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曲線のさしかかる場所に

《消印 昭和21年4月15日 富久田●子宛》
フクちゃん、其の後あいかはらず元気でススンデいますか[※1]。
御懐かしいお便りを有難うございました。しばらくご無沙汰してしまって、どうしていらっしゃるのかと思っていた所ですの。
花の波、人の波と春風に誘はれて、人の足も潔く繁々くなる中、毎日家にくすぶっております。
Y先生が満州で亡くなられたそうです。それ以外の消息は不明です。
あんな先生と”死”といふことは、どうしても一緒に考えられませんのにね。
お友達も学校から一人去り、一人去りして、本当に淋しくなりますわ。
私も退学しようと思って居りますの。そして、洋裁や、お花や、お茶を習ほうかと思ったりして。
でも、これからは永久のお休みなんでせうか。本当に学生生活も学問もこれでおしまいなのかしら。
私達の前途は、全く希望の薄い、暗黒なる世界の様な気がします。
今日から、モンペと甲型標準服を縫はうと思っているのよ。空襲がなくなっても、モンペは要るわね[※2]。
本当に世は春です。道ばたの雑草の中よりはこべの先など見つけると、伊丹の工場通いの路が懐かしくなって来ます。
それにつけても、伊丹の工場で、壕で、寮の夜、勉強したりお話したりした事が懐かしく思ひ出されるわね。
夜勤のとき、よくさぼったものネ。オジジの目をぬすんではスタンドの下でボソボソと話したものネ。
ボール盤が想ひ出されるわ。食堂、お風呂、朝の出勤。あんな時はもう二度と来ないわね。
同胞相食むさながらの世の中、お互いに各自の道は正しく明るく生きませうね。
そしていついつまでも、心の友、学びの友として、身は隔つとも心は常に通はせませう。
いつかいっしょに映画見に行きませうよ。決っとね。又アメリカの映画が入って来るでせう。
今頃の季節になると去年の寮の暮らしのことが想われてなりません。よく頑張ったものね。
では又御便り致しませう。貴女もね。ご機嫌よう。

かしこ 大原●子
富久ちゃん みもとに

もう10年も前になる。2005年4月25日、JR福知山線で、死者107人、負傷者562人という戦後最悪の鉄道事故が発生した。脱線事故が起きたのは、ちょうど「塚口」と「尼崎」という二つの駅の中間あたり。快速列車が塚口駅を通過して1kmほど走行した、名神高速の高架近くでカーブにさしかかる地点だった。脱線した列車は、先頭車両がカーブに隣接して建つマンション1階の駐車場部分に時速100kmを超えるスピードで滅茶苦茶に損壊しながら突入、後続車両も、頭を押さえられた蛇のように次々に建物に巻きつくかたちで大破し、1・2両目に乗り合わせた乗客の多くが命を落とした。当時、大学生だった私は、関西方面に電車通学しており、また、父親が当時、尼崎に通勤していたこともあって、このニュースについては何かしら強烈な印象を持った。しかし、事故現場については「尼崎付近」程度にしか把握しておらず、「塚口」という現場の最寄り駅の名は、記憶には留まらなかった。その数年後、私はある目的で福知山線に乗り「塚口」で下車することになる。

大学を辞めて、先の展望もないまま、京都市内の書店で働き始めた頃だったように思う。ある日、実家の土蔵を整理することになり、不要品を外に持ち出したり、天日干ししたりしているうちに、奥の押入れから書簡がぎっしりと詰まった小ぶりの竹行李が出てきた。消印を見ると、昭和15年から20年あたりのものが大半で、すべて「富久田●子様」と、宛名が書かれている。父方の遠縁の女性らしく、苗字こそ自分と同じではあるが、一度も会ったことのない人だった。すでに他界しているらしいこともわかった。なぜか興味を引かれ、受取人が亡くなっているらしいのをいいことに、私は書簡の束を行李ごと自室に持ち込み、消印が古い順に並べて読み始めた。

書簡の多くは女学校の級友たちからの便りだった。日常的な学生生活をしたためたものが大半を占めており、彼女たちの記述によって、私は富久田●子がどうやら達筆であり、水泳部の選手であったらしいことを知った。昭和17年に入ると、書簡の中には「軍事郵便」のスタンプが押された、出征中の縁者からとおぼしき中国からの便りが混ざるようになる。昭和19年に入ると、富久田●子の宛先は、京都の自宅から「兵庫県伊丹市 三菱電機 報国寮」へと移り、同級生からの書簡にも「ボール盤」「フライス盤」といった工業用機械の名が現れるようになる。たしか母方の祖母も戦時中、京都の女学校から阪神地域の軍需工場へ動員されたと聞いたことがあるが、書簡の受取人である彼女は、どうやら三菱電機の伊丹製作所に動員され、戦闘機の部品らしきものを造っていたようだ。私にはそれがいかなる作業なのか、ほとんど想像してみることができない。級友からのある手紙には、動員中に応援で派遣された近隣の工場で、同年代の女学生が間近で、機銃掃射の犠牲となったらしいことが、たった一文、簡潔に記されているものがあった。終戦の年、昭和20年は家族からの送金など、事務的な通知に終始する。最後の一通は、終戦後、半年以上の空白を挟んで、昭和21年春の消印だった。宛先は京都市内へと戻っている。書簡は大原●子という親しい同級生からのもので、冒頭の手紙はそれである。

その手紙はいまも手元にある。この一通だけを、私は上京する際、わずかな罪悪感を覚えながら、本の間に挟んで持ってきてしまった。パラフィン紙のような薄い便箋に、青インクで達筆に綴られた手紙は、長らく土蔵の奥にしまわれていてなお、年月による経年劣化を全く逃れられていない。少し力を加えるだけでも、簡単に破れてしまうだろう。この頼りない手触りの便箋から、大原某という彼女が、70年前のある日にしたためようとした、なにかしらの感慨を、現代の私が正しく読み取れようはずもない。差出人の彼女と受取人である「富久田●子」の間にいかなる友情があり、終戦前後に二人がどのような状況に置かれたのか、コンテクストもわからない。この書簡から何かを読み取れたような気がしてしまうのは――傲慢にもさながら自分に宛てられたもののようにして読んでしまうのは、おそらくは宛名が呼び起こす錯覚・幻想に過ぎない。マンションに激突する脱線車両の一両目に偶然乗り合わせた者の見た、同じ風景を見ることが絶対に不可能であるのと同様に、戦争に負けていく国に、偶然、十代を、本来持ちえたはずの人生を奪われて生きねばならなかった大原●子や富久田●子の見た日本を、「わかるような気がする」などと、どうして言うことができるだろう。だからあのとき、伊丹の工場のあった場所を見に行ったのは、おそらくは単に、自分が当時感じていた喪失感のようなものと、あの書簡の印象が、偶然共鳴したことの延長に過ぎない。そこにはもはやなにもないことを知りたかっただけだったように思う。

三菱電機の伊丹製作所が現在もまだ、かつてと同じ場所に工場として存続していることを知ったきっかけがなんだったのか、いまとなっては思い出せない。ネットの地図サービスで、その、広大な工場の敷地を眺めたときにはもう、出かけていくつもりだったのだろう。京都からのルートを確認するために、すぐ横を通る福知山線の路線をなんとなく目でたどった先に、見覚えのある曲線を見出して、あっと思った。すぐ先には尼崎駅があった。それはまぎれもなく「あのカーブ」だった。工場の敷地から、距離にして500メートルほどだろうか……。事故からはすでに数年が経過していた。

京都駅から電車を乗り継ぎ、事故が起きたルートを尼崎から逆にたどる形で、私は「塚口」へと向かった。やがて車窓から、ニュースで何度も見たあのマンションが、いまもそのままの姿で、あの場所に建っているのが見えた。

尼崎はいまでも工場の町だ。JRの塚口駅の駅前は、文字どおり何もない。その日は曇りだったような気がするが、よく思い出せない。三菱の広大な工場の横をしばらく歩き、私はかつて小さなハコベの花が咲いていたという、寮から工場へと、女学生たちが歩いて通った道のりを思い浮かべようとした。それは文字どおり想像でしかなかった。歩いて駅前まで戻り、私は電車に乗らず、そのまま駅を通り過ぎて福知山線の線路沿いを、尼崎方向に向かって歩いた。さしたる考えもなく、例のマンションを間近に見てみようと思ったからだ。墓標と化したその姿が近づいてくるのを、じっと眺めながら歩いたのを覚えている。建物の周辺は金網を張った柵で囲われていたが、一階部分の壁に残された痕跡ははっきりと見て取れた。傍に献花台があり、いくつか花束が供えてあった。日が傾きはじめていた。あたりには誰もいない。急に静けさの中から、なにか言葉にならないものがこみ上げてきて、私は足早にその場を離れた。

そのまま呆然と歩いて、尼崎駅前の賑わいの中に出て、私はさらにそのまま歩き続けた。もう一箇所、行ってみようと思っていた場所があったからだ。駅前に建物ごと保存されている、昭和初期に建てられた旧開明小学校の外壁には、一面に機銃掃射の弾跡が残されているという。それを見ておこうと思った。弾跡はたしかに一面に白く穿たれてそこにあった。しかし文字通り、そこにあるだけだった。私はその跡に触れ、着弾の音を想像しようとしたが、それは映画の効果音の域を出なかった。脳裏に、その場に倒れる一人の少女の背中から、血が流れ出すさまが過ぎった。すぐにそれを打ち消した。
私はただ、自分の感傷にまかせて見ようと思ったものを見たに過ぎない。曲線の差しかかる場所に、私はいなかったのだから。
それでも「●」に、世の無数の名の位置に、なぜ自らの名を代入し続けることしかできないのか。


※1 「フクちゃん」は1930年代から戦後まで、断続的に新聞に連載された、横山隆一による四コマ漫画作品の主人公。いがぐり頭に学生帽、下駄履きといういでたち。「ススメ!フクチャン」は1940~41年のシリーズ。
※2 甲型標準服は、「戦時下の女性にふさわしい衣服」として政府が定めた標準服のひとつ。ワンピースに和装の襟をつけたデザインは不評だったという。

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