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「返信」の文化論

「クソリプ」がブームである。専らTwitter界隈の言葉だが、有名人のちょっとしたつぶやきに対して、前後の文脈やプロフィールに書いてあるその人の属性も把握していないような脊髄反射的なリプライが飛んでくる。蓄積された議論の前提や140字以内という表現上の制限を踏まえず、書かれた文言の一部に動物的に反応してくるのがクソリプであり、心情としては、まるで細部へのフェティシズムである「萌え」が引っくり返ったようなものかもしれない。このようなクソリプに脅えて書くことに萎える感覚は、あなたが議論をするつもりなど最初からない「非有名人」であっても、SNSをやっていれば感じたことがあるのではないだろうか。これらを眺めていると、結局つまりまだ昭和なのだ、と私は思う。どういうことか。

返信には権力関係が現れる。誰かが誰かに「権力を行使できる」とは、動かない相手を「急かす」ことができるということを基本的に含んでいる。権力を持つ側は、相手に説明や変化を、返信(レスポンス)を迫ることができ、逆に、迫られた側は返信の仕方(内容ではなく、返信のタイミングや文体)によって権力関係の変更を試みることができる。(極端にいえば返信を拒否してみればいい。)だから、例えば消費者に提供される商品やサービスを広義の「言語」と捉えれば、対する「返信」(感謝の手紙、クレームの電話…)とそれへの「再返信」の観察することで、ビジネスにおける権力関係を分析できるだろう。ここで全般的な議論を展開することは出来ないが、返信の分析はそのような射程を持つものだと捉えてもらえば、以下の話を自分の関心がある分野に置き換えて考えることができるかもしれない。

冒頭の話に戻り、単純な意味での言葉による返信(レス・リプ)について考えよう。インターネットの出現によって、相手の属性が不可視化され対等で風通しの良い議論が可能になる…と思われたのもつかの間だった。匿名性とレスの簡易性は、対面して、かつ属性が分かれば当然生じていた「礼節を持った振る舞い」や、相手の能力を察することによる「怯みや気後れ」「プロフェッショナリズムへの敬意」をコミュニケーションから不要にしてしまう。結果、2chなどの匿名掲示板やアカウントが固定の「半匿名」SNSにはクソレス・クソリプが溢れ返るようになる。

SNSでは、クソリプに対してカジュアルブロック(躊躇わずに気軽にブロック)をすることが精神的健康を保つための戦略として採用されることが多いが、この事態を総体として見ると、クソレスを嫌悪して人が去る2chよりもさらに深刻といえるかもしれない。まず、匿名掲示板から半匿名SNSに進出した「気軽なクソリプ」が意味しているのは、匿名性という心理的な隠れ蓑抜きの、クソリプを飛ばす行為自体への抵抗感の低下だからだ。(一方で彼らはブロックをされると、相手の人格的な、また議論上の未熟性を指摘する。)他方、カジュアルブロックもまた、ブロックをするという行為そのものではなく、リプライを拒絶するという「閉鎖性」を正当化する空気を作ったことに意味がある。返信を期待している人間に返信をしない、次回以降返信自体させない。それが大して問題ではないという感覚は、インターネットが本来的に持っていた「自由と多様性と寛容」という思想性をないがしろにしている(ようにも見える)からだ。

しかし、これらネット上の現代的な現象は「昭和的なもの」の反復なのである。「昭和的なもの」とは、絶対性の在処をちらつかせて相手を操作しようとする態度のことだ。代議制民主主義は国民に対して「返信したことにする」技術(効率的に「納得」を調達する仕組み)だけれど、それが「詐術」だと取られると「真の代行者」が登場する。それが戦前では天皇との親近性を演出する軍部であったし、戦後は「アメリカ的なもの」、「昭和70年代」以降はインターネットだった。これらはときの形式的な権力(政府や大メディアや知識人)に対する反射的で集合的な欲望=クソリプを分かりやすく可視化し、彼らに「我々を参照して返信せよ」と迫った。(もちろん権力側は可能な限りカジュアルブロックを試みた。)インターネット上のクソリプは、クソリプが発言者に集まり炎上することを見越している。

ここで重要なのは、個人主義や価値観の多様化は、それ自体ではポスト昭和とは実質的に関係がなく、むしろ昭和の乗り越えのように見えてしまうことによって、昭和を延命させる効果すら持っているということだ。昭和後期に世間的に共有されるようになってきた個性と多様性と自由に対する不可侵性の感覚は、昭和前期の国家や天皇に対するそれの陰画でしかない。日本で広がった個人主義とは、相対主義(「間違い」の非存在)と自己の感性・感情の不可侵性をベースにした「私の気持ち」に対する絶対的な感覚のことであって、個々人が心の中に「軍部」を持っている状態である。今度の「軍部」は天皇を忖度するのではなく、「絶対的なものなどない」という理念(強いて対象を措定するなら日本国憲法)によって自らを逆説的に絶対化する。ここまで含めて「昭和的なもの」であり、生産者から消費者へ、組織から個人へといった権力(返信を要求できる主体)の移行、もしくは国民の総表現者化(や可能性としての総起業家化)といった昭和後期から現在まで続いている現象は、①能力と運によって成功した人間の素直な自己絶対化 と ②「弱者」の「お上」に対するおねだりと拒否権の発動 を結局もたらしていて、「ポスト昭和」的な想像力とは言えない。お天道様が見ていたように、憲兵が、会社の上司が、世間様が見ていたように、インターネットが見ている。かつては「見る」だけで「返信」など求めなかったお天道様は今、Twitterの通知アラームになりかわってこう言っている。「私たちを納得させよ、140字で」。

ここで私はポスト昭和の想像力、その端緒について「返信」文化のささやかな一例から語りたい。直接的には返信をせず言及で終わるTwitterの「引用RT」の分析も面白いが、ここでは地下アイドル文化に着目したい。地下アイドルは親近性がウリであり、ライブ会場(現場)での視線の交錯である「レス」、物販でのファンとの対話、ブログ内でのファンコメントに対する返信、Twitterでのリプライ、ニコ生やツイキャスについたコメントに対する放送内での言及…いたる場所に相互返信の仕組みがあり、高度に「返信の文化」を発達させているからだ。それが基本的に相互承認の契機となっているし、アイドルから「良反応」をもらうことを競うゲーム性をファンの間に生んでいる。その上で私が取り上げたいのは「生メール」だ。生メールとは、アイドル本人からリアルタイムで個人の携帯電話にメールが届き(同じ文面がサービス利用者に一斉送信されているが私信として感覚される)、それにファンが返信することができて、かつそれもリアルタイムでアイドルに届く、というサービスだ。ただし、アイドルからの再返信はない。

かつて電話以外の通信手段が手紙からメールに移行することで、返信は「気長に待つもの」から「タイミングが関係の親密さの尺度となるもの」へと比重を移していった。さらに「既読」表示機能のあるLINEが隆盛すると、返信がなくてもメッセージが届いていることを確認したいという欲望が顕在化した。しかし生メールはこの流れに逆行する。返信は届いたのか、読まれたのか分からない。読まれてもどう思われたのか分からないし、気長に待っても返信は来ない。つまり、生メールは返信による自己承認を求めていない(擬似恋愛とは様相が異なる)。加えて自分の返信は他者の目に見えず/他者の返信は自分の目に見えず、だからこそ、ファン間のゲーム性を欠いた、アイドルへの思いやりの言葉が自然に綴られてしまう。ここには逆説がある。Twitterのような公共の場でのやり取りにこそ絶対化された自己がクソリプとして染み出し、アイドルとのやり取りでも(現場、ネットを問わず)他のファンの目を前提したゲーム性が駆動するが、生メールは主観的にはプライベートな、一回限りのやり取りだからこそ、相手を自分がコントロールできない他者として扱う振る舞いをしてしまうのである。

昭和とは、その前半期においては「国家や共同体のルールを無視するな」と返信を迫られた時代であり(同時に、いざとなれば「真の代行者」によって拒否権を発動して逆に返信を迫った時代であり)、後半期においては「私を無視するな」と絶対化した個人が返信を迫った時代だった。しかしアイドルからの生メールは、返信が可能だが返信を迫られず、また、返信をする際に再返信を迫ることもできない。そもそも「返信」への過剰なこだわりと同時に、「返信」が頻繁には来ないことを知っているのがアイドルファンであるが、生メールは「返信」を明確に制度設計することで、返信を前提とせず、無視されることを許容するスタンスをアイドルとファン双方に生み出している。そしてアイドルは、再返信をすることがないながらも返信には目を通し、返信との因果関係を説明しないままに影響を受けて変化していくだろう。

アーキテクチャによって、ポスト・クソリプ時代の返信の形式を規定する。それは人々の「返信観」、主体性のあり方を変更するかもしれず、「絶対性の在処をちらつかせて相手を操作しようとする」心性を変える可能性を持っている。ポスト昭和時代において語られる言葉は、相手の心に届いたことが確認できないかもしれない。そこにいる他者は、価値観が違うだけでなく、言葉が届きすらしないのかもしれない。しかし、言葉とは、他者とはそういうものではなかったか。

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