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つれづれぐさぐさ

①2015/11/05/15:07

 

もし仮に 再び元に戻ったとしても 同じものではいられない 4年半前のある日 地球の振動を感じた私の体は そうつぶやいてゆっくりと制作を 停止していった(鴻池朋子「ゆっくりと停止」、2015年)

 

「鴻池朋子展『根源的暴力』元に戻ることが出来ない、時を戻せないということがいちばん残酷な、根源的暴力なのかなと思いました。腹を割かれた魚の絵があったんですけど、命が失われた瞬間の表情を保っているように思えて。それが心臓を慢性的にぐさぐさ刺されているかのように痛かったです。目に焦点をあてた作品が多かったんですけど、あらゆる目が僕を凝視しているみたいで。色々などぎつい色の目と、目が度々あって、その度に吐き気がしちゃって。いい大人が、神奈川県民ホールギャラリーなんていうパブリックな場で、耐えられなくてうずくまってしまいました。情けないですよね。ヘラヘラ生きていることを咎められたような気持ちになりました。僕の生き方は生きている体から意識的に目を背けようとする、軽薄な態度だと、予め薄々わかっていたことを改めて突きつけられました。震え上がりました。そこにある、いや、そこにいる作品は、作品だから当たり前のはずなのに、無理矢理留まっている、という様子で。誰かが何か合図を出したら、いまにもここから飛び出して、外を闊歩してしまいそうで。終始身構えていました。誰かに襲われるわけでもないのに。(綾門優季・談)」

 

②2015/11/05/16:04

 

根源的暴力、それはすなわち尿意である。尿意というのはいい大人が問題にするにはあまりにも恥ずかしいことであるが、実際には大変由々しき問題として、しばしば私たちの前に立ちはだかる、人類にとって永遠の課題である。筆者は現在、破裂するほどの尿意に半泣きになりながらローソンに飛び込んだものの、使用中のトイレの前で歯を食いしばって待つことにはとても耐えられず、徒歩一分のKAATに爆走している最中であるが、偶然にもKAATは、尿意に悶え苦しみ駆け込んだ客にトイレを貸さず、笑いながら放置するコンビニ店員の悪意を、ラストシーンで面白おかしく描いて物議を醸した、チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(KAAT、2014年)の上演された劇場である。ここではみずからの置かれた現在の状況と作品の根源的なテーマとの響き合いについて論じることにする。

 

岡田 どんな人だって自分自身の境遇っていうのがあって、その中でいろいろトラブルなんかを抱えて生きてますよね。で、そんな自分自身とこの作品が、近いか、遠いか、というそれだけでフィクションを受け取るのは、やっぱり貧しいことだと思うんです。(『エクス・ポ テン/イチ』HEADZ、2010年)

 

上記の岡田利規の発言は至極もっともなので、やっぱり論じないことにする。

 

③ 2015/11/05/16:56

 

緑と白と青。というその三色。が、順番に、上から順番に、縦に、、並んでいる、っていうそれは、見ているとどこか、心の安らぐ、心の和らぐ、親しみのある、、配色。三色。

(犬飼勝哉『夜光』、2014年)

 

コンビニの存在は、見知らぬ土地に訪れる人々を、時に優しくいたわってくれる。わっしょいハウス『夜光』(SNAC、2014年)は普段の生活におけるファミリーマートが、どういう位置を占めているのかについて、様々なエピソードを連ねて、徐々に浮き彫りにしていく作品だが、わたしはむしろ、城崎への心細い一人旅で、温泉や郷土料理の店など、城崎ならではの体験が可能な環境に置かれているにも関わらず、体が勝手にファミリーマートへ吸い寄せられたことを思い出していた。あれは普段の生活を呼び覚ますための儀式であったのだ。それは散々土地を巡った末に、自宅に着いた瞬間に「やっぱり家がいちばん」と口走ってしまうわたしの限界を示している。自宅までの到着を待たずに、旅先のファミリーマートと自宅付近のファミリーマートを重ね合わせ、擬似的な安堵感を捻り出す苦肉の策である。電車代が勿体ないからと、KAATからblanClassまでの微妙に遠い距離を、徒歩でてくてくと歩き続けるわたしの二度の休息ポイントが、どちらもファミリーマートであったことは、ただの偶然ではない。コンビニは最早、第二の自宅と化しているのだ。あなたが最も落ち着く、第二の自宅は何処だろうか?ファミリーマート、ローソン、セブンイレブン、サークルKサンクス…。

 

④ 2015/11/05/21:47

 

A「女の子には内緒って一度も見たことがなくて、ようやく今日はじめてみれたんですけど」

B「黄色と青色がきっぱりわかれてて綺麗な舞台でした」

A「『手のひらコロニー』(blanClass、2015年)で印象的だったのは、小さな街を模した美術が徐々に消えていくじゃないですか」

B「頻繁に空き巣が来て、盗んでいくんだよね」

A「街のディテールが堆積していくのに、逆に小さな街は壊れていくっていう」

B「でもラジオ体操が良かったですよね、どれだけ姿が変わっても、ラジオ体操はする。この営みが繰り返されるかぎり、どれだけこの街が壊れても、大丈夫だなって」

A「大喧嘩で小さな街が完全にぶっ壊されるのは笑った」

B「シャボン玉が街の残骸に積もるのも、美しかったですね」

 

⑤ 2015/11/06/00:00

 

彼は家に着いた瞬間に、宮沢章夫『ヒネミの商人』(『戯曲に乾杯!』座・高円寺2、2012年)をふと思い出した。彼はリーディング公演でしかその上演をみたことがない。それでも、その戯曲の奇妙さを理解するには充分な体験だった。残念ながら上演に足を運ぶことが出来ていないが、もともと宮沢章夫の岸田國士戯曲賞受賞作『ヒネミ』の続編として描かれた本作は、架空の地図が物語の推進力となる。その地図が明示されるわけではないので、観客は断片的な情報を脳内で継ぎ合わせ、架空の地図から架空の街を想像し、その中で生きる架空の人々のリアリティに近づこうと努める。いや、勿論、芝居はすべてが架空の堆積でしかない。しかし『ヒネミの商人』において重要なことは、架空には架空なりのリアリティがあり、それは彼の現実とたとえ別の位相のものであったとしても、その絵空事の度合いは全く変わらないと思わせるほどの説得力が、『ヒネミの商人』には備わっているということである。荒唐無稽な設定も、架空の地図に描き込まれているのなら、それは架空の街の架空の人々にとって、疑うのも馬鹿馬鹿しいぐらいの真実である。こちらからとやかく文句をつけるべき事柄ではないのである。彼が今日、拙い手描きで作成した地図に従って知らない道を歩いたことと、架空の地図を作成して宮沢章夫が戯曲を執筆したこととの差異を、あるいは類似点を、なるべく厳密に考えようと試みはしたものの、彼は諦めざるを得なかった。その境界は酷く曖昧なのだ。この文章には彼が歩いた道が細かく記されているわけではない。従って、この文章の読者は天文学的な確率でしか、彼と同じ道を歩むことは出来ない。いや、歩んだとしても、それは2015/11/05の道では決してなく、上演を終えた作品を遡って観劇することもままならない。架空の批評だと非難されても、それに反論する確かな証拠は何もないのだ。彼の吐き気、彼の尿意、彼のファミリーマート、彼の境界、彼の道はこの文章のなかで架空の地図と密接な関係を保ちながら、まるで真実のような顔をしている。IMG_20151105_185308.612

文字数:3053

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