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〈みづうみ〉をめぐる円環と時のない水

「僕のあとをつけて来たんだね」と銀平は女に言った。
「つけて来たというほどでもないわ。」
「僕が君の後をつけて来たんじゃないだろうね。」
「そうよ。」                                 (『みづうみ』川端康成)

そうよ、の微妙なニュアンスによって、奇妙な会話は円環する。そうだともいえる。そうでないともいえる。後をつけているようでいて、その実、つけられているのかもしれない。いずれにせよ、同じところを中心にぐるぐると互いを追いかけていくのであれば、どちらかが追い詰め、追い詰められないかぎり、追う者と追われる者はあいまいな距離を保ち続ける。追跡者の側に、追いかけることの快楽があるように、追われる者にも受動者の快楽があるというのは、倒錯した関係妄想だが、主人公・桃井銀平が、半ば気の触れた切実さで後をつけていく女たちは、ときに追われることに恍惚し、「先生、また私の後をつけて来て下さい。私の気がつかないようにつけて来て下さい」などと囁く。水木宮子の場合においてもそれは同様で、銀平は「麻薬の中毒者が同病者を見つけたよう」に、あるいは「同じ魔界の住人を見つけたように」、街中で見かけただけの彼女の後を、忘我のうちに追っていくのである。それは白昼夢のように朦朧と閉じた世界だ。

「しかし、あぶないねえ。」と老人は言った。
「鬼ごっこという遊びがあるが、男にたびたびつけられるなんて、悪魔ごっこじゃないの?」(同)

銀平は追っていく。教え子の玉木久子を、銀杏並木の道で見つけた美少女・町枝を、自分と同じ〈魔〉を垣間見せる水木宮子を、愛憎半ばする幼なじみの従姉の面影を、その向こう側に〈みづうみ〉のほとりの町で死んだ美貌の母を。同時に、銀平は追われている。図らずも宮子から盗んだ大金に、生死のわからない赤子の存在に、街娼に、自らの醜い足に、〈みづうみ〉で変死した父の幽霊に。
鬼ごっこのルールに本来明確な「終わり」がないように、〈みづうみ〉を中心に病的に円環する美と醜の、母・子の、あるいは父・子をめぐる追走の連鎖は、小説世界の中で半ば永遠のようにすら思われる。

桃井銀平は、その少年時代を「母の古里」である美しい〈みづうみ〉のほとりの町で過ごした。二つ年上の従姉・やよいに幼い思慕を寄せながら岸辺に遊ぶ日々は、やがて、父親が〈みづうみ〉で変死体となって発見された事件を機に、軋みをあげ始める。里の人々は銀平の一家を疎むようになり、美しい従姉も銀平に残酷な言葉を投げつけるようになる。
やがて銀平は町を出て出兵し、やよいは海軍士官と死別して未亡人となる。銀平にとっていつしか故郷は縁遠いものとなっていた。

みづうみには霧が立ち込めて、岸辺の氷の向こうは霧にかくれて無限だった。銀平は母方のいとこのやよいを、みづうみの氷の上を歩いてみるように誘うよりも、むしろおびき出したものだ。少年の銀平はやよいを呪詛し怨恨していた。足もとの氷がわれてやよいが氷の下のみづうみに落ちこまないかという邪心をいだいていた。 (同)

円環の目である〈みづうみ〉は、「時のない」場所である[※1]。
幼い日の冬、やよいと手をつないでその氷の上を歩いていくと、手からは力が抜け、つないだ手は離れ、従姉は岸へと戻ってしまう。二つ年上の彼女はもう十四、五歳である。もし手を離さなければ、彼女を氷の下に沈めることができたのだろうかと銀平は考える。
「後をつけなければ、二度と会えぬ世界に見失ってしまう」「この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね」という銀平は、いわば〈ゆきずりの永遠性〉ともいうべき矛盾したものに手を伸ばしている。しかし、そもそも銀平の世界には、瞬間も永遠もないように思われる。そこには過去にとらわれてゆがんだ時空間が、夢のように連鎖するばかりだ。

『みづうみ』は1954年の「新潮」1~12月号に、一度の休載もなく連載された作品である。ただし、この雑誌掲載版と、現在手に取ることができる版では、結末が異なっている。「新潮」版は、最終回で物語の始まりと終わりがつながり、逃亡者として夜の軽井沢に現れた銀平が、再びバスに乗っていずこへか去っていく場面で終わる。ところが、1955年4月に単行本として発刊するにあたって、川端康成は、連載第11回の後半と、最終回の全文を削除し、あえて一度はできあがっていた物語の円環を壊し、「未刊」状態としたうえで本作を刊行した[※2]。結果として、物語の時系列が、どの時点を起点としているのかが判然としなくなり、ただでさえ回想の入れ子構造が頻発する描写によって、終盤ではほとんど現実感は失われ、作品全体が夢に絡めとられてしまったようにも思われる。作劇上の大きな円環が断ち切られた作品世界において、跡に取り残されたように、小さな円環のモチーフが随所に見え隠れする。銀杏並木の幻想、地面の裏の赤子の幻想、そしてくりかえし回想される従姉の姿・・・。

そもそも、作品に妙な悪夢性を加えているのが、〈ゆきずり〉の出会いに異常なまでに執着する主人公に反して、作中に現れる登場人物たちが、ほとんど何らかの縁故でつながっているという設定である。
銀平が町で見かけて思わず後をつけていく水木宮子は、ある資産家の老人の愛人なのだが、その有田老人は、銀平がかつて勤めていた学校の理事長である。さらに、水木宮子の弟の友人・水野には町枝という美しい恋人がいるが、あるとき、銀杏並木の道でその町枝を見かけ、後をつけていくのは、ふたたび銀平なのである。ともすると、小説全体が有田老人がうなされている悪夢の一端なのではないかとすら思える。

桃井銀平は夏の終り――というよりも、ここでは秋口の軽井沢に姿をあらわした。(同)

『みづうみ』の冒頭はこの一文から始まる。そして本来はここへと戻ってくるはずだった。「姿をあらわした」という文言が、銀平の犯罪性、ある種の神出鬼没性をどことなく匂わせる。罪人のように、夜の軽井沢で不審な行動を取る銀平は、作者による「続き」の削除によって、前後の接続を失った主人公である。しかし、この宙に浮いた軽井沢のくだりは、それでいて回想がもっとも美しく接続されるパートでもあるのだ。なぜ作者はあえて円環を断ち切ったのか。
そもそも、終盤の描写を追っていくと、銀平は、追跡の円環から自ら脱しえたのではないかとも思えるのである。以下の蛍をめぐる一連の描写がそれにあたる。

銀平はこのごろでもときどき、母の村のみずうみに夜の稲妻のひらめく幻を見る。ほとんど湖面すべてを照らし出して消える稲妻である。その稲妻の消えたあとには岸べに蛍がいる。岸べの蛍も幻のつづきと見られないことはないが、蛍はつけ足りで少し怪しい。 (同)

銀平はただそうしてみたかったので、なんのためともなかったのだが、自分の心を少女の体にともすように、蛍籠を少女のバンドにひっかけたと、後からは感傷で見られるだろう。しかし少女は蛍を病人にやりたがっていた。そのために銀平は蛍籠を少女にそっとくれたのかとも思えるのだった。 (同)

銀平はここでは、母の里の〈みづうみ〉の記憶に直結する蛍籠を、ほとんど気まぐれのように少女に預け、その場を立ち去っていく。母に、従姉に連なる憧憬を、蛍籠に封じて町枝に渡したとも読めるのである。この後、小説の描写は一転して現実の醜さを押し出したものになり、ほのぐらい現実の不気味さが銀平の意識を覆っていく中、断ち切られて終わる。
意識の底にはただ、霧に閉ざされた無人の〈みづうみ〉のイメージだけがつめたく残る。水をたたえた湖面は小説上の「時」すら存在しないかに思われる。圧倒的な〈目〉である。


[※1] 「湖の多くは遠いむかし地の奥から火を噴きあげた火口に水をたたへてできた。火はしづまる時が来るが、水には時がない」(『湖』「まへがき」有紀書房、1961年)
[※2] 「川端康成『みづうみ』の基礎研究 ――作品「みづうみ」はいかに構築されているか――」田村充正参照

 

 

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