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イツ子はいずこへ、映画はどこへ

地球に隕石が衝突する直前、最後の一分間を少女は踊る。生中継されるその映像には視聴者からのコメントが重ねられる。降り注ぐ隕石の落下音、世界が終わるその間際になっても、画面はあらゆるものをネタとして処理してしまうような現実感のない皮相的なコメントで埋め尽くされる。彼女が歌う「rainy irony」の歌詞も、歌のタイトル通り皮肉に満ちている。要約すれば、「願いは叶わず夢には届かず手を伸ばしても何も掴めない…そんな世界すら愛する…みたいな思い込みや幻想はくだらない…大好き」というような、肯定と否定が繰り返されるもので、ここから「大好き」の対象を探ることはできない。映画『世界の終わりのいずこねこ』のクライマックスとなるシーンだ。

典型的な現代のアイドル映画である。この映画は、実在のアイドルである茉里がソロプロジェクト「いずこねこ」としてのアイドル活動を終えるにあたって制作された映画であり、映画内で描かれる「世界の終わり」は「いずこねこ(界隈)の終わり」と対応している。この映画を見る茉莉のファンは「自分たちの物語」を読み込んで、映画からさまざまな象徴を読み解く作業をすることになる。このような界隈内コミュニケーションに対する自己言及は映画に限らず「アイドルもの」の典型パターンだ。例えば運営と茉里の現実的に上手く行っていない関係性は、映画内では茉里が演じる(アイドル的な振る舞いをする)イツ子に楽曲を提供する父親が、失語症でコミュニケーションを取れず新しい楽曲も作れなくなっている、というように描かれる。映画内で隕石の到達予測が予定よりもどんどん繰り上げられるさまは、いずこねこの終わりが「あっという間に来てしまう」ファンの感覚を表象しているだろう、といったように。隕石衝突時のコメントはいずこねこの活動終了に対するファンの叫びであり、皮肉混じりのコメントもまたアイドルファンの「ヲタク」的屈折そのものだ。

「アイドル」から離れ、もう少しこの映画の「現代性」について敷衍しよう。映画とはなにか。映画館ではフィルムがデジタルに置き換わり、映画の流通は広範化し、視聴形態も多様化した。映画に限らず映像は日常に溢れ(ユビキタス化、アンビエント化)、その生産も消費も容易になり、細分化された映像はN次創作的に加工・編集されて新たな映像に生まれ変わる。SNSは映像そのものをコミュニケーション手段に変え、コミュニケーションの起こりやすさ(文化的冗長性)が映像の「リアリティ」の指標にもなっている。映画批評家の渡邊大輔はこのようなポスト・メディウムの状況下でリアリティを形作る布置を「映像圏」と定義し、「ひょんなことで映像圏的なリアリティを強固に固着させ、不特定多数のひとびとの注意をひく」ような特質を「映画的なもの」と表現した(注1)。あらゆる映像はコミュニケーションによって「映画なもの」へと結晶化しうることになる。ただしここにあるのはイメージ(非在、過去、ヴァーチャリティ)と現実(存在、現在、アクチュアリティ)の二分法ではなく、両者が「ある種の物理的な支持体ーー『ネットワーク』や『エクリチュール』ーーの力を介して相互に嵌入・溶解しあうような『幽霊的』な時間性である」(注2)。

『いずこねこ』が、渡邊の提起している映像圏という概念や映像と現実の関係を反映していることは明らかだろう。この映画は映画だけでは完結せず、その前提に現実のアイドル界隈における膨大なコミュニケーションを負荷として背負っている。また象徴的な一シーンを挙げれば、映画内でイツ子が家からニコ生的な中継を視聴者(ファン)に向けて行うシーンがあるが、不意のアクシデントで映像が静止してしまい、コメントだけが流れ続ける。アイドル(偶像、イメージ)の映画(イメージ)におけるアイドル(イメージ)の生放送の画面(イメージ)の静止(イメージでしかないことの顕示)と流れ続けるコメント(止まらない時間とリアリティ)という構造、そしてそれをまるで自分たちの過去にあった現実かのように感覚している観客。ポスト・メディウム時代を象徴するような映画と言っていいだろう。

さて、ここまでは全く、どのような環境で映画が観られるかに依存しない議論である。しかしその上で、『いずこねこ』を観賞する環境の重要性について触れないわけにはいかず、そこにもまた「映画とはなにか」に対しての一つの答えを見出すことができる。何故ならこの映画は、渋谷WWWというライブスペースにおいて、<世界の終わりのいずこねこの終わりの始まり>というライブイベントの中で、いずこねこのラストライブと同時に上映されたからだ。(念のため付け加えれば、他の時期には映画館で、映画単独でも上映されている。)

この際の観客はほぼいずこねこ(茉里)のファンである。ファンはの第一目的はライブだが、映画の同時上映には何らかの意味性があると感じている。だからこそ単なるアイドル映画以上に、象徴的な読み取りを「より」行おうとする。重要なのは、彼らから見れば、「最後の一分間」はこの映画を見終わったあとに現実に訪れる終わりである、ということだ。確かに映画の大部分(隕石の衝突以前)は、ファンから見れば「(フィクションなので)かつてなかったが、あったかのように感じられる」アイドルーファン関係の親密な過去のイメージである。しかし隕石の落下のシーンは、観賞時点よりも後のイメージ、一時間後に訪れるラストライブの先取り、未来のイメージなのだ。映画は徹頭徹尾、虚構か現実かを曖昧にしたまま、過去から未来へと観客を通り過ぎて行く。イツ子は、過去の茉里から未来の茉里へとイメージを変化させていく。映画内で示される未来のイメージにおいては、「世界の終わり」だけでなく、それに対する視聴者(ファン)の想い、世界が救われた後(そう、隕石の衝突は奇跡的に避けられるのだ、しかしイツ子は不在になる)の想いまでコメントとして可視化されている。映画の観客は、ラストライブの後に観客がどのような想いになるかを示唆された状態で、ライブの観客になるのだ。(念のため付記すれば、このような内的な体験は、映画とライブの同時上映や身体的な情動を伴ったいた「初期映画的なもの」とは形式的には似ていても別次元にある。)

再び映画的なものとはなにか。映画館での観賞はもはや特権的ではない。しかし、「人々が一同に介して、同じものを観た」感覚は、物理的な場所性によって強く担保される。そしてその特性は、ポスト・メディウム時代だからこそ、分散し多様に語られる無数のイメージに関するコミュニケーションを(ある程度)収束させることが要求される際に際立つ。説得力が求められる「界隈を終わらせる物語」を、どう現代の過剰なコミュニケーションの中で固着させるか。映画館的なスペースが要求されるのは、そこで「上映」されるのが人々の信頼と納得の源たりうる「映画」だからである。渡邊の問題意識と重なりつつも「映画的なもの」はここで彼の定義からズラされていく。「映画的なもの」とはそれでも、場所性と密接に関わっているものなのだ。もはや「映画的なもの」は映像の範疇を越え、場所を中心に展開される、形式を問わない、イメージを固着させる何かをさす。

現代の情報環境は映画的でないもの(映画的でないイメージ)を量産し、コミュニケーションによって自己参照しある程度の安定性の中で自律的に増殖・多様化していく。それは文化の豊穣を、また美学だって生み出しうるだろう。しかし、運営と茉里の「ぎこちなさ」、そしていずこねこの活動終了という例外的な事態にイメージは過剰に撹乱され、安定性が崩されてしまう。真正性ではなくコミュニケーションの持続そのものが正当性の根拠になる環境において、「閾値」を超えたイメージの氾濫はなかなか自律的に収束しない。ここにおいて、映画『いずこねこ』とラストライブは、その全体をもって「映画的なもの」である。映画を、またライブを、それが現実であるかイメージであるか問うことに意味はなく(そもそもアイドル自身がそのような二重性を帯びた存在である)、しかしそれらは間違いなく協同して、 映画の多義性とライブの多義性は重なり合いながら、イメージをある程度の範囲に誘導する。

隕石の落下シーンに戻ろう。肯定と否定が繰り返される歌詞の中で最後に歌われる「大好き」は、何に向けられたものか分からない、と冒頭で書いた。しかし歌詞からは分からないが、映画を見ると実は分かってしまうのである。隕石落下直前の映画内のラストライブシーン、一分後に終わる世界、その意味で地球全体に拡張された「現場」において、夢も未来も世界も肯定できないアイドル(世界は終わるのだから)にも可能な「本当」の言葉。「大好き」、それは生中継を観る視聴者への素直な感情だった。「世界は終わるが、ファンは好き」。それは希望ではないが、圧倒的にシンプルな、あらゆる皮肉を無効化するベタな言葉だ。映画内では最終的に地球は救われる(世界は終わらなかった)が、イツ子はいなくなる(「イツ子のいる世界」は終わる)。どうしようもない日常が再開する。けれどそれは「イツ子がいた」世界であり、「イツ子」が好いていた世界だ。

映画は終わり、いずこねこのライブが始まる。茉里はイツ子ではないし、そこで言葉として物語が語られるわけではないが、映画のイメージが、時間的にズラされた拡張現実が、未来の記憶が重なっている。イメージが響き合う「映画的なライブ」、茉里が発する「一度目で、二度目の大好き」は、ファンに届いただろうか。

 

(注1)渡邊大輔『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』(2012)人文書院、33頁

(注2)同上、193頁

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