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伝え方は何割?

内田樹の文章を読んでいるとしばしば、内容に深く同意するというよりも、その特徴的な話法に翻弄されているうちに、気がつけば納得してしまっている、ということが多い。内田樹が真っ先に打ち出してくるキャッチフレーズは常識を覆すものであり、そのことに動揺しているうちに、これまで通ったことのない迂回路へ、容易く引きずり込まれるということがたびたび起こる。例えば内田樹はよく、主張の内容を詳らかにするよりも先に「いま起こっていることは、何らかの形でこれまでの歴史とは反対である」と言い切る。

 

憲法が行政府を掣肘することをこれほど嫌う憲法草案というのは、憲法学史上でも希有のものではないかと僕は思います。つまり、この改憲案は、逆説的なことですが、憲法ができるだけ機能しないことを目指す憲法草案なのです。

(内田樹『街場の戦争論』、ミシマ社、2014年)

 

老人たちのつくる政権はあとさき考えずに暴走し、若者たちが「少し落ち着け」と彼らに冷水を浴びせている。まるで反対です。こんな不思議な構図を私たちはかつて見たことがない。だから、今起きていることをよく理解できないのです。

(内田樹の研究室「あるインタビューから」http://blog.tatsuru.com/2015/12/06_1134.php)

 

現在の政治状況が真逆なわけでは決してなく、もう少し込み入った状況であることはこれらの文章の後に説明が入るが、冒頭でこのようなぎょっとする枠組を明確に示すことは、読者の胸ぐらを一気にぐっと掴むことの出来る有効な手段のうちのひとつである。そしてこれらの文章の組み立て方は、コピーライターの佐々木圭一が『伝え方が9割』第3章「強いコトバ」をつくる技術において提唱している②ギャップ法に、極めて近いものである。

 

①最も伝えたいコトバを決める。

②伝えたいコトバの正反対のワードを考え、前半に入れる。

③前半と後半がつながるよう、自由にコトバを埋める。

たったこれだけです。カンタンですよね。

(佐々木圭一『伝え方が9割』ダイヤモンド社、2013年)

 

佐々木圭一は「強いコトバ」をつくる技術について①サプライズ法②ギャップ法③赤裸々法④リピート法⑤クライマックス法の五つを提唱しているが、これは内田樹の文章に頻出する語法でもある。その中でも特に代表的なものを以下に列挙する。

 

①サプライズ法

シンガポールをモデルにしないで!

(内田樹『街場の戦争論』、ミシマ社、2014年)

 

③赤裸々法

ちょっと武者震いするようなよい質問であります。

(内田樹『困難な成熟』、夜間飛行、2015年)

 

④リピート法

人を見る目というのは、コンテンツの理非については判断できないが、「この人の言うことなら信じてもよい」と判断できる力のことである。あるいは、話のつじつまは合っているが、「この人を信じてはいけない」と直感できる力のことである。

(内田樹『内田樹の大市民講座』、朝日新聞出版、2014年)

 

⑤クライマックス法

読者は冒頭の一節を読んだ瞬間に、すでにラカンに対する「絶対的な遅れ」を強いられているのである。

(内田樹『他者と死者』、海鳥社、2004年)

 

その語法を使うことによって、本来であればシンプルな主張が、まるで途方もない新しい刺激に満ち溢れた主張であるかのように変貌を遂げている。いや、変貌を遂げているようにわたしたちは進んで錯覚しようとしている。わたしたちの頷きたい欲望に忠実な言葉を、内田樹は冷静に選択している。内田樹の文章を読んでいて感じる快楽は、めざましい発見に触れたことで発生する快楽もあるが、その強い語法にずっと浸っていることで、次第に芽生えてくる快楽も一定の割合を占めることは否定出来ない。内容ではなく、語り口ですでに、わたしたちは頷く準備を整えているのである。

 

大阪の有権者が選択を求められたのは政策の「中身(コンテンツ)」ではなく、候補者の人間性あるいは手法という「容れ物(コンテナー)」だったと私は理解している。

(内田樹の研究室「株式会社化する政治」http://blog.tatsuru.com/2015/11/27_1602.php)

 

この言葉はそのまま、一定数の内田樹の読者についてもあてはまる。批評を普段全く読んでいない知り合いが内田樹だけは読んでいる、という事態にわたしたちが時たま遭遇するのは、批評的なものには触れたいけれども、批評の持つある種の堅苦しいフォーマットには拒絶感を抱いている者たちが、内田樹の採用している「強いコトバ」に引き寄せられた結果である。

内田樹は橋下徹や安倍晋三など(☆1)、重要な局面で内容よりも伝え方やパフォーマンスが先行してしまっている政治家を粘り強く批判している。その論旨には頷くところもないわけではないのだが、だからといって内田樹自身が反対の位置に佇んでいるかというと、必ずしもそうではない。内田樹は伝え方やパフォーマンスに、むしろこだわりの強い作家である。ただ橋下徹や安倍晋三と違って、独裁的な方向へ進もうとはしない。その事実が何よりも大きい。勘違いをしてはならない、「強いコトバ」自体は、なんら批判されるべきものではない。わたしたちが本当に目を凝らして確認しなければならないのは、言葉の伝え方やパフォーマンスではなく、言葉の力の使い方である。その点を誤って捉えてしまうと「強いコトバ」に反応するだけの哲学的ゾンビに、簡単に成り下がってしまう。

 

私たちの記憶に残るのは「納得のゆく言葉」ではなく、むしろ「片づかない言葉」である。

(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』、文藝春秋、2006年)

 

本稿を執筆するうえで、ひとつだけ懸念があった。それは「強いコトバの多い箇所と、興奮して読んだ箇所が一致してしまうこと」であった。幸い「強いコトバ」を発見するたびに丹念に付箋を貼っていくに従って、次第にその箇所は一致しないことが明らかになっていった。しかしまだ懸念は残る。少なくとも自分は一致しないことを、実際に確かめたに過ぎないからである。「強いコトバ」に強く興奮するひとを、どうしてこれほどまでに恐れるのだろうか。きっとまだ、内容がいちばん人を動かすと、信じていたいからだろう。それは稚拙な願望であるかもしれないが、「強いコトバ」が最も力を持つというのなら、それは独裁的な政治家が行っていることと、区別がつかない。

 

☆1

橋下徹批判

内田樹の研究室「ビジネスマインデッドな行政官について」

http://blog.tatsuru.com/2012/07/27_1617.php

安倍晋三批判

内田樹の研究室「神奈川新聞への寄稿(ロング・ヴァージョン)」

http://blog.tatsuru.com/2015/05/20_1157.php

文字数:2749

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