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サスペンスの裏側へ(そして再びサスペンスへ)

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私たちがサスペンスに「せねばならない」映像がある。
この映像(「ryo(supercell) feat.初音ミク 『ODDS&ENDS』」)は、一人の歌姫と一人のクリエイターの物語を描いている。一つの光が落下して「何か」に宿り、バンドの演奏の映像を挟んだ後、(クリエイターの象徴である)ブリキのおもちゃが通信技術の残骸(ガラクタ)の中から「初音ミク」を見つけるシークエンス。スクリーンを覗き込み映し出された「初音ミク」の映像に、おもちゃは反射的にのけぞってしまう。そこには音声合成ソフト――キャラクターのイメージを付与され、そのイメージのn次創作込みで流通する――との原初的な驚きに満ちた出会いがある。
おもちゃは荷台を作り上げ、その上にスクリーンごと載せて、それを引きずり出す。自分で語ることができなかった思いはミクの音声によって代弁されるようになる。しかしそれは同時にミクの圏域への参入であり、すでにSNS・動画サイト上で集合的なイメージとしてネットユーザーによって人格を感得されるまでに成長していたミク(のイメージ)を通してしか、言葉が流通しないことを意味する。歌詞はまるでミクの語る言葉であり、作曲者・作詞者・音声調整者はミクに曲や詞を提供する「プロデューサー(P)」として後景化する。ミクをプロデュースして得た人気は、ミク人気という「虎の威を借る狐」だというアイデンティティ・クライシスを引き起こす。
おもちゃはミクを振り払おうとするが、荷台を持っているのは自分自身なので同じ速度でついてくる。このような、ミクを用いた音楽制作活動によって主体性を侵食される感覚は、逐一例を挙げることはしないが一つの類型としてミク曲の歌詞に散見されるものだ。ミク曲はその最初期から、主体性のある(恋愛もするような)一人の女の子としてのミク(歌詞はPの存在を感じさせない)、歌詞の中でPと恋愛関係を結ぶミク、Pによるプロデュースを自覚するミク(メタ的な歌詞世界になる)など、Pとの関係性自体をどのように歌詞で言及するか自体がゲーム的に思考されてきた。ここでおもちゃはジレンマに陥る。自らの葛藤を、ミクによって代弁させるしかないというジレンマだ。歌詞を見よう。「ガラクタの声はそして歌った 他の誰でもない君のために 軋んでく 限界を超えて」。自己言及的・メタフィクション的な歌詞を当の葛藤の原因たるミクに歌わせる困難と不毛がここには描かれている。この歌詞が歌われる部分で、映像ではおもちゃの顔はミクの顔に置き換わってしまっている。映像を見る者は、ミクという制御不可能なイメージに飲み込まれまいと足掻くおもちゃこそが、取るに足らないガラクタのような弱い存在であると感覚される。
ミクはPが自らを投影する対象であり、操作対象である一方で、同時にSNSや動画サイトでのコミュニケーションによって自律したイメージでもあるので、常にPにとっての「過剰さ」を抱えている。自らの欲望と他者の欲望(による被支配感)を同時に感覚する快楽は、その失調によって、ファム・ファタール(運命の女)が男に対しての致死性を帯びうるように、臨界点を迎える。ここでは、荷台のスクリーンの中のミクの消失によって関係の崩壊が描かれる。望んでいたのかどうかすらよく分からない、しかし唐突な結末におもちゃは狼狽する。
しかしふわりとおもちゃの身体が浮き上がる。スクリーンの中ではなくおもちゃと同じ空間に、「ミクのようなもの」が「おもちゃのようなガラクタ」の集合体として現れる。その「ミク」は、スクリーン内のミクのように一つの分かりやすい形をとることができない。「ミク」(=「ミクのイメージ」が生成される現実的な次元)が「おもちゃのようなガラクタ」の営為によって成立していることを可視化し、主体性の侵食は反転しつつ肯定的な評価を与えられるようになる。おもちゃは「ミク」を内側から侵食する存在でもある。
関係の崩壊時には、歌詞で「二人はどんなにたくさんの言葉を思いついたことだろう だけど今は何ひとつ思いつかなくて だけどなにもかもわかった 『そうか、きっとこれは夢だ。永遠に醒めない、君と会えた、そんな夢』」とミク=ガラクタに語らせていた。一方、「ミク」の可視化シーンでは「その時世界は 途端にその色を大きく変える 悲しみ喜び 全てを一人とひとつは知った」。ここには相互依存的で自閉的な関係がもたらす関係性の絶対化幻想(「二人」「なにもかもわかった」)が、主体性を侵食されることの相互性と適切な距離の自覚(「全てを一人とひとつは知った」)へと移行している。重要なのはここで、どちらが「ガラクタ」なのかもわからなければ、どちらが「一人」「ひとつ」であるのかも問えなくなっているということだ。主体性と環境という二分法自体が失効している。
もう一つ俯瞰しよう。おもちゃが見るスクリーンは、このような映像を私たちがスクリーンで見ていること自体を連想せずにはおれない。おもちゃ(のいる空間)はそのまま私たち(のいる空間)に重なる。だから私たちの身体は浮かび上がりだし、今までと同型の議論が成立する。これは私たちとイメージとの関係を揺さぶるだろう。今、私たちを「ミク」が包んでいない理由がないからだ。
梯子を外そう。
この映像は、一人の歌姫と一人のクリエイターの物語「ではない」。自律するイメージとそれに翻弄されつつ依存しつつ、新しいものを生み出そうと苦心するPの物語ではない。私たちは実は、それ以外の重要なものを映像の半分以上に渡って見ているにも関わらず、それをないものとして扱っている。バンドの演奏である。私たちはそれを物語の背景としてしか、もしくは背景としてすら捉えてない。BGMとして「良い曲だ」と認識していても、映像としてはほぼ無視している。
そしてこの構造そのものが、既に書いてきた物語の内側に入り込む契機となっている。この曲はミクが歌う曲であり、歌詞はミクとPの関係性を主題化し、映像にはミクのイメージが(「ミク」を含めて)登場する。だから注意がそちらに向かうのは自然である。しかし本当にそうだろうか?私たちがそれを自明のように行うこと自体がまさしく、ミクの圏域に自ら入ることを意味している。
バンド、彼らはバックバンドではなく、この曲をプロデュースするsupercellという集団(の一部)である。おもちゃが作曲を担当するryoの象徴だとしても、彼らバンドは象徴でもイメージでもなく、端的に本人たちなのだ。なぜ、生身の自ら楽器を演奏している人間よりも、私たちは象徴やイメージを優先してしまうのか。私が冒頭で書いた文言に引きずられたからではない(ほとんどの動画視聴者は私の文章を知らずにこの映像を見て、ミクとPの関係を読み取ってしまう)。それほどまでに象徴やイメージの力が強いからだ。そしてそれこそが、おもちゃが葛藤したことではなかったか。私たちは、おもちゃとミクの物語を「簡単に」読み取ってしまう事実によって、まさに葛藤の「加害者」になっている。
例えばサスペンス映画は、三浦哲哉『サスペンス映画史』によると、時間の二重性(既に映画が撮られていることという事実性や、自作自演による作家の主体性の放棄によって、現在進行形のイメージが未来完了形の宿命性の下に感覚されること)や「見えないもの」(足音、暗示的表現、メタフィクションにおける高次の眼差し…)の干渉による画面外のイメージとの関係性、無意識的な習慣・自明性を揺さぶる覚醒の経験…などを特徴とする。「梯子外し」の前の議論、特におもちゃとミクの関係性の崩壊に至る過程はこの特徴から説明することが可能な「サスペンス」と言ってもいい。
しかしその映像に重なる形で、十分見えていたはずなのに記憶すらされないバンドの映像。このPVはニコニコ動画にも上がっているが、その中のコメントでバンドの演奏に触れたものはほとんどない。しかしそれ自体が本来サスペンスフルなのである。
このサスペンス性に気付くための重要なシーンがある。動画の3:08あたりから20秒間ほど続くのは、おもちゃが演奏を眺めるシーンと演奏のクローズアップなのだ。(私たちはそれすら無視している。)一度気付けば、おもちゃが「自分で演奏をする生身の人間」に憧れていることを読み取らざるを得ないだろう。おもちゃとミクの関係性から見た時ですら、バンドの演奏は物語のBGMではなく、物語の主要な要素である。私たちが物語へと没入することによって、物語の主役(おもちゃ達)が憧れる存在(バンド)を見落としてしまうという矛盾。このシーンと対比的なのは、ミクとおもちゃの関係が順風満帆な一番のサビ部分(「おもちゃは荷台を作り上げ、その上にスクリーンごと載せて、それを引きずり出す」シーン)だ。2:01~2:25あたりに何度か挿入される、右向きに進むミクとおもちゃ。その際「二人」の向こう側にはピントがボケたバンドが背景として映っているのである。故に3:08~のシーンでの気付きは、映像を観る視点を急激に複数化してしまうのだ。
イメージが過剰に溢れる時代において、以前のサスペンス観は更新せれざるを得ないだろうし、更新すべきである。私たちがこの映像で直面したのは、直面すべきなのは、短いシークエンス(3:08~)によって発火する、「映像の二重性」「見えているが見えていなかったもの」が主導する自明性の揺さぶりである。メタフィクション化するサスペンスの次へ。イメージと現実の区分が失効した拡張現実時代のサスペンス、その一つの新しい形がここにはある。

文字数:3999

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