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存在の”寒さ”を再確認するために 〜『朝日のような夕日をつれて』1981→2014〜

2015年6月12日の昼休み、いつもの習慣で何気なくGoogleニュースを開いてハッとした。
ヘッドラインに労働者派遣法関連の見出しが大きく表示されていたからだ。

  •  3年ごとに仕事見つかるか 派遣法改正案に不安の声
  •  派遣法採択19日以降に、自・民・維が大筋合意
  •  民主党、旧社会党に先祖帰り ピケとヤジで審議妨害

ピケとヤジで…の記事の横の写真では、押し寄せる民主党議員たちの群れに、厚労委員長がマンガのようにモミクチャにされている。
派遣労働者というものはクビにしやすい労働力確保のため、3年ごとに色んな職場をタライ回しにするべしという方針を打ち出した今回の改正案。過去国会で2回も廃案になったことから”呪われた法案”などと呼ばれていたが、それがついに可決されるらしい。
asahi.comで関連記事を読み、twitterリンクをクリックしてみると、日の丸や日章旗を付けたアイコンが嬉々として民主党の審議妨害を罵倒していた。虚しくなってページを閉じた。まわりはいつもの静かで眠たい昼休みだ。
もしもこの瞬間、離れ離れの席でお昼を過ごしている派遣社員たちがわらわらと立ち上がって連帯し、それぞれの不安や憤りを声に出して言ってみたらどうなるのだろう。一瞬、空気が凍るだろう。その後で人事部か派遣会社の営業がやってくるだろう。
だだっ広い真昼のオフィスフロアの中で、あるいはどこにいても、私たちは一人ひとり分断され、間に色んな見えない線を勝手に引かれ、あるいは自分から線を引き、いつの間にかもう誰とも本当の言葉で話したり聞いたりできなくなってしまったように感じた。

安保や普天間に揺れる毎日のニュースを見ていると、確かに私たちは、引き伸ばされた昭和の文脈の上を生きているように思われる。しかし一方で、これは本当に”続き”なのだろうかと疑問にも思う。なぜ自分の国に対してこれほど「所属してない感じ」を覚えなければならないのだろう。排他的で、自由になるのが下手で、あら探しが好きで、民主主義がいつまでも定着しない国。
2000年代の終わり、日本は利権まみれの政治や官僚たちに一度はすっかり愛想をつかして、変革へと大きく舵を切ったはずではなかったのか。舵取りの精度が悪かったのか、そもそも満足な舵板がなかったのか、一世一代の方向転換は手痛い失敗に終わった。しかもその失敗の傷口を、震災と原発事故が最悪のタイミングでえぐっていった。伸びきったゴムがある日パチンと切れたように、猛然と逆戻りを遂げた日本。それは元通りになったというよりも、まだそこに生々しく見えている傷口の存在を忘れ、株価という痛み止めだけを頼りに、劣化して得体のしれない「2周目の戦後昭和」へと迷いこんでしまったかのように思われる。

“今に見てみい、あと数年で、この国の人間は、みんな泣きながら竹ヤリ持って走るようになるでえ。神を待たず、膨張を続けた国の、それが宿命なんや!”   (※1)

――頭の中に響く妙な関西弁は、なぜか筧利夫の声で聞こえてくる。
私は2015年の今、30年以上も前に書かれた戯曲を持ち出そうとしている。
しかし、竹ヤリ…はともかくとして、今しがたの台詞はどことなく昨今のこの国の状況を皮肉ったもののようにも聞こえはしないだろうか。もっとも83年生まれの私は、当時の第三舞台を映像でしか知らない……。

“振り返って悲しむほど、お前は生き伸びてるのか。昔なんてないだろう。おおげさに悲しむほどの昔なんて”  (※1)

――大高洋夫も、頭の中でそんなことを言う。
そうかもしれない。確かにこれまでもこれからも、戦争もなければ命がけの政治闘争もない。平知盛は死ぬ間際に「見るべきものは見つ」と言ったが、私たちの世代は特に何も見るべきものもなく順調に終わっていきそうだ。とはいえ、十代で情報技術革命という人類史に残るビッグウェーブに遭遇しているはずなのだが、いまいち実感がない。インターネットは最初、地味に現れたと思ったら、あっという間に常時接続が当たり前になってしまった。要は自然と慣れてしまったのだろう。
もし別の人生も経験できるとしたら、70~80年代ぐらいの東京で、学生生活を送ってみたかった。ネットにつながらない空気の中で、あちこちのテント芝居や怪しげな小劇場に入り浸るのだ。

鴻上尚史率いる劇団、第三舞台が『朝日のような夕日をつれて』で旗揚げ公演を行ったのは1981年。場所は早稲田大学大隈講堂裏の桟敷テント。70年代以降、日本の演劇シーンはなぜか早稲田に代表されるように、こうした大学の演劇研究会などを母体とする学生劇団群によって活況を呈し、やがて大学の外へと大きなうねりを生み出していった。戯曲を書いた当時、鴻上は22歳、同世代では野田秀樹が東京大学演劇研究会を母体としてすでに「夢の遊眠社」を立ち上げていた。第三舞台はやがて遊眠社と共に「小劇場第三世代」と呼ばれるムーブメントを築き、80年代の熱狂的な小劇場ブームを牽引する存在へと成長してゆく。その柱となった戯曲がこの『朝日のような夕日をつれて』だ。1981年→83’→85’→87’→91’→97’、そして17年ぶりとなった2014年へと、年号・世紀をまたいで繰り返し劇場にかけられてきたこの作品は、再演のたびにネタが古くなった部分の台詞を全面的に書き変えて上演されている。つまり、自然と時代のメルクマールとなることが意図されており、ウラジーミルとエストラゴンたる大高洋夫と小須田康人が時代を超えて舞台に立ち続けることが、その構図をより強固なものにしている。80年代初頭、核戦争の危機が遠いながらもリアルだった時代から、チェルノブイリを経てバブル景気へと至る80年代後半、阪神大震災・オウム事件後の90年代後半、IT革命、東日本大震災を経て2014年へ。たとえば以下のような台詞は普遍的だが、2014年現在耳にすると、当時とは違った文脈があぶり出されてくる。

” ゴドー1:最近は、
ゴドー2:えっ。
ゴドー1:いえ、最近は……。
ゴドー2:やりにくいですな。
ゴドー1:やっぱり。
ゴドー2:何考えてるのか。
ゴドー1:何感じているのか。
ゴドー2:さっぱり分からない。
ゴドー1:だって、
ゴドー2:だって?
ゴドー1:自分のことさえ、わからない。
ゴドー2:そんな……。
ゴドー1:そうでしょう。
ゴドー2:……そうですね。”            
  (※1)

『朝日のような夕日をつれて』にはあらすじと言えるような物語がない。
舞台は、戦前に書かれたサミュエル・ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』をベースに、2つの世界が交錯しながら進んでいく。1つはゴドーを待ちながら暇つぶしに興じる男たちがいる「ゴドー待ち」の世界。もう1つは架空のおもちゃメーカー・立花トーイで「究極のおもちゃ」を編み出そうとネタ出しにいそしむ男たちのいる世界。5人の役者が場面転換のたびにそれぞれ複数の役を渡り歩き、終盤にかけては「みよこ」という1人の女性が抱える不安(と不在)を軸にすべてが渾然一体となっていく。どちらの世界でも役者たちは作中で「小劇場病」と自ら揶揄するような過剰な身振り手振りや、「一瞬の沈黙も作らないぞ」と言わんばかりの強迫的な早口で台詞をまくしたて、飛び上がってステップを踏み、くだらないネタを開陳し、汗だくになって全身全霊で遊び続けるのである。「暇つぶし」のために。

その名も『昭和演劇大全集』…というNHK番組で本作の87年公演版が放映された際、解説を担当した批評家の渡辺保は、作品としては「もう少し前衛的なものが好み」であり「地方から出てきた孤独な学生層を相手にしているのでは」と、自分の世代の感覚にはそぐわないのだと発言している。戦前生まれの氏の率直な感想だったのではないかと思う。理由の数割は本作のネタ部分が当時の若者文化に依存していたこともあったかもしれない。「明るい虚無」というキーワードは今や鴻上作品の代名詞のように言われているが、本来は北村想が『寿歌』や『シェルター』といった核戦争後を描いた自作に対して使った言葉だ(※2)。80年代は冷戦を背景に国内外のSF、映画等も含めて「”核戦争後という舞台設定”ブーム」と言ってもいいほど、この種の想像力が喚起された時代だった。「核で終わった世界+表層の笑い→虚無」という作りは何か若者の自意識をくすぐるところがあるのか、現在のコンテンツにおいてもこのような構図は定番と言ってもいいほど繰り返され続けている。『朝日…』がその文脈に飲まれずに残ったのは、作品のテーマに極めて強固な普遍性があったからだと考える。

作中で立花トーイが作り出すおもちゃは、再演される時代と共に、ルービックキューブ→ビデオゲーム→ネットワークゲーム→バーチャルリアリティ→スマホアプリ→オキュラスリフトと更新されてきたが、実際はモチーフとなるゲームが何かということ自体は作品にとってほとんど重要な点ではない。鴻上が80年代に、狂騒的な表層のドンチャン騒ぎの底に潜ませて…というよりむしろ過剰に笑いを入れることで浮き彫りにしたのは、ゴドーは来ない、神はいない、寄って立つべき物語はない、すべてに意味がないという不安(作中の「みよこ」の言葉を使うならば「寒さ」)に気づかないでいるために、「人はいつまで遊び続けていられるのか」という無謀な賭けに挑む、刹那的な虚無感だった。
鴻上自身は、『ゴドー』という題材について、「それは心情ではなく生理なのだ。心情なら涙を流せば晴らせてしまう。だが、自分の存在を、行動を何とか意味づけしようとする「意味まみれの病」は、涙ひとつ流れない硬質の不安として、人間の生理そのものとなっている。この『ゴドーを待ちながら』という戯曲はそうつぶやいたように僕には思えたのです」(※3)と語っている。

2014年、17年ぶりにこの作品が劇場に戻ってきたとき、客席の片隅でステージを見つめ、鴻上が時代に応じて書き変えたネタのくだらなさに笑いながら、私は再演を重ねても変わらずに残された数割の台詞が、年月の強度をたくわえ、それこそ「恒星の光」のように、まっすぐに届けられるのを感じた。それは客席に向かって躊躇なく正面を切って見せる(むしろ常に正面を切り続けたまま不条理な台詞を喋る)という、単純なようで技量のいる小劇場的演出を成立させる、役者の力に支えられていた。ちなみに以下は、2014年版ではじめて登場する台詞だが、時代の実感として納得できる加筆である。2人の男はもはやゴドーが何であるかを知っている。知っていて、今では期待して待ってもいない。

ウラヤマ:な、ゴドーって何してるんだろう?
エスカワ:さあ、何してるんだろうね。
ウラヤマ:どんな奴だったっけ。
エスカワ:どんなって、知ってるだろう?
ウラヤマ:うん、知ってるんだけどね。
エスカワ:ああいう奴だよ。
ウラヤマ:ああいう奴かあ。            
(※4)

一方で作中でみよこの精神を危機に追いやった「意味まみれの病」は、明らかに増幅の道をたどっているように思われる。処方箋がないのだから仕方がない。ネットやSNSが登場した際に期待された「つながれるのかもしれない」という希望は、いざつながってみれば、それが小さな蛸壺がびっしりとひしめき合い、その壺の中から各々が自己顕示欲や醜いホンネを垂れ流して反応を伺うばかりの、俯瞰で見ればディストピアとしか言いようのない光景だということも、もうわかってしまった。こんな時代に「ひとりで立つ」ことを宣言し「立ち続けることは苦しい」「立ち続けることは楽しい」と口にすることの切実さは、今がどのような時代かを結果的に「流星のように」照らしているのだと言える。昭和は、孤独な一人ひとりが、誰かとつながりあうことで、自分の存在という闇・不安に立ち向かえると僅かながら信じられた時代だった。しかしネット・SNSの普及は「つながりあうこと」そのものの困難を私たちに否応なく突きつけつつある。解消されていない病に立ち向かうために、私たちはまずこの不安を再確認するところからはじめるしかない。もしくは、そのような不安を忘れてしまうために、全力で遊び続けるしかない。

 


 

※1 『朝日のような夕日を連れて ’91』鴻上尚史/弓立社

※2 『劇談―現代演劇の潮流』扇田昭彦・編/小学館

※3 1983年公演「ごあいさつ」

※4 『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史/論創社

 

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