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「そこにいない」者たちの現実性

2015年2月4日、Twitterのタイムラインでは2つの映像が話題となっていた。
1つは台北市内を流れる川にプロペラ機が墜落する瞬間を、1台の車載カメラがとらえた映像。河川横の高架道路を淡々と走る車の「視界」の隅に現れた機体は、またたく間に接近、あわや衝突…というギリギリのタイミングで急旋回し、腹を見せながら河川に消える。機体が高架を掠めた瞬間に飛び散った破片が、少し遅れて車の屋根に降り注ぎ金属質の音が響く。この、日常が突然破壊されるショックに満ちた「映画みたい」な映像は世界中にシェアされ、事故の悲劇性そのものよりも話題を集めた。もう1つが、日本時間の同日未明に公開された「イスラム国(IS)」によるヨルダン人パイロットの焼殺映像である。こちらについては後ほど述べる。

「監視カメラは見た…」ではないが、公共に設置された固定カメラからスマホまで、カメラレンズと映像に囲まれた世の中で、あらゆる素材は発見され、加工され、シェアされ、あるいは発見されずにただ記録されていく。このような時代における「何が映画的か」という問いは、もはや「何が現実的か」という問いの反転にも等しく、「すべての現象は映画的であり得る」などという非生産的な解答も誤りではないように思える。そのうえで「映画的なもの」「映画的でないもの」を映画のために考えていくための前提として、まずそれが作り手側の意図によるものを指すのか、それとも受け手側の受容の仕方を指すのかを分けておく必要がある。本稿では後者について述べる。

「映画的なもの」を考える際、この2015年において過酷な踏み絵の1つとなったのが、冒頭で触れたISによるパイロットの焼殺映像だろう。22分程度の映像はパイロットがISへの空爆について懺悔させられている(と思われる)長い独白映像に始まり、鉄柵の中で生きたまま焼殺され、瓦礫に埋められるという残虐極まりない内容である。不気味なのはそれがまさに「映画に見える」ことである。高画質であり、複数台のカメラが用意され、カット割りを計算して撮影されたことが伺われる。全編にわたる過剰なグラフィック、BGM…。何者か、虐殺現場にカメラを周到にセットし、計画的に撮影し、時間をかけて編集・構成した匿名の人物がいるという事実に寒気がする。まさかとは思うが、撮影のためのキューすら出していたのではないかと思えるほどの過剰演出である。
映画監督の想田和弘はTwitter上でこの映像に触れ、過去に公開された動画の中でも際立って「ハリウッド的」であり「映画の文法」を知る者によって作られていることを指摘する(※1)。東浩紀はそのハリウッド的演出の意図として「イスラム国は、残虐な現実をつきつけ、ぼくたちを恐怖で支配しようとしているのではない。むしろ彼らは、なにが残虐でなにが残虐でないのか、なにが恐怖でなにが恐怖でないのか、その境界そのものを破壊しようとしている」のではないかと述べ、危機感の認識を促している(※2)。

あらゆる映像は自由自在に加工され、実写と錯覚させる映像をバーチャルにゼロから作り出すことすら可能となった。虚構が現実の中に自然と流入してくる中、「リアリティ」という碇をどこに下ろせばいいのか、そもそも下ろせるのか、幻惑された時代に私たちは生きている。すなわち今日における「映画的なもの」とは映像が抱える虚構性(フィクション)そのものであり、見る者の視座を揺るがすものであると考える。それは見ているものがフィクションかどうか(その意図があるかどうか)を、コンテクスト抜きに判断できないということでもある。そのことを巧みに利用した例として、たとえば「指差し作業員」を挙げたい。2011年8月28日、福島第一原発内に設置された「ふくいちライブカメラ」の前に防護服姿で現れ、カメラに向かって指差しをする作業員の映像は、そのゲリラ性や正体、何を訴えているのかが話題を集めたが、やがてそれが美術家のパフォーマンスであったことが判明するに至って、映像は急速に虚構性を失い「映画的ではなくなり」、アートというコンテクストに分類されて収束する(※3)。

トリュフォーやゴダールを輩出した『カイエ・デュ・シネマ』誌を創刊し、「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と称されるアンドレ・バザンは、映画には現実を写し取る力があるというリアリズムに立脚した批評を確立し、新しい映画の時代を切り拓いたと言われる。しかし、フィルム時代のバザンの指す「現実」は現在も有効なのか。デジタル化はバザンのリアリズムを過去へと葬ったのではないか。映画批評家の三浦哲也は自著『映画とは何か』において、近年の盛んな「バザン再解釈」の成果を紹介し、中でもダドリー・アンドリューの以下のような指摘がバザンを過去のものと位置づけることへの説得的反論だとしている。

アンドリューの指摘で重要なのは、バザンのイメージ論の核心にあるのが「見えるもの」の転写である以上に、「見えないもの」を間接的に示す鋳型の論理であることを明らかにしている点である。
(中略)
アンドリューは言う。「それ自体では本質的に無である映画は、そもそもすべて翻案に属しており、映画がそう成るように導かれたもの、来るべき未来においてそう成るかもしれないものとして在るのだ」 (※4)

三浦はさらにこの「見えるもの」「見えないもの」について、「それは『想像的なもの』の現実性をめぐる思考」であるとし、バザンのリアリズム論は虚構が流入する現代社会において「世界の『新しい現実』」をめぐる思考たり得るとする。
では具体的に映画はこの先、どのようにリアリティを獲得することができるのか。この時代に”ノン”フィクションとして「現実性」を依然期待されているドキュメンタリー映画の手法にヒントを得たい。
1本は2003年公開の『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』であり、もう1本は2012年公開(日本公開は2014年)の『アクト・オブ・キリング』である。2作品はどちらも東南アジアにおける過去の大量虐殺をテーマとし、当時の加害者・被害者が実際に出演して「過去の虐殺の”再演”」を行うというきわどい手法に共通点がある。『S21…』はカンボジア、『アクト…』はインドネシアを舞台とし、カンボジアではクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が権力の座から退けられたのに対して、インドネシアは虐殺者側の政権・歴史が続いている点で大きく背景が異なるが、いずれの国でもかつての加害者と被害者が隣り合って生きねばならない状況がある。

『S21…』で監督のリティ・パニュは,現在はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館となっている「S21」に、加害者側の元看守たち(多くが当時20歳以下の少年)と、わずかな生存者(2万人近く収容されて生還したのは10人に満たないとされる)を集め、その対話を撮影する。生存者に対峙し、元看守たちは表情を強ばらせ、硬直した言葉でしか話すことができない。しかし、S21を舞台に実際に看守としての過去の「ルーチンワーク」を再現する段になって、彼らは驚くほど自然な仕草で躊躇なく振る舞って見せるのである。そこには言葉にすることができない、恐ろしい映像的リアリティがある。

例えば囚人を尋問に連れて行く時には、まず手錠を掛け、次に目隠しをし、それから足かせを外す。順番はこれ以外にはあり得ず、この仕草は間違えようがない。日常生活の仕草に関しては、順番の混同があったのですが、訓練された行為は、身体に染みついてしまっていたのです。虚偽の告発を強いる時、棒で殴る時、拷問をする時などの動作は全部教えられたもので、彼らはそれを手順通り忠実に再現したのです。(山形ドキュメンタリー映画祭・リティ・パニュへのインタビューより ※5)

一方で、『アクト…』に登場する虐殺者たちは饒舌である。 元々ヤクザ者だった彼らは現政権と癒着し、カネと権力を手にして自由を謳歌している。ジョシュア・オッペンハイマー監督は、1000人近くを殺害したというアンワルというリーダー格の老人にカメラを向ける。どこか愛嬌のある風貌のアンワルは、ある薄汚れた狭い屋上で、先端を柱に括ったワイヤーを手に、それを仲間の首に巻きつけて引っ張るフリをし、当時の絞殺方法を実演しながら「この方法ならあまり血が出ない」と悪びれなく言うのである。彼らは自らの行為が客観的に残虐だったと認めながら、その残虐さを露悪的に誇ることで罪の認識を遠ざけているようにも見える。アンワルらは監督の求めに応じて次々に「虐殺の再演」(彼らは加害者側のプロパガンダ映画を撮ると思い込んでいる)を演じ始める。映画好きのアンワルは、俳優気取りで撮影に指示を出しながら、しかし「被害者側」も自ら演じ、それを映像で見るうちに、虐殺された者たちへの共感に追い詰められていく。

カメラの有無に関わらず、彼らの言葉の信憑性をはかるのは困難だ。むしろ、2本の映画に共通するのは「カメラに映らない」ものの濃密な気配である。元看守が掴む見えない足かせの先に、虐殺現場で嘔吐するアンワルの足元の影に、そこにいない者の存在(不在)が喉元にせり上がるようにふいに迫ってくる。それを「『想像的なもの』の現実性」と呼ぶのは誤りだろうか。


※1 https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/562673678937518081 からの一連のツイート
※2 ゲンロン観光地化メルマガ #30・巻頭言
※3 http://pointatfuku1cam.nobody.jp/
※4 『映画とは何か』(三浦哲也・著/筑摩選書)P.71~72
※5 http://www.yidff.jp/interviews/2003/03i027.html

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