とは別に、同じテーマでもう一点、密かに作品を並行して描いており、そちらは《哈爾哈…》の青空と草原の戦場から一転、ソ連の戦車に踏みにじられる日本兵の屍が、まさに死屍累々と折り重なる様が陰惨なトーンで描かれていたのだという[※2]。作品が現存しない以上、すべては想像にすぎないが、おそらくその絵の中においては背景の空も、草原も、青や緑ではあり得ず、恐らくは後の玉砕図に見られるような、すべてが息詰まる土色に染められた壮絶な画面がすでに現れていたのではないかと思われる。

ともあれ、ここで確認しておきたかったのは、フジタがそのように、複数の視点を切り替えて事物を捉え、ときにその自らの目線の持ち様を巧妙に秘匿しながら作品を描いていくタイプの画家であったということである。

時間を再び1943年に戻す。フジタは開戦以後、すでに精力的に戦争画制作を行っており、同年にはすでに陸軍美術協会副会長という”戦争画壇の重鎮”の座に就き、戦争画展の審査員も務めている。美術批評家の椹木野衣は、フジタが「作戦記録画」の範疇を逸脱し、戦争画の不文律を破って日本兵の死体を描き、「唯一の玉砕画家」たりえた理由として、彼が表向き精力的に戦争画に取り組んでおり、かつ、おいそれと批判できない画壇のトップに昇りつめていたことを挙げている[※3]。
当時まだ医学生だった作家・山田風太郎は、展覧会で見た《アッツ島玉砕》の印象を、日記に「薄暗い凄壮感」と書き、展示の様子について「晴れた日なのに、天窓からさしこむ日の光も白じろと煙って、汗ばむむし暑さの中に人々は一脈の冷気を背におぼえ、みな帽子をとってこの絵を眺めている」と綴っている[※4]。絵の前に賽銭箱が据えてあったというエピソードも頷ける描写である。

フジタの戦争画に関してはしばしば、ドラクロワやジェリコーなど、西洋油画のハイライトとしてのロマン主義絵画からの影響・模倣が指摘されるが、実際に絵画の前に立つ者の目には、個々のポーズや構図は一要素として沈んでしまう。異様な密度の「抜け」のない暗い画面の中で、もはや敵・味方の境もなく、すべてが圧倒的な泥・土・血の色の陰惨なうねりと化した、その混沌の様子に、画家が想像の中に捉えた近代の戦争(あるいは総力戦)というものに対する実感を伴った感触が見て取れるのである。

しかし、その流れの中で引っかかるのが、冒頭に述べた同年制作の《ソロモン海域に於ける米兵の末路》の奇妙さである。絵は、何らかの実話の聞き取りに基づくものであるかは不明だが、ソロモン諸島における対連合軍の戦いの一場面を描いたものである。
1942年以降、日本軍は同海域における連合軍側の分断、および補給路の断絶を目的にフィジー、サモア、ニューカレドニアを制圧すべく侵攻を計画していたが、6月にミッドウェー海戦で敗れて以降、主に飛行場建設を予定していたガダルカナル島をめぐる攻防を中心に、激戦が繰り広げられた。フジタが本作を1943年12月の第二回大東亜美術展に出品した時点で、すでに戦況は絶望的なものとなっており、翌2月にはガダルカナル島を撤退。南方の重要拠点を失った日本が敗戦へと転がり落ちていく決定打となる。
本作はそのソロモン諸島をめぐる戦いに題材を採った戦争画だが、まず一見してそれとわかる要素はほぼ皆無である。画面には軍艦や戦闘機の影ひとつなく、小舟で漂流する兵士たちも明確に軍服とわかるものを身に着けているわけではない。もしタイトルやキャプションがなければ、19世紀あたりの帆船時代の船乗りたちを描いたものだと言われても、違和感を持たないだろう。
さらに”敵”として描かれていながら、各米兵たちは(あるいは玉砕図の日本兵よりも)極めて人間的に描かれており、とりわけ荒波の中、船尾に直立している隻腕の男は、自らの命運をすでに覚悟して見据えているかに見える表情も含め、ヒロイックですらある。
つまり、フジタが当時の大衆に、この絵がどのように見られることを意図していたのか(それとも解釈の撹乱そのものが実は意図されていたのか)、はなはだ捉えにくいのである。

fujita

ここで、作品の位置づけについて立てる仮説とは、この《ソロモン海域に於ける米兵の末路》が、《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》と同様、同年に制作された《アッツ島玉砕》と対になるものとして画家に密かに意識され、描かれた作品なのではないか、というものである。

目に見える部分から話を進めていくと、まず二作は同じサイズのキャンバスに描かれており、構図にもいくつか共通点が見られる。山の稜線と波頭が切り取る輪郭、また、それぞれの絵の中で自然と視線がいく、印象的に直立する人物は、ほぼ同じ位置に描かれている。片やソロモン海峡の荒波、片や殺し殺される玉砕戦の殺戮の人波。玉砕図において使われてきた、青みを極端に配した土色のトーンが、《ソロモン》では敵である米兵を描いた絵に用いられている点も挙げておきたい。そもそも玉砕図以降のフジタは、戦争画において敵/味方の描写を明確に区別していない。
さらに、二作はまた、いくつかの点で対称をなしている。画面右側で直立する人物は、《ソロモン》では、波の上で顔を上げ、ただ立ちつくす米兵。《アッツ島》では、鉄帽の陰で顔が見えず、まっすぐに銃剣を真上に掲げて眼下の敵に振り下ろそうとしている日本兵。絵の内容を比較すれば、「人間同士の殺し合い/荒海(あるいは人喰い鮫)によりもたらされる死」「渾然一体に描かれる群像/個別の人格を感じさせる描写」「動と静」。

「そもそも人喰い鮫がうようよいる荒海における、オールを失った小舟での漂流」が意味するものとは何か。それは「間もなく訪れるであろう死に至るまでの、不確定な時間と道筋」なのではないか。死(敗戦)はほとんど確定的なものとして目前に迫っている。しかし、それはまだ船底一枚に隔てられており、決定的なものとして訪れてはいない。
南方戦線の各地で、すでに陰惨な玉砕戦が始まりつつある、カタストロフは刻々と近づきつつある一方、荒波の大海を漂流する小舟の中では、命運が近々尽きるのを予期しながら、しかし、いまだ人喰い鮫のいる海で命を長らえる一手が見つかるかのように錯覚する瞬間すらあるかもしれない。
その晩年、「迷路の中に一生を終える薄命画家だった」[※5]と自らの生を振り返った画家は、1943年の世界と漂流し始めた日本を、そのように、冷静な俯瞰と想像、その時々で異なる視点をたくみに切り替えながら、絵描きの目で貪欲に眺めていたのではなかったか。


※1 近藤史人「フジタと日本がすれ違った長い時間」、『ユリイカ』2006年5月号。
※2 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社、2002年など。
※3 椹木野衣・会田誠『戦争画とニッポン』講談社、2015年。
※4 山田風太郎『戦中派虫けら日記―滅失への青春』ちくま文庫、1998年。
※5 藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』講談社文芸文庫、2005年。

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