印刷

時間と焦点 ―「見えているもの」の外に―

* * *
總ての見えるものは見えないものに、聽えるものは聽えないものに、感じられるものは感じられないものに附著してゐる。

恐らく考へられるものは考へられぬものに附著してゐよう。 (ノヴァーリス『断章』[※1])
* * *

窓のそばに寝転んで本を読んでいる。外がなんとなく暗くなってきた。風も出てきたようだ。半身を起こして、窓の外を見る。
――ここまではだいたい、意識的なふるまいであると言える。しかしそのあと、視覚が窓の外をざっと見渡す「周辺視野」から、何か特定のものに視線を向ける「中心視野」へと切り替わると、自分の眼球が何をきっかけに何を追いかけ、どこに焦点を結ぶのかは、多分に無意識化の反射的なはたらきに近くなる。次に目を向けるのは、階下に揺れる植栽か、今にも降り出しそうな空模様か、それとも向かいのマンションのベランダに干されたままの布団か――。焦点が結ばれる先は、ほぼ予想不可能だ。
あるいは、目の前のベランダの柵に偶然止まった、珍しい野鳥に気づき、そっとスマートフォンを取り出すかもしれない。レンズを向けるだけで、ほぼ自動的にピントを合わせることが可能になったという点では、カメラはまさしく人の目に近づきつつあり、実際、すでに現代においては「拡張された目」としての役割を順調に果たしている。発明当時、「記憶を持った鏡」と言われた銀板写真の登場から170年あまりが過ぎ、写真によって拡張された視覚は、すでに人間の世界認識に根深く陥入している。私たちはおそらく「写真以前」の世界を、当時の人間たちと同じようには二度と「見る」ことはできない。

そもそも「見る」ということ、それも「写真を見る」というのはどういうことなのか。レンズはたしかに、人間の目と同じようなはたらきをしている。しかし焦点の結び方には大きな差があり、人間の視野は基本的に主観の影響を強く受け、焦点はつねに揺れ動く。なにかを「注視する」場合の視野角にいたっては、縦横ともに数十度にすぎない。つまり「写真を見る」という行いは、カメラの目が映した世界を、もう一度、人の目で「見直す」という、奇妙な入れ子構造になっている。しかし、実際に写真を見る際に、それらのことはほぼ意識に上らない。では結局、私たちが写真の中に見出しているものとは何なのだろう?
本稿では、問いの答えに迫っていると考える、ふたりの写真家の作品を通じて、人が写真に見ているものとは何なのかを探っていく。

Print
:人の目はカメラを通した「写真上の世界」をどのように認識しているのか?

* * *

● 「近代の視覚」から逃れて

時間は、主観の中においては伸び縮みしたり、一瞬止まったりするように感じることもあるが、実際には、人間に時間をどうこうすることは不可能だとされる。私たちが思い浮かべる「止まった時間」のイメージというものがあるとすれば、その印象の多くは、静止画によっているのではないか。人間は、時間の止まった世界がどのようなものなのか、本当に知ることはできない。写真上に表れているかのように見える「静止した世界」は、カメラによる視覚の拡張がつくりだした錯覚にすぎない。その、写真を見ることで生じる「止まった時間」に関するひずみを、「写真によって」浮かび上がらせて見せた作品として、写真家・鷹野隆大による写真集『まなざしに触れる』(新城郁夫との共著、水声社、2014年)を挙げたい。

収録されている写真作品は、その名も「毎日写真」という、鷹野が日常的に撮り溜めているシリーズからの抜粋であり、全編がモノクロ写真によって構成されている。被写体はデビュー以来のテーマである男性ヌードを中心に、街角、食卓、路上に落ちる影、窓…とさまざまだが、一貫しているのは、それらがすべて、2枚ひと組みで並べられている点である。たとえばある頁を開くと、左右の見開きには一見、それぞれ似た構図の写真が収められている。白いシーツに仰向けに横たわる、若い男が一人。ただし、右頁では、軽く持ち上げられた男の左手は顔を覆い、表情を見ることはできないが、左頁では同じ構図ながら、手は額の上へと移り、掌は天井に向けてゆるく開かれている。男は目を閉じているが、撮影者に対して(もしくはレンズを向けられていることそのものに対して?)口元に軽く笑みを浮かべている。
また別の頁を開いてみる。そこではただ、窓に映る夕暮れの雲の影が、右頁から左頁へとかすかに移ろってゆく。

これらの写真を見開きで視界に収めた者は、多かれ少なかれ、「時の流れ」や「動き」を、おぼろげながらも、その2枚のあいだにそれぞれ思い描くはずだ。鷹野自身の言葉を借りれば、それは、「極めて不自然で人工的な」静止した世界をつくりだすものとしての写真像を、「ふたたび自然の中に戻す作業」であり、鷹野はそこに「写真によって制度化された近代の視覚から逃れ出るひとつの指針」を見る。[※2]
しかし同時に、そこに見出されているのは、2枚の写真のあいだをわずかに行き来する「時間の影」「動きの影」のごときものであり、淡い残像的な印象にすぎない。そしてその、気配の掴みどころのなさこそが、写真を「見る」ということの根源にある違和感のようなものを探る地点へと、私たちを繰り返し引き戻すのである。

Print
:それぞれは静止画だが、ポーズのあいだを補完する動作が予想される(撮影=筆者)

h
:自分の手を画面上で見るというのは、奇妙な感覚を伴う

自分の手を撮影する機会というのはそうそうないが、接写したことがある人は、その写真を見て、奇妙な感覚を覚えたことがないだろうか? 日常生活において、自分の手ほど頻繁に視界に入ってくるものはない。しかし、目を閉じて、見慣れているはずの自分の手を思い出そうとすると、意外にも細部は曖昧模糊としてくる。つまり、接写写真に覚える違和感というのは「見えすぎる」ことにある。人間の目(と大脳)は、見慣れたものほど「改めて見ない」ことによって情報処理の効率化を図っているというが、それは、自らの身体に限らず、自室、いつも通る交差点、仕事机の上、使い慣れたペン…といった見慣れた日常の構成物すべてに当てはまる。その意味でカメラという「拡張された目」はまさに、そうした日常的な認識から無意識に閉め出したものを回帰させるはたらきをするという側面がある。しかし、そのことは結局、「では、私たちはいつも〈何を〉見ているのか」という、冒頭に述べた、人間の視野そのものに対する、根源的な疑問を繰り返してしまう。

* * *

● 「未だ見ぬもの」に触れる

自分の目がなにかを映す。焦点を合わせた途端、周縁の世界は意識の水面下へと沈んでゆく。結ばれる焦点の位置そのものも刻々と移動し、まなざしはつねに、ゆらぎとうつろいの中にある。今年(2015年)の7〜9月にかけて開催された、鈴木理策の写真展「意識の流れ」は、まさにそうした「見ること」あるいは「見えていること」とは何か、という問いに、限りなく正面から応答した作品展だったと言えるのではないか[※3]。

鈴木は「カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置」であると言う[※4]。しかし同時に「人はたいてい、写っている対象が何かわかると、見るのをやめてしまう」とも言う[※5]。つまり「人は写されたイメージに意味を見出そうとする。だが、意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい」のだと[※6]。
「意識の流れ」展の展示作は、鈴木理策がライフワークとする、故郷熊野の風景を、8×11インチという大判フィルムで撮影した作品が多くを占めている。しかし、多くの作品においては、風景はほとんど(そんなことはあり得ないのだが)、実際にはどこにも存在しないのではないかとすら思えるほどに匿名的であり、その裏返しとして、記憶のどこかで、あるいは視野の片隅で「見たことがあるかもしれない」と思わせる、奇妙に透き通った既視感を放っている。

2004年以降、鈴木は熊野に軸足を置きながらも、雪の季節になれば北海道の十勝岳へ、また桜の頃になると吉野へ出向き、それぞれ《White》《Sakura》というシリーズで、相互に貫入し合うような、一連の心象的作品を発表してきた。撮影地は公表されているものの、桜にしろ雪にしろ、白さの際立つ印画紙の上には、具体的な場所や時間をうかがわせるものは何もない。作品の多くは、画面の大部分を、淡い光の雲のような花の影に(あるいは白雪の影に)覆われ、それらを透かして見るように、光のあいだから見え隠れする、はるか高みの枝へと、その先の蒼穹へと、あるいはただ一面の白い雪明りへと、視線は一箇所に焦点を結ぶことなく、印画紙の奥へとさまよっていく。

鈴木は、《Sakura》にこのような言葉を添えている。

来年咲く桜を思い描く時、過去に出会った桜の記憶によるものなのに、
私にはそれは未だ見ぬものに思われる。

人は見たことのないものを「どこかで見たかもしれない」とふと感じたり、自らの過去の心象風景を、ときに自分からは遠く切り離されたもののように眺めたりする。見えるもののゆらぎの端は、見えないものの気配にすでに触れているのではないのか。その「白い」作品の前に立ったとき、おそらくは誰もが、無意識のうちに、かつて見た桜や雪の風景に明滅していた光の気配を、あるいはそれらしき何かを、その向こうに感じるように。それは、具体的な焦点(意味)を結ぶことへの抵抗というよりは、やはり「見えている」ものと「いないもの」とのあいだのゆらぎと、それでいてなお圧倒的なめざましさを、「拡張する目」のなかにとらえようとする試みなのではないだろうか。

 


※1 ノヴァーリス『断章』小牧健夫・渡辺格司訳、1942年
※2 鷹野隆大・新城郁夫『まなざしに触れる』水声社、2014年
※3 鈴木理策写真展「意識の流れ」東京オペラシティ、2015年7月18日〜9月23日 http://www.operacity.jp/ag/exh178/
※4 同展展示より
※5 http://www.operacity.jp/ag/exh178/j/interview.php
※6 同展展示より

 

文字数:4132

課題提出者一覧