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人間にも機械にも自然にも奉仕しない音楽のために

姫川風子はほぼ毎日小さな「作品」を発表している。およそ1分程度の「音楽」が、月額定額制で毎日メールに添付されて送られてくる。それをスマートフォンでその場で聴くことも出来るし、保存して自分だけの「アルバム」を作ることも出来る(彼女自身では「アルバム」として出してない)。「作品」の内容は基本的にはたわいのない、彼女の学校や仕事(芸能活動)も含めた日常について言葉で語るだけのものだ。タイトルも「あついよ」「こんばんはっ」というように主題性があるわけではない。喜怒哀楽があり、悩み相談や活動への意気込みを挟みながら、基本的には自分のリスナー(ファン)に向けて、素の彼女が等身大のまま語っているイメージを受ける。ラジオと違うのは、不特定多数に向けてというよりは、メールへの添付という形式とパラレルに、まるで1対1で語っているような錯覚をもたらす点である。

 

ただの語り言葉の録音が、「あらゆる音は音楽である」という無内容な観念論抜きに、「音楽」と呼べる理由と思想的な意義についてこれから述べるが、まず概念の整理をしておこう。音楽/音響の整理である。現代音楽におけるいわゆる「音響派」とは異なり、もっと一般的な意味、つまり、音楽が持っている人為的な構築性・秩序性や物語性を欠いた「音」をここでは音響としておこう。ここには人工的に作られた要素としての一音(サインウェーブ)だけでなく、規則性や旋律を持った(人為性がないという意味での)自然界の音の連なり(波の音、小鳥のさえずり)なども含んでおり、音楽的に聞こえることも聞こえないこともあるだろう。聴き手側からすればそれは作品というよりは体験、それがパッケージ化されたものであったとしても、音楽の全体的な構造よりも音色、もしくは(聴覚に限らず)五感で環境にある音とどう向き合うかが重要となる。

 

姫川の「作品」の内容に入ろう。挨拶から始まり、分かりやすい「今日あったこと」や、活動内容が日常の言語で、(少しばかりよそ行きの)普通のトーンで語られる。最後は挨拶でまた締めくくられる。その意味で毎回の「作品」は、似たような内容・形式の反復だと言えるかもしれない。しかし重要なのは、彼女の中である程度決まっている「話すこと」が終わった後、「うーん、何を話そうかな」「話したいけど言葉にならない」という雰囲気で出かかる言葉、もしくは出てしまったのに「伝えたいこととは違うんだろうな」と思わせる即興的な言葉たちだ。ここにあるのは、胡散臭いシュルレアリスムの自動筆記的な「言葉の解体」ではなく、間を持たせるための相槌を含めて、言葉の産出自体が未熟に終わってしまい意味を最初から持てなかった、そういう言葉である。

 

それ以外にも言葉になっていない音がある。あくびをして鼻をすする音、舌が乾いている時の音、唾を飲み込む時の音、服や布団の布ズレの音、録音している場所の環境音、呼吸の音。あらゆる音が無差別的に録音されている。これらの言語化される前の音響的なものは、確たる内容や構築性を欠いた言葉の連なりと組み合わさることで、彼女の言葉がそもそも音であることを再認識させ、声の音色に注目させる。ここには「音響を重視した音楽」がもたらす認識の変化がある。「音が既に聞こえていたことに気付く」というケージ的なあり方(対象としてではなくプロセスの重視)だけでなく、その後の「聴取」に焦点を当ててきた現代音楽が探ってきたような、「聞く(hear)」と「聴く(listen)」の間を往還する体験。また、彼女が「作品」の出だしで「今帰り道」などと始め、また「今からお風呂入ってくる」などと終わることもあるように、明らかに「彼女を含めた彼女の環境」を切り出すものとして「作品」は機能しており、観念ではなく現実として、「作品」の前後に音響が継続していることをファンは実感できる。これもまた、「4分33秒」以後のケージ的想像力と言えるだろう。

 

また即興音楽的な側面にも言及しておきたい。ここには2つの即興がある。ひとつは、姫川自身が、前もって用意した言いたいことを言ってしまった後で出てくる、「不用意」な言葉たち。もうひとつは、聴き手がスマートフォンを耳に当て、電話のように相槌を打って聴くことで起こる、聞き手側の即興性である。後者については佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』における、デレク・ベイリーとハン・ベニングのデュオ・アルバム《POST IMPROVISATION》批評が参考になるだろう。既に録音された相手側の演奏に対し、絶対に影響力を持てないことを分かりつつ即興演奏を行ったこのアルバムについて、佐々木はインプロヴィぜーションが持っている独特のシステム(他者との関係性が「システム」へと発展するのを防ぐようなシステム)の可能性を見出している。もちろんファンは「電話」越しの姫川に相槌を打つとき、インプロヴィゼーションではなくジャズのセッションをやろうとしているわけで、根本的に態度として異なってはいる。しかし、その相槌を大きく外し、それでも姫川の言葉が自律的に進んでいくディスコミュニケーション(他者性)まで含めて生じる「それで良い」という感覚、自律を肯定しコミュニケーション不可能性を肯定する態度は、事後的にであるがインプロヴィゼーションのそれと似通っていく。通信技術が用意したコミュニケーション可能性の錯覚は、それが頻繁に裏切られることで孤独を感じ、それは反射的に姫川にも投影され、絶対的な孤独と「繋がりたさ」においてのみ繋がるという回路を生んでいる。

 

さて話を少し戻そう。姫川の「作品」の意味のある言葉の流れ=音楽的側面から意味のない言葉=音響的側面への変化について、補足をしておきたいからだ。音声言語から意味を剥ぎ取る操作は別に珍しいものではない。単語を聞き取ることができないほどアクセントやイントネーション、発音法を解体した現代のラップや、初期から人間の声と楽器の間を連続的に行き来させる実験を行ってきたボーカロイド音楽(やその「歌ってみた」)、人間の声の執拗な反復や高速化という手法で前衛音楽/演劇などで見られてきた。しかしこれらは全く日常的な発声ではなく、非日常的な手法によって人間の声の非意味性や物質性を強調するもので、姫川が(無意識的に)やっていることとは異なる。姫川は、ただ日常を呈示することによって、そのまま「動物性」がたまに露出するだけなのだ。

 

私が日常性に拘るのは、複雑な操作抜きに、人間はそもそも動物であると考えるからだ。少し大きな話を語ろう。ここには、西洋音楽史が陥った前衛音楽のアポリアそのものを脱臼する可能性があるのではないか、と思えてならないのだ。西洋音楽の構築性を解体する動きは、モード、旋律(メロディ)、リズム、作曲・演奏の主体性(自己表現性。その解体は音楽のシステム化と即興という矛盾する手法で目指される)、音色の解体へと向かっていった。最後まで行き着いたのがいわゆる「音響派」である。その行き着く場所のなさ、「表現」の限界に行き着く速さは、ほぼ原理的に不可避だった。この解体自体が音楽史上半ば必然として語られている。音楽の制度が西洋に強く規定されている以上、確かにそうなのかもしれない。

 

しかし人類史的に、音楽の「解体」はもうひとつの方向があったのではないか。それは西洋音楽史においてはルソーが近代和声学を大成したラモーとの論争の中で既に提出されていた(『言語起源論』)。視野を広げればダーウィンが言及していたし、最近ではミズンのピンカー批判(『歌うネアンデルタール』)として知られているが、日本人研究者では岡ノ谷一夫が挙げられる (『さえずり言語起源論』) 。

 

つまり、歌が言語に先立つ、という説である。

 

18世紀のラモーが西洋音楽とギリシア音楽の連続を主張したのに対し、現代の西洋音楽史はそれを否定している。韻文と一体となったギリシア音楽と、そこから音楽と言語が分離した後、散文を再音楽化(神なり人間なり自己なり、何らかの主題の構築的な表現)した西洋近代音楽には非連続がある。ルソーはしかし、そこから更に直観で飛躍している。情動を載せる歌(旋律)こそが言語に先立ち、最初の言語は旋律と音色と抑揚によって情念を伝えるようなものだった、と主張するのだ。一方現代の岡ノ谷は、動物の音声研究から、言語が指示内容(シンボル作用)とは独立に形式(文法)を発達させたというラディカルな説を提唱している。小鳥では歌に意味内容はなく(あるとしたらメタ的な、例えば求愛=「コミュニケーションしたい」というコミュニケーション)、にもかかわらず、恐らく性淘汰によって歌が複雑化していく種がいる。小鳥の歌には十分分節がありルソーの説と親和的なわけではないが、共通点がある。単語(意味)の前に、文法の発達があった可能性だ。それに乗ろう。

 

音楽史を「過剰」に解体する=過剰に巻き戻すことで、懐古的なものを越え、神秘性も呼び込まない形で新しいものに至れないか。音響(意味内容を持たない、形式的な旋律や音)を、(言語を使った)音楽から構築性や意味を奪うような、ミニマリズム的な引き算によっては達成できないやり方で達成する。言語になりかけの、言語になったふりをした、「言語以前」の音楽。意味のないまま、例えば求愛のために並べられる言葉。それは現代詩の朗読など抜きで、もっと日常に溢れた音響=音楽ではないか。

 

姫川は恐らく今まで書いてきたようなことを意識してはいないし、そもそも「作品」を送り出している意識もないかもしれない。しかしそれは今までの議論とは何の関係もない。「生ボイス」というインフラの上で姫川は、言葉と音楽と音響を踊らせている。

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