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回るイメージを回すために

佐藤春夫、川端康成をはじめとし、芥川龍之介の最晩年の作である『歯車』を彼の最高傑作と評する人は多い。芥川の神経症的な感覚がそのまま私小説的に写し取られたような、あらゆる死の予覚が様々な記号――代表を挙げるなら幽霊話を起点とし、それ自体が幽霊のように振る舞う「レエンコオト」の頻繁な登場――を通して反復され、彼の日常を取り巻く様々な事象から「本来の意味」は剥ぎ取られ加害性を帯びつつ迫害の妄想は募っていく。ふと目にしたWormやMoleといった言葉からの連想は簡単に目に見える世界の色を変えてしまい、その神経症の極致の表現として歯車はある。それは頭痛の予兆であると同時に、その隣接して回転するイメージから「連想」自体を読者に連想させるような、故に死の予兆と体感されるようなイメージである。芥川の形式への異常なこだわり、緻密な計算は「差異と反復」を生み出し、構築性がそのまま感性的なものを呼び込んでいる。

 

『歯車』では『地獄変』をはじめとして自作に対する言及が明示的になされるが、一方『或阿呆の一生』や、『河童』(この作品で芥川は自分が死んだ後の周囲の会話まで描く)にはタイトルを伏せたまま示唆している。読者は簡単にその内容を連想するわけだから、地獄的な連想の連鎖は作品間を横断して構築されている。ここまでに述べたような、「作者―語り手―読み手―読者」という分かりやすい図式を超えた記号とテクストの自律性にこそ私は着目したいのであるが、この自律性を生んでいるものは何なのだろうか。そのためには芥川の「自殺」について触れなければならない。

 

近代日本文学が自殺(者)という概念に強く囚われていることはわざわざ例を挙げるまでもないが、とは言っても芥川の自殺の理由を、メディアの変化が長編作品を要求したがそれに上手く応えられなかった、だとか、宮本顕治()が指摘し中野重治が示唆した(『歌のわかれ』)ような、社会主義運動の隆盛の中で政治性のない芥川の小説が行き場をなくして「敗北」した、といった社会状況だとかその他囁かれる女性関係・親戚関係(松本清張『昭和史発掘』)に帰結させたいわけではない。それよりは「換骨奪胎の能才」(佐藤春夫)と読書量と理知主義が可能にした多彩な作品の内容(ジャンル・時代)や形式(文体・記号配置の構造)によって、その操作可能性が逆説的に作品と自分の距離を感じる空虚をもたらしていたという方がまず説得的だ。福田和也は『病気と日本文学』で、『或阿呆の一生』において芥川を仮託された「彼」が「古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけ」「彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」ことについて、「これ以上ないほど見事な比喩」と評している。文学とは鳥居を打ち立て家郷を幻想するものだと信じる福田(『日本の家郷』)は、彷徨するだけで家郷の「くらし」(芥川は『歯車』で「光のない暗(やみ)」と言う)を打ち立てられないことそのものをぎりぎり文学化しようとした芥川をそれでも評価するだろう。

 

彼が行き着き谷崎潤一郎との論争ともなった芥川最晩年の「話のない話」は、ボルヘスの賞賛を受けつつ芥川にとってはモダニズムの先端に見えたし、後世の柄谷行人が私小説を評価する芥川に対して「近代の欠如」が「近代の超克」に見えていると注意喚起しようとも(『日本精神分析』)、すべてをこなせてしまうが故に何者でもない感覚を持つ彼にとっては唯一の掛け金のなったことは想像に難くない。『或阿呆の一生』でも『歯車』でも、本屋とそこに並ぶ本が何度も描写される。本は疎遠であると同時にすがるしかないもので、自己を投影し安心しつつ落胆し、徹底した偽者性を自覚する彼は「本物」に触れてまた絶望する。そのとき「話のない話」が、物語ではなく形式の反復によってのみ打ち立てられる官能が、偽者として偽者を見せる誠実のアクロバティックな方法論として採用されてもおかしくないし、それが自殺と結びついていることも彼にとっては必然的であった。

 

記号の自律性を自殺との関係から書いてみたが、それをズラして評した小林秀雄の小評論がある。彼は「芥川龍之介の美神と宿命」において、芥川に「理知の情熱」は感じない、あるのは「神経の情緒」だけだと言う。そうだろう、小林は「逆説的風景」の蒐集と言い、「芥川氏は見る事を決して為なかった作家である。彼にとって人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した」と論じた。もちろん、芥川自身にとってそう自覚されていたこと―情熱の欠如と、「見る=忘我の謙譲をもって見る」の欠如の自覚―こそが神経症的なものの根にある。

 

『歯車』の細部においては、単なる言葉の連想やレエンコオトといったモノだけではなく、色や数も重視されている。自己と同じ異常性を連想させる「黄色」もまた「僕」に復讐を考える不吉なものであり(その逆が「緑」であり、物としては薔薇である)、鴉もまた「確かに四たび声を出」す。しかしここらで些細な記号を拾うのは終わりにしよう。私たちがこだわらなければならない細部は、やはりそれでも「歯車」にある。

 

歯車は実際に見えたのだろうか?

 

柄谷行人が『日本近代文学の起源』において文学という制度の誕生を系譜学的に考察し、風景・内面・告白・児童・病…とその近代性=歴史性=構築性を暴いていったことは有名である。結核は文学者の間でイメージとして、ムードとして「伝染」していた、という次元の話以上に、病気を個々人の病識や医者=患者関係から切り離して実体化し、因果的に措定された病原=主体を構築する仕草自体が近代医学の知的体系に過ぎない、という話である。神経症もまたムードであろうか?歯車の幻覚は創作だろうか?

 

結論から言おう。歯車は神経症の直接的な症状ではなく、偏頭痛の症状である。偏頭痛は神経症に併発するとしてもそこで見えている歯車は幻覚ではない。彼の『歯車』は、幻覚と妄想が幻覚でないものによって補強されている。ただの胃痛では幻覚・妄想の存在を芥川自身が信じ切れたかわからないのだ。しかし歯車は、他の幻覚とは異なり、全く別のリアリティで芥川に実際に体験されたはずである。ここには彼の身体と絶対的に結びついたイメージがある。彼が『夜』というタイトルを佐藤春夫の勧めで『歯車』に変えたとき、そこにあったのはムードではなかったはずで、彼がそのイメージの実在を主張できるようなものなのである。柄谷が思考していたのとは全く違う形での近代と病気の結合がある。まったく記号的ではない、物理的な次元によって、言語の、記号の乱舞が引き起こされ、そこに芥川は場としてしか存在しない。

 

渡部直己は『日本小説技術史』において『歯車』における隠喩と換喩の交錯を分析し、「類似と隣接の二つの組成力が、ここではまさに、『歯車(ワーム)』のごとく同等にして密に噛みあっている」、「それらの結びつきじたいが作り出す動力こそが、芥川の言葉の最深部を鼓舞している」と言う。そこに付け加えよう。歯車はそれでも、イメージではなく物理的なものであった。そして「隠喩(イメージ)と換喩(イメージ)の歯車」自体と物理的なものを繋いでいた。家郷なき時代を実感するとき、芥川に歯車が在ったことは幸か不幸かわからない。

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