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アナと雪の女王

映画的なものは、「アナと雪の女王」(以下「アナ雪」)である。

「アナ雪」はディズニーによる長編3Dアニメーションミュージカル映画であり、2013年度アカデミー長編アニメ映画賞を受賞した作品である。挿入歌の「Let it go」は歌曲賞を受賞しており、日本でも2014年、『日経トレンディ』ヒット商品ランキング第1位、レンタルDVD/ブルーレイ年間ランキング第1位など、社会現象を起こすほどのヒット作である。

映画である「アナ雪」が映画的である、とは一見トートロジー的に見える表現である。しかし、現在の映画をめぐる状況では、多くの映画が“映画的でない”中で、アナ雪だけが特異的に映画的なのである。

どういうことか。ここでは「アナ雪」の映像や、音楽といった映画の内容については語らない。映画の映画らしさとは、その内容ではなく受容である、というのが、本論の主旨である。それを理解するために、私たちはまず、映画の出自を振返らねばならない。

 

映画の出自

映画はかつて観客にとって、映画館という場所で共有する”体験”のことを指していた。

1895年、リュミエール兄弟の開発したシネマトグラフ・リュミエールという複合機によって世界初の映画が上映されてから22年。日本で初めて1899年に歌舞伎座で映画が上映されてから18年。社会学者の権田保之助らによる報告で示されている1917年の映画館の状況は以下のとおりである。

敢えて寫眞に深き注意を寄するにも非ず、何か物を食ひなどして、寧ろ極めて冷靜に時々寫眞の変化を眺めては友人などと何事をか物語り、又は寫眞には全然無関係の態度にて友人等と暗き館内にて戯れ遊ぶものあり

ここに描かれているのは、映画が上映中にもかかわらず、特にスクリーンを見るわけでもなく、お菓子を食べながらおしゃべりをしている観客の姿である。映画を観ることを一義的な目的とせず、それでも映画を楽しんでいる姿である。

そもそも、映画館では黙ってスクリーンを注視する、という映画鑑賞のマナーが共有されるようになるのは、映像に音声がつき始めた1930年代前半に入ってからである。映画とはその起源において、芸術的な映像作品のことを指していたのではなく、映画館という場所を他者と共有し、身体的な活動を伴いながら楽しむ娯楽”体験”全体のことを指していたのである。

 

映画の現在

現在の映画は、芸術の一ジャンルとして認められており、映画批評もその作品分析を中心に行われている。

世界3大映画祭である、ヴェネツィア国際映画祭、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭はそれぞれ1932年、1946年、1951年を第1回として開催され、映画のもつ作品性を世に問う装置として現在まで機能してきている。

映画が芸術としての地位を確立し、映像の持つ作家性が強調されるようになるにつれ、また期を同じくして映画館が整備されて、鑑賞のマナーが共有されていったことで、共同”体験”としての映画らしさは失われていった。それはつまり、映画館で映画を観ることと、DVDやビデオを借りて家で一人で映画を観ることの違いが無くなっていく過程でもあったのである。

自宅に高音質な音響や巨大なスクリーンを設けたホームシアターを作る例などは、映画館で観ることと家で観ることの違いをなくし、映画を個人として受容したいという欲望に応える最たるものである。

鑑賞マナーの共有・映画の芸術的地位の確立、そのことが結果として、個人による映像の受容という形式を作り出してしまった。映画館が整備されたのちの映画は、共同”体験”としての映画らしさを失った映画なのである。

 

「映画的なもの」と「映画的でないもの」

ここまでの議論を踏まえ、改めて定義する。「映画的なもの」とは、空間を共有し、身体的な活動を伴いながら受容される映像であり、「映画的でないもの」とは、空間を共有せず、また身体的な活動を伴わずとも受容可能な映像のことである。

そして、「映画的なもの」の価値とは、自分が、生身の他人と確かに繋がっているということを確認できることである。これは言い換えれば、公共性に対して開かれているということでもある。

では、冒頭に挙げた「アナ雪」が特異的に「映画的なもの」であるというのはどういうことだろうか。

「アナ雪」の特異性は、おそらく2000年代に入って初めて、歌いながら映画鑑賞をする、という企画を成功させたという点にある。映像を見るときに、他の観客と空間を共有するのみならず、一緒に歌を歌うという身体活動の共有をも行っている。これは映画でありながら、好きなアーティストのライブで、歌を歌いながらオーロラビジョンを眺めているかのような事態を生み出している。

「映画的なもの」に対する批評の可能性

私たちはまだ、映画を個人のものとして受容させてきた昭和の引力の中にいる。映画館で映画を観たとしても、隣にいる観客と体験を共有したという感覚をもつことは極めて難しいような世界である。映画を改めて共同体験のメディアとして捉えることで、昭和の引力を脱した映画概念を開くことが出来る。

映画は静かに観るものである、という現在の価値観を転倒させることによって、映画館のあり方を変えることが出来る。そして、映画批評を単なる作品分析に留めずに、映画が社会の中でどのような機能を果たすかという分析につなげることが出来る。

 

 

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