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神様ABC

A案

神は待たれていない。

青年団若手自主企画 山内企画『idiot』(アトリエ春風舎、2016年)で、百舌と蜂鳥の二人はひたすらにはしゃいでいる。前後の脈絡のない思い付きを述べては演じ、飽きたらすぐにやめてまた別のアイディアを画策する。彼女たちはただただ時間をつぶして待っているようだ。舞台中央の黒電話に電話がかかって来るのを。…ここまでのあらすじをみても薄々察せられる通り、これはサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(ここでは2009年に白水社から出版された、安堂信也/高橋康也訳の新装版を参照する)の翻案であるのだが、この作品の最大の特徴は「ぼんやり待っていないということ」である。

百舌 物欲しげにこうやって待ってるのって、縛られてるみたいで嫌じゃない?★(山内晶『idiot』、2016年)

なお、★の位置は揃って笑う、という戯曲の指示であり、★の指示の含まれていないセリフのほうがむしろ少ない。この直前に、蜂鳥は電話を聞きもしないで切り、百舌は電話を唐突に蹴る。恐らくは神を象徴している黒電話に対して、二人は冒涜的な行いを繰り返しながら、一緒になってくすくす笑い続けている。いるのかいないのかもわからない神を待つという行為の愚かさに耐えられないとでもいうように、彼女たちは目の前の面白い思い付きを面白く演じては笑い転げることのみに全力を尽くしている。そこでは神の存在感はとても軽い。パーティーにとりあえず呼んではみたけど来ても来なくてもどちらでも構わないひとぐらいの距離感の、神。

蜂鳥 ……また上部だけ取り繕うの?(同前)

蜂鳥が時間を無駄に費やすことの虚しさに脱落しても、百舌は一人で延々と喋り、笑顔を振りまき、駆け回る。この段階に至って、もともとせわしなかった百舌は完全に待つことをやめる。それはほとんど白痴が暴れているようだけれども、例えば坂口安吾『白痴』(中央公論社、1947年)などと異なるのは、そこに絶望の影がつゆほども見受けられないことである。逆に言えば、待つという行為自体が絶望の影を帯びており、もう現代人にとって牧歌的に「ぼんやりと待つ」などという割に合わないことは、選択肢として綺麗に除外されつつあるということを、悲しみを覚えながら認識せざるを得ない。自分で作り出した楽しみを無尽蔵に消費することの虚しさに、気づかないように明るくふるまうことの出来る百舌は、愚かでありながら賢い。idiot。

B案

神は入れ替わる。

九井諒子『竜のかわいい七つの子』に収録されている短編「わたしのかみさま」で主人公は思案する。「お米にはひと粒ふた粒に七人だか八十八人だかの神様がいるんだから残したらばちが当たるよ」という母親の発言に「……食べられた神様と残された神様はどうなるの?」と問いかけ、次の瞬間には苦悶の表情で犇めいている無数の神々のことを想像し、憂い顔を浮かべる。主人公はある日道端で、埋め立てられた川の神を拾って水槽で飼い始めるものの、日に日に弱体化していく神のことを心配する。しかし、埋め立て地に建てられた集合住宅にも、集合住宅の神が宿り始めていることに気が付く。

どちらが良かったかは人によって違うかもしれない でも何もなくなったわけじゃないんだ(九井諒子『竜のかわいい七つの子』エンターブレイン、2012年)

もちろんこれはきれいごとのバリエーションのうちのひとつであり、だからといって川を埋め立てて集合住宅を建てることを無条件で肯定するわけにはいかない。ただここには戒めが含まれている。それは「自然に神は宿り、人工物には神は宿らない」という思い込みで行動しないほうがいいということである。万物に神が宿っているのだという説を採用すれば、何かが失われるたびにその神は滅び、何かが生まれるたびにその神は宿ることになる。神も新陳代謝するのだ。

君がよく手入れをしてくれたからこの水槽の中に世界ができたのだ ありがとう 君のおかげで私はこの水槽の神になることができた(同前)

死んだと思われていた神が実は生きていたという救いがこの妙な短編のひとまずの着地点になっている。ただこの結末に不安を覚えてしまうのは、主人公以外の家族が誰もこの水槽の世話をしているようにはみえないという点である。主人公は学生であり、いずれ進学でこの土地を離れてしまうかもしれない。そうなったときにこの神が水槽以外の新天地をみつけることはできるだろうか。神が宿るほどの新しい世界を創る者が、また目の前に現れてくれるだろうか。

C案

神は人を殺そうとしている。

私が死なないのは、私はどんどん作られるからだ。私の父は人だ。私の父である人を根絶やしにすれば、私が生まれてくることはない。供給を断つのだ。これはいけると思う。だから私は今、人を根絶やしにしようかしまいか考えているのである。人なき所に神在らず。うーんジェノサイド。(前田司郎『誰かが手を、握っているような気がしてならない』講談社、2008年)

自殺したい神がジェノサイドを目論んでいると悟った、神の声を聴くことの出来るナオは、しかし家族に妄想癖や精神病を疑われてしまい、周囲に危険を知らせることが出来ない。神が人を守る存在であるという保証はどこにもない。神の語りと人の語りが何の説明もなく縦横無尽に入れ替わるこの小説において、神と人との区別は混沌としており、しばしば今語っているのはいったいどちらなのか、判然としなくなる。なぜか人は神を、まるで聖人君子であるかのように扱うが、そうであるならばこのような世界になっているはずがないのだ。神がわがままであることを許さない、人の態度こそがわがままなのだ。

※※※

人に宗教を聞かれたときにとりあえず無神論を採用していると答えることに戸惑いを隠しきれない。簡単に考えは入れ替わるからだ。救われたときにだけ神の存在を信じる、ということではない。むしろ未曽有の事故や災害、テロなどが起きているときに、わたしはC案を採用する。同じように、誰かがわたしのことを見守っている気が全くしないときにA案を採用したり、足しげく通っていた店がなくなってしまったときにB案を採用したりもする。神を信じるのではなく、神に対する考え方を、しかも信じたり信じなかったりすることが、国が国なら、宗教が宗教なら、とても許されることではないと理解はしている。それでも、わたしはこのような在り方でしか、現代社会を生き抜くことが出来ない。常日頃、待ってくれてもいない、入れ替わるかもしれない、誰かのことを殺そうとしている神のことを意識していては、わたしは狂ってしまう。

文字数:2700

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